「硝子杯」



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「誰が何だって、言っておくけど、そういうことをされたことなんて一度だってないから」
「そうか?信じられんが」
「信じなくたって構わないけど、人聞きが悪い、だから義晴はヤなんだよ」
「おいおいだからってそりゃあない」

 僕は義晴の前から葛きりの入った器を引いて、自分の前に取り置いた。
 例によって見えない人たちが持ってきてくれたおやつを、こんなやつにやるのなんて勿体無い。とろりと広がる黒蜜の甘い匂い、透かしの入った硝子の中で眩く光を跳ね返す透明な葛。それはいち早い夏と涼しさと感じさせるとっておきのもの、不愉快な男には一口だってやるものか。
 客を連れて出てきた部屋に戻り、史機、史機の正面に義晴、その二人の間の外側に僕、とコの字になって座っていた。取り返されないよう、史機の方へ器を遠ざけて、僕は手を伸ばす義晴を目でもって威嚇する。

「夏燐のはそこにあるでしょう」
「…、」
 史機の声に、僕はしかめ面になった。
「やだ」

 やなものはやだ。への字に口を曲げた僕に、史機の手が伸びる。止める間もなかった。あっさり器は元の位置に戻されて、憮然とする。

「悪いな、」

 史機によって目の前に戻された葛きりを見やって、義晴が笑う。
 いけないのはこちらだから、と史機は目を細めてみせ、ひとつふたつ、自分の器から僕の方へ葛を分けてくれる。真意を量りかねて躊躇するのに史機は肯いてくれたので、僕は器を手に取り、増えた葛に口をつけた。うっかり破顔してしまった僕に史機と義晴は顔を見合わせて、声をたてて小さく笑った。
 僕に続くように器を手にして、二人は近況などを伝え合った。口いっぱいの甘みに陶酔する僕を他所に、わけの分からない情報を幾らか交換し、確かめ合う。放っておけばいつまでもそんなことを話している二人だから、僕が器の中身をすっかり食べ終えてしまっても、話を終わらない。二人の間には仕事の付き合いがあり、時々こうして会っては僕を退屈にさせるのだ。
 することもなくぼうと惚ける僕の先で、空になった器がじりじりと畳の上を擦っていく。少し動いて、止まって、のたのた揺れて、止まって。まるで命がこもったように、器が動く。僕は目を見開き、喜色に唇を引いた。見えない人が片付けをしようとしてくれているらしい。彼らは平均的に小さい姿らしいけど、そういった中にも大小はあって、今器の傍にいるのは彼らの中でも小さな人に違いなかった。不揃いな動きからして、たぶん、何人もが作業にあたっている。数分黙って見ていたけれど、手のひらいっぱいの距離しか進まなかった。気が遠くなる。どうしてこんなに重いんだろうという呟きが聞こえてきそうなほど揺れが鈍い。何だか申し訳なくなって思わず手を出すと、ぎょっとしたように激しく器が揺れた。見えない人たちは僕が苦手だった。今はだいぶマシになったけど、昔は彼らの動揺を示すらしいパキンという音がそここで鳴っていた。まばらにだけど、僕の視線に気付いたらしいかれらからその音がする。
 彼らにはとても悪いけど、指一つの動きにびくんと器が揺れるのがあいらしくてつい構ってしまっていると、目の前に小さな箱が現れた。顔を上げると、義晴が僕を見ていた。悪戯はよせ、と見かねたらしいのを諌められ、手の上に箱を乗せられる。義晴は見えない彼らを気に入っていて、彼らに優しい。そもそも面倒見が良い男だから、小さな者の懸命さに心動かされるのかもしれない。

「忘れてた、これお前に」
「くれるの?僕に?」
「ああ、勘違いするなよ、客からだ。一応決まりだから中身は改めさせて貰ってる」
「勘違いなんか、…?」

 封の切られた箱のふたをあけた僕は、眉をしかめる。
 透明で、丸みがあって、やんわりと流線型をしたもの。
 緩衝材に紛れているからはっきりとは見えないけど、でも。
 薄く山吹色をした色硝子が、花梨の実の形にされてる。
 辟易する僕を他所に、開けた箱の中を覗き込んだ史機は微笑をうかべた。

「綺麗だね」
「…きれいだけど、こんなの、幾らだって庭に生る」
「まあそう言うな。なかなか手が込んでるんだぜ、ほら」

 義晴が硝子の実を手にしてみせてくれたのは、実の中から一回り小さな実を、その実から更に小さな実を、という入れ子構造の披露だった。手が込んでいるといえばそう、見事と言えばそう、だけど。それなら蜜漬けとか花梨酒とか花梨飴とか、食べられるもののほうがずうっと良い。硝子の花梨じゃ、口にも出来ない。
 僕はがっかりしたけど、ずらりと並べられた大小の硝子の実はそれなりに壮観で、飾り物としては高級の類のようだった。順々に縮まる実の一番小さなものは鶏卵よりもやや小さめの硝子だまで、手に取ると思いの外しっくりとする。僕は微笑んだ。史機が喜ぶかもしれない。こういう感じ、史機は好きで、瑪瑙の珠や水晶の珠とか、たくさん持っている。硝子だまを手に史機の方へと顔を上げかけた僕は、その瞬間、眩暈とも悪寒ともつかないものに体の安定を崩した。

