青く影る木々が陽の中で揺れる。 窓を開け放っていると肌を刺すような冷たい風が時折流れ込んで、月色の髪を舞い上げた。 夏至の旅とはいえ北へ北へと向かっているために、高い峰のところどころに白く雪化粧がある。 「ルシエさま。いかがなさいましたか」 ずいぶんと長い間窓の外を眺めていたので、怪訝に思ったらしいツィーツェが声をかけてくる。ルシエは頬杖を崩して、男を振り返った。 温かな湯気をたてる飲みものを置き、ツィーツェは丁寧な手つきで窓を閉める。風が止まって、ずっとうるさく震えていた紙の束が鎮まった。 なんでもない、と首を振って、ルシエは手もとの紙の山に目を落とした。書いては消して、だんだん余白がなくなっていく。ちっともうまく行かないので気晴らしに外を見ていたのが、つい長くなってしまった。 「新しい術ですね」 「ん…」 「ほぼ完成していらっしゃるようですね」 「一応はね…」 紙に書き散らしたものはどれも空論で、机の上を離れてもそのままの形を保ってくれるとは限らない。 どんなにうまくできていると思っても、実際に試してみないと完成とは言えなかった。 備わった能力とは別に理論や法則、あるいは気石などを組み合わせて生来備わった力以外の何かをするのが術である。 ルシエは術を組むのが得意で、勉強はからきしでも幼い頃から難しい術書だけはきちんと読めた。渡り風はその性分故にじっと学問所に通うことが少ないので、少々変わった趣味だった。 「どこかで試せれば良いのだけど…」 「危ないものはいけませんよ」 はじめて組み立てた術には常に危険が伴う。幸い今まで大怪我を負うような目に遭ったことはないが、暴発によるかすり傷など日常茶飯事だ。 ルシエは小さくため息を吐いて、紙の端にくるくるとたわいもない落書きを書き込んだ。 「……ねえ、ツィーツェ。ここにいるのは後何日?シーゼルエントにも行くって聞いたんだけど、そこもここみたい?」 マヴィエスト城に来て数日。城を管理する優しく人が良い老夫婦の傍で、ルシエの日々は穏やかに続いていた。 それはとても喜ばしいことだったが、娯楽らしい娯楽もなく、ルシエは少々飽き気味であった。めぼしい本は殆ど読み終えてしまったし、マヴィエスト城の周りはただただ深い森が続いて、そこを好きに探索することはさすがにできない。 こんな田舎の城で何の用があるのか分からないが、エルシェリタは王宮にいるときと変わらず幾つか仕事を続けていて、ルシエにはまったく見向きもしないことも多い。 放っておかれることは大歓迎だが、わざわざ仕事をしている部屋に呼びつけて視界に入るところにいるよう言いつけ、自分は仕事をするためそのまま放置している、などということもあり、ルシエには良い迷惑であった。 むろんルシエにしても傍に誰がいるかなど気にもせず本を読み耽り、術を考えるのに疲れればうたた寝したりと、同じ部屋にいるからといっていちいち気を遣った振る舞いはしないが、気紛れに人形を膝の上に載せたり、仕事の真似事をさせる主人相手ではなかなか好きなように動けない。 眉根に寄せられたシワをやんわり咎めたツィーツェは、ひとりで過ごす時間が何より好きな人形の性格を良く承知していたので、不意に頭をもたげる主人の構い癖に辟易している様子を内心苦笑をうかべて見ていた。 とても迷惑そうにしながらも、大人しくされるがままになったり、少し拗ねてみたり、なかなか微笑ましい光景ではあった。 「シーゼルエントはもともと北の拠点。多くの荷が行き来する古くから続く都ですし、雪色の石を重ねた家屋や、三角屋根など、街並みの美しさでも知られています。シーゼルエント領にあるエルシェリタ様の城もそれは立派なものですよ」 もともとシーゼルエントには古い王家があり、今も旧王家の王城がそのまま残っている。エルシェリタの城はその王城とは別の場所に建てた新しい城であった。 今ではそこが城下町として栄え、北の都ミイゼルトとしてその名を馳せている。 花青官であるツィーツェはルシエが人形になる以前から、一の宮の花青官として主人である第1王子に付き従い、各地を旅している。花青官たちは王子たちが出先で一夜の相手と過ごすときにも立ち働くから、どこにでもついて行くのだ。 