「硝子杯」



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 (2) 「夏燐」

 燦燦と降り注ぐ正午の陽に、庭の葉が照る。銀と白に光る緑の葉は、若芽を過ぎたばかりで瑞々しい。戸を全て開け放しても陽射しがあまり入らない夏向きの部屋は、外の眩しさが嘘のように涼しかった。日向の方からうっすら流れ込む暑気も、畳の上に寝転がった体にはあまり関係がない。
 浴衣を留めたちりめんの帯が半分とけて、目の前にあった。藍に染めた正絹は僕のお気に入りだったけれど、今は手にする気にもならない。
 むりやり舗から戻されたので、僕はむくれていた。意識を奪われて、気が付いたらもう部屋の布団に寝かされていた。家に帰るのが嫌だったわけじゃないし、やっぱり舗より家にいるのが落ち付くけど、腹が立つ。僕は全然舗に行く気もなければ帰ってくる気もなかった。それなのにそうされたのが、思い出せば出すだけ不愉快なのだった。
 その気分を逆撫でするように、庭に面した廊下から軽快な足音が近付いてくる。僕はのっそりと体を丸め、しかめっ面を外から背けた。

「夏燐」

 振り向こうとしない僕を何の遠慮もない手が抱き起こした。相手の正面に向かされる。萌黄の着物に、後ろで一つにまとめられた長い髪。頭一つ分は上についた人の善さそうな顔が、僕を見下ろしてまろやかに笑った。

「夏燐、いつまでむくれてるの」
「…………」
「ああ、帯をこんなに崩して」
「……、し」

 立ち上がらされ、体の前から腕を回された。拒もうと伸ばした手が相手の後ろに突き抜けて、すんでのところで背に掴まった。危なかった。すぐ目の前の胸板に顔面を激突させてしまうところだった。僕が安堵の息を吐いているうちに、男は帯を結びなおしたらしかった。きゅ、っと布の締まる音がする。自分でしたってものの数秒で済む蝶々形の兵児帯だから、造作もない。男は嬉しそうに目を細めて睨み付ける僕の頬に口付けた。

「夏燐、おかえり」
「…史機」
「はい?」
「おかえりじゃないよ、また突然で、行きも突然で、さんざん!」

 舗に連れて行かれたのは一昨日。戻されたのは今日。どちらも寝ているとこをこっそり抱えられてだった。もしその最中に目が覚めなかったら、起きてみればなぜだか帰宅、という状態だったのだと思う。

「安眠妨害なんだからね」
「ごめんよ、寝ていたら起こさないようにと言ってるんだけど」
「あのさ、前もって知らせてって千回ぐらいは言ったよね」
「そう?」
「そおう」
「千回だなんて大げさだね、一昨日してきた念押しは確か、三回だけだったと思うけど」

 微笑んだまま史機が言う。
 本気で言っているのかそうでないのか良く分からないんだけど、たぶん本気。思わず出した左手は捉えられて、叩く前に下に戻されてしまう。

「だめだよ」
「…、」
「花林糖をたくさん用意しようね」
「……、」

 押さえられた手は全身の力を込めてもぴくりとも動かない。うかべられた史機の笑みはやわらかなままで、僕は口を尖らせた。怒っているという顔じゃないのに、このばか力は何。いつも嬉しげに庭木を手入れするほっそりとした手は、僕を掴んで離さない。睨み付けた僕に、史機は何事もないような顔で優しく頬を緩めた。

「なあに」
「…、もう、もうもう、絶対だからね、花林糖だからね」
「うん、…それにしても、手が早いのはいつ直ってくれるのだろう」
「知りません」

 離された手を軽く動かしてから、ふんと顎を逸らせた。
 食べ物でつられたみたいになるのはちょっと嫌だけど、花林糖をくれるっていうのは心惹かれた。この頃甘納豆が気に入ってそればかりだったけど、やっぱり黒糖好きとしてはね、あいまをあけずに食べなくちゃね。もしかしたら、このまま不機嫌なふうを装えば、他のおやつもくれたりするのかな?
 そっと顔色を伺ってみると、史機は僕を見て目を細めていた。どこか眩しげな様子なのに、一瞬とらわれる。見つめた僕の視線に気付いて、いつものやわらかな表情に戻る。史機、と訊きかけてやめた。訊かなくたって、分かる気がする。
 僕は後ろ手に帯の具合を確かめると、ずっと抱き寄せられていた体を離した。追う手を抜けて、廊下から庭に飛び降りる。史機によってこまめに整えられた庭は、まるでそれそのものが一つの世界のように高く深く広がっている。
 僕は庭から空を見上げ、直視した太陽の眩しさに目を細めた。小石が裸足に触れて心地いい。陽射しに灼かれた地面から、ぼんやり熱気が立ち昇る。一歩を踏み出すと、どこかの軒に下げられた風鈴の音が風と一緒に聞こえた。

「夏燐、怪我するよ」
「大丈夫だよ」
「まったく、仕方のない子だね」

 呟いた史機の声と合わせたように、宙を二組の草履が飛んでくる。それを受け取って、史機は庭に降りた。

「ありがとう、これは手で持っていくから」

 虚空に向かって礼を言った史機は、僕を追いかけてくる。草履を持ってきたのは見えない者たちで、その彼らに史機は礼を言ったのだった。僕の方へ歩いてくる史機の向こうには、開け放した部屋の暗い空洞のような姿が見える。彼ら、見えない者たちはこの家で家事などを手伝ってくれていて、僕には殆ど分からないけど史機には彼らの存在が捉えられているらしかった。僕の草履を手にした史機は、庭を過ぎた風を肌に受けて、嬉しそうに目を細める。
 史機を放って土の上から庭に敷かれた飛び石に移ると、足にひんやりと冷気が通った。全身から瞬く間に熱が奪われる。植木の陰になった道は、日向とはまるで温度が違う。浴びた光で火照っていた肌は、薄暗闇の中で鎮まった。見上げた真上は枝がみっしりと覆って陽射しが通らず、空も分からない。僕は枝の重なったのを見つめてから、後ろを振り返った。

「史機、草履はく」
「はいはい今行こうね」

 石の冷たさに指先が痺れるので、裸足ではいられなかった。
 史機はのんびりとした足取りで飛び石を進み、手にしていた草履を僕の傍に置いた。僕は史機の肩をかりて片足ずつ足の裏についた砂を払う。履き終えたところで、道の先から人が来るのが見えた。首を傾げると、向こうが手を振る。

「よう夏燐、また仕置きされているのか?」

 姿が見えるなりばかなことを言う。義晴だった。
 顔を確認するなり僕は飛び蹴りを仕掛け、史機はその後ろで声をたてて笑った。



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