"イヤだ"
"そんなことないさ、な"
"…でも痛いのやだも"
"カリン此方においでカリン、ほらおいで"

 まわる、視界がぐらついて酔う。起きあがろうとしたけど、うまく体に力が入らなかった。ひたすらに平らな真っ白の世界の中で、僕と男が、一糸纏わぬ姿で絡み合っているのが、遠くに見えた。
 音という音、色という色、そこでは何もかもはっきりしない。白と思った地面も、見るたびに朱が混ざり青が混ざり、確かには定まることはなく、耳鳴りのように音なのか音でないか分からないものが聞こえてくる。気持ちが悪い、眩暈のする頭を手のひらで支える。ここは思念の欠片の中だった。硝子の実に残されていた客の思念の中。僕はそういったものに取り込まれやすくて、いつも気をつけているのに油断してしまったのだ。客からの贈り物なんて、一番危ないのに。それにしても最悪だった。僕は入りやすくても、出るのは苦手なのに、どうしてくれる。
 僕を組み敷く男は、知らない男だった。この思念の持ち主だと思うけど、見覚えがない。そもそも舗にこそ出ているけど、僕は客を取ったことがないから、目の前で繰り広げられている睦み合いは男の全くの妄想ということになる。それに、舗で行為は散々見せてはいるけれど、あんなことは、してみせたことがない。性急にことをすすめようとする相手に、僕は拗ねたように咎められた唇で、口付けをねだる。そんな僕に構わず、男は起きあがろうとした肩を押して拒む手を払いのけた。組み開き、捩じ込む。驚き抗うけれど適わない。見開いた僕の目から涙が幾つも伝う、微かな悲鳴の間に、泣き声が混じる。たまに口にするのは男の名だろうか、それを叫んで、僕は震える。
 喉から細く息がこぼれる。首筋から脇腹へざらついた感触が降りて、総毛だった。捩った体が腕に捉えられて、引き擦り込まれる。深く貫かれる衝撃に、息が詰まった。

"ぁ、ああ"

 抗おうとすればするほど捉える手が食い込んで、その痛さにまた涙がこぼれた。目の裏が真っ白に光る。嬌声をあげる僕を激しい力が押さえ込み、僕は何度もかぶりを振る。知らない感覚が体に充ち、絶叫した途端、僕は強く引き上げられた。

「何してるんだ、まったく」
「夏燐、大丈夫?」

 目の前いっぱいに広がるのは、史機の微笑みだった。
 僕は仰向けに史機の膝の上に抱きかかえられていた。
 僕は黙って、史機の首に手を回す。不愉快さが、史機の体温で薄まっていく。抱き付いたその手の中にまだ硝子の実があることに気付いて、僕は傍らにいた義晴にそれを思いきり投げ付けた。こいつのせいであんな目に。

「おい、危ないだろうが」
「よっぽどいやな目に遭ったんだね、もう大丈夫だからね」
「まあ、いやな目って言っちゃあそうだな、いい目とも言」
 むっ、として暴れかけた僕を、史機の腕が抑える。史機は僕を戻すことは出来るけれど、義晴は思念の中に潜り込める。引き戻すときに、僕が思念と同化しかけてしまっていたのを、見たのだろう。文句を封じられた僕の変わりに、史機が義晴に顔を向けた。
「義晴、悪いけどそれ引きとってね」
「思念ぐらい消すが」
「引き取ってくれるよね」

 微笑をうかべた史機に義晴は幾らか口を開きかけ、押し黙る。
 口調はやわらかなままだったけど、義晴はそこに不穏なものを感じたのかもしれない。仕事相手としての史機は、とても付き合い辛い相手だと義晴が言っているのを聞いたことがある。史機は僕を除いた相手には容赦というものがないらしい。義晴に硝子の実を押し付けた史機は、きつく僕を抱き締めた。息苦しさに喘いだ僕の耳もとに口付けて来る。こそばゆさに首を竦めると、一層強く腕に包まれた。
 見上げた僕に、史機は眩そうに笑う。ここに僕がいることがこれ以上もない幸せみたいな、満足げで嬉しげな笑みだった。そっと下された囁きに微笑し、僕は目を瞑る。外から吹き込む風が史機の背で跳ねて、僕の耳の傍を過ぎる。遠くでまた、風鈴の音がした。きつくまわされた手に息が足りなくなる。それをつぐように、唇を合わされた。
 何百年の時が過ぎても、何かが変わり変わらなくても、史機が僕に寄せてくれるものはただ一つ、愛しく大切な一つ。僕はただそれに満たされる。いつまでも、と史機の囁きに返して、帯が解けるのに任せた。いつのまにか義晴がいなくなったことに気付いたのは、随分後になってからのことだった。



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