「月吹く風と紅の王」



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「ルシエ…っ」
「……に、いさん」
 ずっと森の奥に潜んでいたのだろう。
 久しぶりに会った兄からは濃い森の気配と冷気を含んだ風の香りがした。
 短く切りそろえた茶色の髪と夏空を思わせる青い瞳。
 兄、ロッディは、別れたときよりもずっと背が伸び、体付きもきつく引き締まっている。いつも明るい笑みをうかべていた顔は、ルシエを見て大きく綻んだ。
「会いたかった、ルシィ…」
 長らく呼ばれていなかった愛称を呼んだロッディは、弟に近付こうとして花青官たちに立ちはだかれる。
 彼らは雅やかな立ち居振る舞いの割に武術にも精通しているため、主人や人形のそばに不用意に人を近付けることはない。
「なんだよ、どけよッ」
「風のロッディ。落ち着け。大公の御前だぞ」
 貴人を前にした振る舞いの心得など、ただの風であるロッディにあるわけがない。
 そっとたしなめるロータムに、ロッディはきりきりと眦を釣り上げた。
「どう落ち着けって言うんだよッ。大切な弟を奪っていった男を前にっ。ルシエっ、ずっとずっと会いたかった。父さんも母さんも妹たちもみんな、おまえのことが気がかりだった。辛くはないか、泣いてはいないかと…っ」
 声を荒げたロッディの必死の顔つきは、ここまで来るまでの道のりを思わせるものだった。それは決して平坦ではなかっただろう。
 弟妹思いの兄であったロッディが、弟の入宮に激怒したのは予想が付く。
 一族の者が止めるのも聞かず、ただがむしゃらに突き進んで来たに違いなかった。それでも、今の今まで会うことは叶わなかったのだから、どれだけの苦労があったのか想像に難くない。
「ルシィ、ちゃんと飯は食えているか?泣いてばかりいないか?…おれは、いつかぜったいにおまえを渡り風に戻してやるから」
 兄の振る舞いを諫め、大丈夫だと応えるはずの声がつまって上手く出ない。
 少しでも近付こうと手を伸ばす兄は、青い瞳を潤ませ、声を震わせる。
 やや日に灼けた肌にはいつくもの擦り傷があり、一族の印を大きくあしらった風衣は長旅を思わせるほつれが所々に見られた。
 人形になるまで、ずっと変わらず続くのだと持っていた日々。
 ルシエは自由気ままにただ空を往き、兄と笑い会い、時には喧嘩をして、母に叱られて。
「ルシィ、…ルシィ、頼む、何か言ってくれ。おれたちを恨んでいるというなら、それでいい、でも、おれたちはおまえのことをいつまでも待っているから…ッ」
 ひとつひとつの叫びが、ルシエの胸に突き刺さる。
 花青宮での暮らしを続けるうちにルシエが形作っていったものが、ひび割れ、剥がれ落ちていく。まるで時が巻き戻されていくようだった。
「ルシィ…ッ」
「にい、さん…っ」
 絡んでいたはずの腕からするりと体が離れる。
 まろぶように兄に駆け寄ったルシエは、きつくしがみついた。別れた時よりもいっそう華奢になったのではないかと思える弟の体をロッディは力一杯抱き締める。
「ごめんな、ルシィひとり、こんな目に遭わせて、…ごめんな」
「うんん……、僕が、僕が……」
 どんなに焦がれ、望み、求めたか分からない。
 たとえ飽きられる日が来ても、元通りの生活が送れるのか、ルシエには全く分からない。
 だからもう2度と家族とは会えないかもしれない。
 そう覚悟していた。そう思うことしかできなかった。
 渡り風から再び人形を出してしまった一族は恐れおののき、ルシエの家族を詰ったかもしれない。最悪、そんなことになった元凶であるルシエを恨んでいるかもしれない、とまで考え詰めていたものが、ただ身を押し付けるだけで解け消えていく。
 つよく抱き締め合い、ふたりは頬を合わした。
 お互いの風がふんわりと混ざり合うと、部屋にかけられた窓布がかたかたと音を鳴らして巻き上がる。
 こうした共鳴現象は同じ血を持ち、似たような力の気配を持つ者同士のみの間に起こるものだった。
 それはさほど長くは続かない。
 やがて静まり返った室内で、よりいっそう弟を抱き締めようとしたロッディは、弟の異変に気がついた。
「…ルシィ…?」
「…、……」
 青ざめた顔できつく眉を寄せたルシエが抱き留めるロッディの腕をすり抜け、半身を折るようにうずくまった。
 肩胛骨の中央付近にいれられた人形に印が疼き、熱を持つ。
 それはただの印ではなかった。
 肌身に根を広げるような痛みとともに、内臓を捩られるような、激しい不快感が襲う。
