和史は彼らとの話を終えると、無言で歩き出した。エレベータの前まで行き、ボタンを押すのに、慌てて人の群れが動く。 「ユークちゃん、どこに行くのっ」 「今甥っこが君に会いたいと言ってるんだよ。もうすぐそこまで…」 「ユーク、待ってよー」 和史は追いかけてくる相手に場所を変えましょう、とにっこり微笑み、口を開けたエレベータの中へ乗り込んだ。広いエレベータの中には和史に続いて、わんさと人が乗り込む。さすがにこんなところで和史を手放すような間抜けはなく、きっちり追いかけてくる。 和史がエレベータの乗務員に小さく耳打ちして行き先を告げ、エレベータが一定のスピードで上昇を開始すると、和史は再び人に囲まれた。 はじめは行き先をひっきりなしに尋ねていた人々も、箱の中では和史は逃れられないことを悟ったのか、各々好きなことを話しかけ出す。和史は愛想良くそれに答えて、エレベータを降りた後も、巧みに人の群れを誘導した。 私はその間、実は和史にかける言葉が思いつかないでいた。 何と言うのか…。 私はまだまだ、ということ…だろうか。 いやあんなことをやれるようになると言うのも…。 和史が階段を登る。多少、秘密めいた細めの階段の先に、ボーイが立っていた。ボーイは和史の顔を見て、心得顔で自分の背後にある扉を開けた。 扉の先には暗闇が広がっていた。途端に強い風が吹き込み、思わず目を細める。私は和史が吹き飛ばされなどしないよう、さりげに背後に付いて、ライトアップされたその場所へと出た。 「ユークちゃん、…!」 私の背後で驚きの声があがる。 それは、鳴り響く旋回音の中でも良く聞こえた。 和史は、彼らからヘリコプター1基の貸し出しを取り付けたのである。彼ら、史郎たちの屋敷はかなり外れの場所にあり、交通の便が極めて悪い為に、遠出の外出には自家用ヘリを使うことが多いのだという。今日はそれで出てきた、というわけだが、勿論、自家用とは言え、ヘリはヘリ。 はっきり言えば、それはかなり常識外れなことだった。自家用機を持つ知り合いは私にもいないことはないが、少なくとも、貸してくれる?どうぞ。で、受け渡されるものではない。私はそう認識している。けれど、和史も史郎氏もまるきりハイヤーのような扱いだった。彼らにとってはヘリコプターも、ありふれた1つの交通手段でしかないらしい。 彼らにとっての問題は、和史を取り巻いている人々たちだった。 和史がどこかに行ってしまわないよう、彼らは気を配っていた。だから単純にヘリの準備をしては、すぐにバレる。 そこを解決したのは、あの青年だった。和史の知り合いたる卓海氏は、どうやら凄腕の側近らしい。ルグリとしてのコネクションを動かせば、和史を取り巻いている人々に知られる可能性を踏んで、全てを引き受けてくれた。和史がここに到着するまでに全ての準備を完了させているのだから、かなり優秀だということが分かる。 和史の歩みに、人の群れがわっ、と動きかける。私はすでにプロペラを回したヘリコプターの方へ、和史の背を押し出した。 まず和史をあの機体の中へ入れないことには、何にも始まらない。 「和史、早く中へ…!」 「守れ!」 「はは!」 誰が?私が?と思ったのは私の勘違い。 ざ、と和史を取り囲むように現れた幾人かの男たちに私は目を丸くした。 な。何事…?何事が…? 「え。え、え?」 「イヴァン、早く」 私は和史に手を引かれて、ヘリコプターの中に乗り込みながら、きっちりと人の群れを押さえた男たちを目で追う。 知り合いの知り合いの1人だったか野次馬だったか、とにかくただの群れの一部だったはずの中から現れたのは、機敏な動きをする男たちだった。彼らは和史を守る為に、体を張って人々を抑えていた。 「あれは…」 「護衛なんだ。公的な時以外は、隠れて守ってもらってる」 「飛びます、シートベルトを」 かなり腕の優れた機長らしい。 