今はルシエがいるために、エルシェリタがひとりで出かけるときには別の花青官がついていくものの、ツィーツェの知識はなかなかあなどれない。 ミイゼルトの成り立ち、特産、文化まで聞かされたルシエは少々しまったと思いながら、とうとうと語るツィーツェの顔を見上げた。 「僕も…行くんだよね。そこに」 「勿論です」 何を言っているのでしょう、と言わんばかりの勢いで肯定したツィーツェは、わずかに目を細めてルシエを見下ろした。 「よろしいですかルシエさま。今回はルシエさまが共にいらっしゃると言うことで、城の者も大変張り切っていると伺っていますし、宴も数多く開かれる予定です。ルシエさまにはエルシェリタ様の壱の人形として、きちんとした振る舞いをしていただかなければなりません」 そんなのはいやだ、とルシエは思う。想像するだけで面倒で仕方がない。 乗り気ではないなどと言っている場合ではありません、と、やんわり諭そうとしたツィーツェはふっと口を閉ざした。ややあって入室の許しを求める声が外からかけられる。ツィーツェが許し、中に入ってきた花青官はルシエの傍で頭を垂れた。 「エルシェリタ様がお呼びでございます。急ぎご用意を」 ルシエは書きかけの紙を置いて、立ち上がる。 とりあえずはじめにしなければならないのは着替えで、たとえ今すぐに来るようにと言われても、人形の身支度にはいつどんなときでも時間がかかるのだった。 部屋で休むための衣装と主人に会うための衣装は違うのはもちろんのこと、湯に通した布で体を拭き、下着からすべて新しいものに変えていく。 ツィーツェが選んだのは秋草模様に夕焼けのような朱を垂らしたもので、これから来る季節を先取りしているのだろう。地色は淡い陽射しの色だから、ずいぶんと優しい雰囲気をもった仕立てになった。 北の冬は他より早く来る。おそらく、シーゼルエントに着く頃には冬色の衣を着せられるのだろう、と、ルシエは何となく思った。 「……失礼いたします」 大きく放たれた窓からは、遠く向こうに白く雪化粧した山が見えた。 窓辺に腰を下ろし、銀の髪を軽く結い上げたエルシェリタは、ルシエを振り返って微笑みをうかべる。 その笑みを見て、ルシエは全身を強張らせた。 物慣れない者ならただの美しい微笑みに見えただろう。 けれどルシエにはその微笑みが恐ろしく、紅の瞳が凍えるように冷たい気配を放っているように思えた。 ルシエひとりを先に行かせ、花青官たちが壁際に下がる。 主人の求めがあるまでは壁の花に徹するが、少なくともツィーツェは主人の機嫌の悪さを報されていた違いない。 ただ部屋に上がるだけにしては華やかな衣の選びや高価な飾りを挿し込む髪に、少しおかしいとは思っていたのだ。時と場合にもよるが、人形の拵えを普段よりずっと華美にするのは理由がある。大勢の人の目に触れる、主人以外の貴人に会う、あるいはより一層主人の目を楽しませるために装うのだった。 「ルシエ、どうしました?」 「…………」 どうしたのかと訊ねたいのはルシエの方だったが、とても聞けるような雰囲気ではない。 ルシエは大人しく主人のそばに寄り、人形らしくそっと足もとにうずくまろうとしたが、腕を取られて膝の上に抱き上げられる。エルシェリタの肌はいつもより冷たい。おそらくしばらく窓を開けていたのだろう。 「今日はルシエにお客さまが来ているのですよ」 人形のもとに訪れるのは衣屋や飾屋などだが、そうではないはずだった。そんな話、ルシエは聞いていない。 エルシェリタが身にまとうゆったりとした上衣の飾り釦や銀の装飾品が二の腕にあたって痛かったが、ルシエはじっと堪えて、入ってきたのとは別の扉に目を留めた。 特にその扉を示されたわけではなかったが、不思議とそちらに目が行ってしまう。 エルシェリタはルシエの眼差しを追い、片腕をしっかりルシエに絡めてから、手もとの鈴を鳴らした。 あらかじめ控えていた花青官が扉布を左右から掬い取ってひらき、厚く織りあげた扉布を壁から垂らした布に結びつける。貴人の部屋に足を踏み入れるものは、扉布の一歩前で跪く。商人なら両手を前で合わせ、武人なら片膝を付き、そうではない目下のものは両膝をついて伏せる。 彼の場合は片膝を付き、片手を胸にあてた。他軍の武人がとる礼だ。 「ゆるします。話しなさい」 「はじめてお目にかかります。