「……、っぁ…」
 激痛が全身に走る。周囲の音が雑音とともに遠ざかった。何か言いたいのに、言葉がうまくでない。
「ルシィ、ルシィ…っ」
「あなたが近付けば近付くほど、苦しみは増しますよ」
「なんだと…ッ」
 ロッディは男をきつく睨み、こぶしを握った。
 所有者は人形を意のままに操ることが出来る、それは良く知られていることだった。今にも飛びかかっていきそうなロッディの前を、ふたりの花青官が遮る。
「…あ、あ……っッ」
 語気を荒げるロッディの向こうで、ルシエは背を仰け反らせるようにして床に崩れ落ち、激しい痛みに脂汗を滴らせる。
 とっさに弟の身をさすろうとしたロッディは、その瞬間腕に痺れが走り後退った。
 尚も近寄ろうとしてバチリと雷撃に触れたような痛みとともに跳ね返される。
「な、なに…」
「近付いて欲しくないようですね、あなたには」
「勝手なことを言うな!もうやめろッ。文句があるならおれに言えよッ」
「ルシエのそれは、誓いを違えたからです。原因はルシエ自身にある」
「だから、それはあんたがしていることなんだろうがっ」
「いいえ、残念ながら違いますよ」
 薄い微笑をうかべた美しい男を、ロッディは疑いの眼差しで睨みつけた。
 はいそうですか、とすぐに信じられるはずがない。
 立ち竦むロッディを余所に、今まで物音ひとつさせず控えていた花青官のひとり、ツィーツェが何のためらいもなく人形に近付いた。
 ロッディは目を瞠る。ロッディは近付くことが出来なかったのに、彼はルシエに触れることが出来るようだった。
 ツィーツェはルシエの首の下に腕を入れて半身を起こし、涙と汗でぐちゃぐちゃに汚れた顔を手布で拭う。苦しみに藻掻いたため、乱れた襟裾を手早く直した。
「飲んでください。決して噛んではいけません」
 薄めを開けたルシエは、ツィーツェが口もとにあてがった大粒の丸薬を含み、喉につまらせそうになりながらもどうにか飲み込む。
「シーゼルエント大公、これは…」
「ウィリスタのロータム。下手な同情心を抱くから、こういうことになるのですよ」
「…………」
 ロータムは呆然としているロッディの腕を取って傍に跪かせ、何事もなかったように美しい顔を晒す大公を見上げた。
「壱の方さまに何が…?」
「誓いですよ。ウィリスタのロータム。人形の誓いについては?」
「………、そういうものがある、とだけ」
「そう。ルシエ、約束をしましたね」
「あ、……あ……」
 いやだと言うように首を振る人形を、薄笑みをうかべて主人が促す。
「覚えているでしょう。最後だけで構いません。言ってご覧なさい」
 睫毛に絡んだ涙が瞬きとともに伝い落ちて頬を濡らす。
 きつく唇を噛んだルシエは青ざめた顔を俯けた。
「ルシエ」
 潤んだ瞳を1度だけ主人に向け、ルシエはきつく裾を握りしめた。
 できることなら、口を固く閉じて、ひと言も口を訊きたくない。でもそれは許されないことだった。その誓いがある限り。
「…わたくしは、身の内に連なる者と2度と関わり合いません。人形は主人のもの。我が身は主人のもと、我が心は主人のもとで、永遠の忠誠を誓い申し上げます。もしこれら誓いを違えることがあれば、……、人形は2度と…人の身に戻らないことをお誓い申し上げます…」
「良くできました。全文を諳んじさせることも出来ますよ。誓いを済ませれば人形がそれを忘れることはありませんから。2度ともとの体を取り戻したくない、と言うのなら、構いません。幾らでも兄のもとへ行かせてあげましょう」
「ひ…ッ、いや、いやだ…っ」
 体の中に埋め込まれた誓いが、人形を苦しめる。
 人形の誓いを守れなかった者は、たとえ飽きられ、捨てられても、もとの体には戻れない。死ぬまで主人を欲し、主人の気に全身を蝕まれながら生きていくしかなかった。
 そうなった者は時に肉欲に溺れ、餓え続けて、気が触れるまで苦痛に苛まれるのだと言われている。
 恐怖に喉を引きつらせ、ルシエは全身を強張らせた。
「やめろ、やめろっ」
「あっ、あぁッ、っっ」
 ロッディのわめきが室内に響き渡る。
 どれぐらいの時が経ったのか。おそらくそれほど長くはないはずだったが、ルシエには気が遠くなるほど長い時が経ったような気がした。
 客人も花青官たちも口を噤む。
 ルシエは鼻水を啜り上げ、こぼれ落ちる涙を必死に堪えながら、ただじっと主人の怒りが収まるのを待つしかない。美貌の大公が優雅な動きで立ち上がると、ようやく凝っていた空気がふっとