「月吹く風と紅の王」



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 ルシエは風の精霊だ。
 一所に住まうことのない渡り風の出で、いつも自由に空を駈けていた。
 けれど今は違う。精霊王の長子エルシェリタの目にとまり、花青宮に連れてこられたルシエには、王族に仕える人形として何をするにも主人の許しがなければならなかった。
 人形は特殊な血と力をもつ精霊王の一族、王家の人間に奉仕する存在としてつくかえられたものである。花珠を孕み、己の気を捧げるために調整された身体は、様々な決まり事、戒めに則って存在していた。
 花青宮の住人は運が良ければ王族の子を生んで、后の座に就くことも出来る。王家の子は人形にしか孕むことが出来ないので、実質人形が住む場所とは後宮のようなものである。
 ルシエは入宮した当初から、花青宮内における権力争いにはまったく興味が無く、与えられた部屋と庭のみで過ごすようにしていた。后の座につくことが出来るのはほんの一握りで、多くの人形は幾度か夜伽に呼ばれただけで飽きられ、一定期間の後、体をもとに戻されて外へ出された。
 自分もそのひとりであると、ルシエは良く分かっている。いずれ飽きられて、見向きもされなくなって、そうして外に出られる日をただ待っている人形。
 けれどそう思っていない者が多く存在することも、また事実だった。
「ルシエさま。昨日も花をいただいたのですって?毎回流珠なのでしょう。大変ですわね」
 亜麻色の髪に大輪の花を挿した娘は、光の精霊らしい華やかな美貌と放漫な肢体を惜しげもなく晒し、彩りの鮮やかな衣に似合う気が強そうな瞳をわざとらしく細めてルシエを見下ろした。
 彼女の片耳には5番目の王子の人形であることを示す耳環がはめられている。彼女の周りにいる娘たちもそれぞれ違う紋章入りの耳環をつけていた。
 基本的に人形はたったひとりの主人しか持たない。主人ごとに人形の住まいは分けられているため、共有の場所に出なければ他の主人を持った人形に会うことはなかったが、共有の場所には人形たちがのびのびと過ごせるように工夫を凝らした設備がいろいろあった。その為、自然と殆どの人形がそこへ集まって芸事を学んだり、お喋りに興じたりと過ごす。
 ルシエはそういった場所が苦手だったし何かと面倒なことが多かったので、あまり行かないようにしている。だがどうしても行かなくてはならないときもある。今日などがそれで、共有場所にある医療棟に呼ばれて帰る途中、目敏く見つけられたわけだった。だからいやだったのに、とルシエは独りごちる。
「なにかおっしゃいまして?」
「……………」
 ルシエはやけに刺々しい微笑みを見上げて、その瞳を真っ直ぐ見つめた。
 ここで正直に地獄耳の養われ方を訊ねてみれば、と想像するとなにやら楽しそうだったが大人しく口を噤む。
 第1王子エルシェリタには人形がひとりしかいない。ルシエはそのただひとりの人形であるため、そのことを妬んでは絡むものが後を絶たないのだ。まったくもって面倒なことに、この場にいる中でもっとも主人の寵愛を受けているのが誰かといえば、それはルシエに他ならないから、嫉妬に目が眩んだ彼女たちの口はとどまることを知らない。
 3日とあけずに夜伽に呼ばれ、主人の精をたっぷり注がれなければ孕まない花珠を度々孕む。主人が違うのだから厳密には比較することは出来ないが、ルシエはある意味別格なのだった。
「一の宮様はお優しい方ですもの。ルシエさまが宮勤めに不向きであるので、それを気遣って下さっているんですわ」
 光の娘にならうように、わざとらしいからかいをこめた物言いをした娘は、主人の寝所にあまり呼ばれたことがないのだろう。不本意ながら数だけはこなしているせいか、ルシエはそういったことが何となく分かる。
 花青宮に住む人形は大抵それなりの家に育った貴族の子女で、ルシエのような名もない家の出で、さしてつよい力を持つ一族の出でもないのは珍しい。
 卑しい身の上のルシエがなぜ主人の寵を得られているのか、まったく理解できない顔で娘は憤りに震える唇を引いた。