強風の中を物怖じもせず、飛び立つ。見る見る間に人影は小さくなった。 私はヘリの窓辺から、どんどん小さくなる人影を眺めていた。 和史ほどの人間に護衛がないわけはないとは思っていたが、…。 もしかすると、これはつまり、道を2人で一緒に歩いていたり、散歩したり、の間ずっと彼らに…見られていたというわけ…だろうなやっぱり…。 私は襲い来る目眩をどうにか振り払う。それぐらいは、予想の範囲。…予想の範囲にしておかなければ、ならない気がする。 機体はけたたましいほどのプロペラの旋回音と共に、夜の景色の中を突き進んでいく。私はその音の大きさに顔をしかめながら、何とか気を取りなおし、和史を振り返った。 「……和史、そういえば、これからどこへ…?」 「ううん、どうしようか?」 愛らしく和史が笑む。私を見つめて、とても嬉しそうに目を細め、実は何も考えてないんだよ、と恥じらいながら小首を傾げてみる様は芽吹いたばかりの花のように美しい。 和史が満足なら、それで良いか…そんなことを思いながら、私は和史の顔を見下ろし、そっと抱き寄せる。そうしたところで、機体の前から電子音が鳴り響いた。どうやら無線らしい。 「ユークリッド様、…」 運転手の声を遮るように、悲痛な声が機体中に広がる。 その声を聞いた途端、和史は一度は明るくなった顔を、再び曇らせた。どうやら今日は余程、ついてないらしい。 それは私の親戚リストの中にもしっかり刻まれている、和史の身内の、声だった。 「ユークリッド、ユーク、ああ、どこに行くつもりだ。兄さんは悲しい、悲しいぞ…っ!」 「ジョセフ、落ちるよ。落ちるっ」 「邪魔だエセル、そこにユークが…!」 私たちは無言で顔を見合わせた。…、やけにプロペラの音がうるさいと思ったが…。まさか…。 不意に和史はドアのロックを外した。え、と思う間もなく。勢い良くドアを開けてしまう。機体が一瞬揺れてどきりとした先で、ユークは機長から無線のマイクを貰うと、外に向かって声を張り上げた。 「兄さん何してるわけそこで!」 「おおユーク、危ない。兄さんは悲しいことに燃料が足りなくてね、その辺りに着陸しなければならないんだ。けれどもユークは今まさに私を通り過ぎようと」 「ジョセフ、危ないったら。…ユーク、やっほー。見える?今日は夜景が綺麗だね」 「エセル、邪魔をするな。ユークが見えないだろう!」 暗闇の向こうで、もみ合う人々が遠目に見える。 安全な距離を保つ為にそう近くはないが、そう遠くもない先で、同じように扉を開けたヘリコプターの中から、ショッキングピンクの髪の持ち主がこちらに向けて手を振っていた。…おそらくそのエセルレッド氏を退けようと奮闘しているのが、和史の兄の1人。ジョセフだろう。和史は空の上で、兄弟と出会ってしまったらしかった。 「空中で兄弟喧嘩というのも豪気ですねえ。うちの坊ちゃんもかなり色々してくださいますが、いやあルグリ様もおすごい」 「……感心なさらないでください、…」 機長の微笑ましげな声に、和史がガクリと首を下げる。 その向こうで、ジョセフ氏はやっとエセルレッドを押しのけることに成功したようだった。 「ユーク、ああ、ユーク。こんなところでユークと会えるとは、兄さんはついている」 「会社に戻る途中なんじゃないの?早く帰らないと、秘書さんたちが迷惑するよ」 「大丈夫だよユーク。たった今から私は休暇に入ることにした。ユーク、私はどこにだって付いていく決意がここに!」 「…………」 無線の前で、和史の眉が微かにしかめられる。それを悟ったように、慌てたようなエセルレッドの声が無線の中に割り込んだ。 「ジョセフ、仕事は山積なんだから。わがまま言わないでさ?…ほら、危ないよー落ちるよー。