シーゼルエント大公。わたくしはウィリスタのロータム。ウィリスタリアの長の子でございます」 あ、と声を上げそうになるのをルシエは堪えた。 短く切りそろえた髪は夏雲のような白、瞳は若葉色だった。 やや角張った顔は全く似ていないが、やはりどことなく似ている。 彼は3の宮の人形、ユーシムの弟に違いない。もしかしたら会いに来るかもしれない、そう言ったユーシムの話を思い出す。 「壱の方さまにはご機嫌麗しく。お手を取らせていただいてもよろしいでしょうか」 「……ゆる、します」 差し出した手の甲に額が触れて離れる。 親愛を示す挨拶で、王侯貴族内では良く交わされるものだ。 唇を軽く触れさせる場合もあるが、人形に対しては目もとに寄せる、もしくは額に軽く寄せる、それが正しい挨拶だとされていた。 知識としては教えられていたし、シーゼルエントに着けば多くの客人がそれを求めてくるだろうとも言われて心構えをとうとうと告げられていたものの、まさかこんなに早く正式の挨拶を受けるはめになるとは思わなかった。 ルシエの戸惑いなどものともせず、客人は武人らしいさっぱりした動きで元の位置に下がる。それを待ってエルシェリタが口をひらいた。話を切り出せるのは目上の人間から、そう決まっている。 「ウィリスタのロータム。用件を伺いましょう」 「恐れ入ります。わたくしめの用はふたつ。ひとつめは我が兄、ユーシムの今を壱の方さまにぜひお伺いしたいと思っております」 遠慮のない求めに驚いたが、エルシェリタもあっさりと頷く。 「ルシエ。教えてあげなさい」 「………っ」 エルシェリタの声は固く、言われるまま教えても良いのか分からない。 本音はどうあれ、言うな、ではなく、言え、と主人は口にしているからには、人形の身としてそれに応えるだけだった。 「は、い。…ウィリスタのロータム。三の宮の壱はあるじ様のご寵愛深く、日々つつがなく過ごしています……」 こんな台詞、受け取っても嬉しくはないだろう。 人形の近況を語る際には必ず用いられる表現であって、詳しい内情など話しようがない。たとえすでに飽きられ日陰の身に成り果てていても、それがそのまま外に漏れることは全くといってなかった。 「ありがとうございます。壱の方さま」 それでもロータムは生真面目な態度で頭を垂れ、ルシエに礼を言う。 これではルシエの方が居たたまれなかった。できることなら、ルシエが知る限りのユーシムの日々を伝えてやりたかったが、ロータムの方からそれを求める素振りはなく、まるで充分満足しているような笑みさえちらとうかべる。 問いかけることは問題にはならないが、深く追求することが逆に人形である兄の立場を悪くすることを分かっているからだろう。 心苦しさで身を強張らせる人形をしっかり腕で絡め取ったまま、エルシェリタは素っ気なく頷きを返す。 「これでひとつ済みましたね。ふたつめを言ってご覧なさい」 「わたくしめのふたつめの用。それはこちらにもう1人、拝謁の許しを得ることでございます」 「登城の許しはあなた1人のみに与えたものです。許可なく敷地に足を踏み入れた者の末路を知らないわけではないでしょう」 「はい」 「ならばそのような訴え、はじめからするものでないと思いませんか」 心臓の切っ先に刃をあてられているような、そんな鋭さが含められているのに、男は全く動じない。それどころか潔いほど鮮やかな笑みをうかべて頷いた。 「もちろん、よくよく存じ上げております。ですが相手は勝手に付いてきただけ、わたくしにとってはまったく予想外の出来事でございました。しかしこうしてここまで付いてきてしまったとなれば、わたくしにはお許しをいただく他なく。僭越ながらこうして申し上げさせていただいております」 まったく堂々としたものだった。 分をわきまえつつも卑小な態度を取らない、独特の立ち位置は兄のユーシムにも通じる。 礼を失していると追求することは簡単だろうが、エルシェリタは呆れたように目を細めただけで、小さく頷いた。 「よろしい。そうまで言うなら許しましょう。通しなさい」 扉布の向こうに控えた花青官が動き、外へ何かを知らせに行くのが分かる。 待ったのはごく僅かな時間だった。 そうして連れてこられた人影を見て、ルシエは絶句した。 |