「ねえ、ルシエさま。一の宮におひとりでいるのはおさびしいでしょう。閉じこもっていないで、少しこうして出てきたほうがよろしいわ」
「そうですわ。まるで恐がりのシタジリのように隠れておいでなんですもの」
 シタジリは土の下に掘った巣の中にこもってじっとエサが落ちてくるのを待つ、森の獣だ。くすんだ灰色の毛皮を持ち、どこか暗く沈んだような目で穴蔵に住む無害な生きものだが、不細工なので嫌われている。
 ルシエは別にシタジリのことが好きでも嫌いでもなかったし、娘たちの物言いがいちいちカンに障ることもない。ただ大人しく口を噤んでいたが、何も答えないルシエに娘たちはますます苛立った様子になる。
 宮勤めは苦手だし、好きじゃない。
 それをエルシェリタが気遣ってくれているかと言えば、ごく一部ではそうであり、同時にそうではないとも言える。
 与えられた部屋の中にいてさびしいか、これはまったくそうは思わないけれど、それをいちいち答えるのは煩わしかった。
 これでもルシエは人形になったはじめのうちは向けられる問いかけに真っ当に応対していたのである。
 しかしすぐにこちらの言い分にまったく耳を傾けないこと、敵対関係を築くことはあっても、友好関係を結ぶことなど頭の端にもないことを知って、挨拶を返すのも億劫になってしまった。
 そういった相手とやり合うほどルシエはつよい主義主張があるわけではないし、人形のたしなみと呼ばれるものの殆どはルシエの性に合わないものばかりだったので、周囲の期待、あるいは本人の希望をたっぷり抱えて入宮している貴族出身の人形とは話が合うはずもない。
「……失礼します」
「ちょっと、逃げるの」
 甲高い声で娘のひとりがルシエを詰ったが、ルシエは聞こえないふりをした。
 人形の主人はたったひとりだが、主人が替わることは時々ある。ルシエに嫌味を言いに来るぐらいなら、第1王子の寵を勝ち得る手段を考えてくれていた方がルシエにはありがたい。
 たったひとりの人形という状況はいろいろと大変だからだ。王族はそろって人並み以上の精力を誇る。他に人形がいたなら、少しはルシエの苦労も減るかもしれない。
 ただしあの娘たちが同じ主人を持つ同じ宮の人形になるのは、それはそれで面倒くさそうではあった。




「お帰りなさいませ、ルシエさま」
「ん…」
 花青官であるツィーツェはルシエが戻る前に、医療棟からの報告を受けていたのだろう。
 ルシエが戻るなり、小さな椀に薬湯を入れたものを運んでくる。
 ぎゅっと眉を寄せて、ルシエは椀から顔を背けた。
「………いらない」
「お疲れが溜まっておいででしょう。さあ、体調管理も大切な務めでございますよ」
 いつ何時、主人の夜伽に呼ばれても対応できるように。
 主人の寵愛を受けるのに相応しい、見目を整えていられるように。
 花青官が人形のみを気遣うのは、つまりそういうことだ。
 きつくにらむルシエの眼差しにちらとも表情をかえず、ツィーツェは恭しく器を差し出す。どのみち逃れきることはできないのでルシエは苛立ち紛れにそれをひと息で飲み干し、小さく咽せ込んだ。想像以上に苦くて不味い液体に唇を曲げるルシエに、ツィーツェは口直し用の甘酸っぱい果実水をさしだしてくる。それをひと息に飲み干し、器を返した。
「午睡のお支度も、お茶の用意もございますよ。どちらになさいますか」
「ほうっておいて」
「舞のお稽古をなされるのもよろしいかと存じます」
「かまうなって言っているんだよ」
 ツィーツェの手を振り払い、これ以上面倒なことを言われる前に、と、ルシエは足取りも荒く午睡用の部屋に駆け込んだ。
 第1王子の人形が住む区画は、一の宮とも呼ばれている。現精霊王は子どもが7人いるので、七の宮まで存在しており、王の后と人形が住まう場所は奥花宮と称された。
 一の宮にはルシエしか人形がいないので、ひとりでかなり広い空間を使っている。複数設えられた部屋のひとつは、夜休むのとは別に昼寝のためだけに用意された部屋だ。
 外灯りが良く差し込む室内にはルシエに合わせた小振りの寝台があり、天井から下げた薄布でまわりを覆ってあった。
「ルシエさま。御髪をほどきませんと」