ユーク、気にせずに楽しみなね」 ヘリから身を乗り出そうとする兄ジョセフを、エセルレッドは後ろから首根っこを掴んで引き戻そうとする。そんな弟を振り返り、ジョセフは無線をしっかり手にしたまま背後を振り返った。 「エセル!お前はやっと帰ってきたと思ったら、私とユークの仲を邪魔するのか!だいたい、お前は連絡1つせずに何年も放浪して、おまけにいつだってユークの…」 「ジョセフ、小言は後で聞くから。…ほらもう燃料ないって」 「エセル!今聞けっ。私は常々思っていた。お前はたまにしか帰って来ないというのに、いつだってユークの心を独占して、…」 和史はひたすら続く会話に、とうとう、切れたらしかった。無言で腕を伸ばし、無線の電源を切ると、勢い良くドアを締める。夜景の中でジョセフ氏の悲痛な叫び声が聞こえたような気がしたが、和史は取り合わなかった。 にこにこと微笑んだ顔の向こうに、怒りのオーラが見える。和史…?と話しかけようとする私を見上げて、和史は口を開いた。 「みんなして、皆して僕のデートを邪魔するのはどういうこと!折角、折角、イヴァンとの時間なのに!もう許せないッ」 目に怒りを溢れさせ、声を荒げた和史は、腹の座った目を操縦桿を握る男に向けた。 「決めました。フランスに行って下さい」 「か、和史。そんな、幾らなんでもそれは…。…それに、パスポートが」 「パスポートぐらいなら、アルヴィンに用意してもらうから。イヴァン。フランスに行こう。それからコンコルドを飛ばしてアメリカに行くのも良いし。明日はまだ休日だよね?」 「休みは、休みだけどね、…」 和史に見つめられながら、私は自分の恋人が何者であるかを漸く理解した気がした。和史は、世界に名だたるあのルグリの、最愛の末息子。きっとこんなことは日常茶飯事。 私は今日は驚いてばかりいるけれど、和史は1度だって驚いていない。 私は微笑んで、和史を見つめた。 …負けたよ。そもそも始めから、私は和史に一目惚れだったんだ。 かないっこない、というわけだよね。 「…構わないけれどね、和史。もうああいう危ないことはやめてくれるかい。真下に夜景が見えた時には、寿命が縮んだよ」 ヘリコプターの扉を物言わず開けられたときは、本当に驚いた。 和史の言うことをすんなりと聞く前に、まず、そのことをたしなめておく必要を感じた私に、和史はしゅんと項垂れて、もうしないと頷いてくれる。 私は万が一にでも和史が怪我などする危険性を1つ消せたことに安堵し、約束だよ、と囁いて和史を腕に包む。そして、どこか不安げな目をうかべた顔をそっと覗き込んだ。 まるで何かに怯えるような、不安げな顔。 もしかすれば、今日のこと今のことで私が和史を嫌いになるとでも思っているのかもしれない。…多分、そうだ。今にもごめんなさいと囁きそうな口が、それを感じさせる。私は小さく苦笑した。 和史を嫌いになるなんてこと、あるはずがない。 不安がりだね和史。そこもまた、可愛いけれど。 ……フランスでも、世界の果てでも、何なりと私は付いて行くに決まってる。 けれど。 ほんの少しの遊び心が私を擽る。 「私を懐柔するには後少し、足りないな」 「……え?」 「何かを頼んだ後に渡すのは、多少の心付け。では恋人からは?」 和史はきょとん、と私の顔を見上げてから、私の望みを察して頬を赤らめた。 小さく俯いてから、意を決したように私の首に腕を絡め、唇を寄せる。すぐに離れようとするのを私は止め、そして深く口付けた。 私はとろりと甘い恋人の感触を味わいながらも、心の中で、もう2度と人が集まるところでデートはすまい、と固く誓っていたのは、言うまでもことなのだった。 和史。次は誰もいないところで、デートをしよう。 ……ぜったい、ね。 了
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