 午睡用の衣に着替えることもしなければならない。
 面倒くさくて溜まらないが、一日を通して同じ衣、髪型などでいることなど人形には有り得なかった。
 やんわりと、しかし有無を言わさない口ぶりで促され、ひと目のない室内だというのに花青官らがわざわざ運んできた衝立の中に立たされる。帯を抜き、外側になるごとに色が深くなっていた織りの薄い布地の長衣を脱いでから、足の形にぴったりと合う膝下の下衣をはいた。上から上下が筒状に繋がったひとつ衣をまとう。
 夜に使う夜着よりも柔らかな織りの布を使い、袖も裾も短めだがめくれても肌が見えないよう工夫してある午睡衣は、主人以外にみだりに肌を見せないように考えられたものだ。
 明るい陽射しの下にいるルシエは青空を駈ける風らしく、見るものを心地よくするような爽やかな立ち姿で、とても主人の寵を受ける人形には見えない。どこにでもいる、ただの少年のようだ。
 衣を着替えた後、ツィーツェはルシエを鏡の前に座らせた。
 医療棟への外出だったので、鉱石を使った飾りは付けず、ひとめとめに結い上げた髪に花の形の紐飾りを留めている。丁寧にそれらを外し、櫛を入れると、ルシエの雰囲気は一変した。
 昼の光の下では淡い金色がかり、夜の灯りの下では月色に煌めく、美しい髪。
 ただ金色と言うよりは乳白色がかっているため、闇の中でも薄く光を孕むような月色髪で、瞳は深い蒼色。特にルシエのものは夜の空のような蒼色に銀の光がとけ込んだ二つ色である。
 月色の髪がルシエのほっそりとした肩を覆う。
 ただそれだけなのに儚げなルシエの面差しに光が射し、透きとおるように白い肌をよりいっそう輝かせて、ふっくらとした淡紅の唇の可憐さ、杏型の双眸にかかる睫毛の長さを際だたせる。つくりもののように整った顔立ちであることを気づかせ、少年がまとう清んだ眼差しにはっとされられるのだ。
 渡り風と呼ばれるルシエの一族は茶色の髪に明るい青の瞳でいることが多いが、稀にこういった容姿の持ち主が生まれた。身近なところではルシエの父親、それに叔父のひとりもそういった姿だった。この姿を持つものは往々にして人並み外れた美貌を持つ。
 ルシエは月色髪と二つ色の瞳の持ち主としては美しさのうの字も持ち合わせていなかったので、唯一の例外だと言われていた。いつも泥だらけ傷だらけで、短く切った髪は風に遊ぶまま、とにかくやんちゃな子どもだった。
 今のルシエならば、持ち合わせた容姿に相応しい美貌を持っていることを誰もが認めるだろう。
「少し頬が薄くなって、大人びてまいりましたね。これからもっとルシエさまは美しくなりますよ」
「……ならなくても、全然構わないけど」
 鏡の中に映る少年は薄い色の唇を引き結んでから、掛けられる言葉に気のない返事を返した。
 一の宮の人形なら美しい方がいい。
 それは知っているが、そうなりたいと思うのはまったく別だし、そうなれるかどうかも別だろう。
 日を浴びない肌はただ青白いだけだし、しなやかだと言われる細い手足にはもっと筋肉がほしい。
 花青官たちが毎日時間を掛けて手入れをしてる肌身はよりいっそうルシエを美しくさせるが、彼らが思い描く姿では自由に空も駈けられないのだから、どうしようもない。ルシエにとって重要なのは風とともに動くための身体作りであって、美しくなることではなかった。
 支度が整うとようやく寝台の上に戻れる。
 本来ならば午睡衣も引きずるほど裾が長く、ほんの少し動くのにも花青官の手をとってしずしずと歩まなくてはいけないのだが、いちいちそんなことをやってはいられないと散々抗ったおかげで、ささやかな自由と安寧を得ていた。
 花青官の手をとらずにすたすたと歩いて、寝台に飛び込む。
「おやすみなさいませ、ルシエさま」
 開け放した窓から流れ込んだ風が寝台を覆う薄布をかすかに揺らし、ルシエに触れてふわりと広がる。風の精霊としての生き方からは遠くなったとはいえ、ルシエの傍から風が失われる日はない。
 ツィーツェはルシエが足もとに蹴りだした掛布を丁寧に被せ直し、そっと部屋から出た。



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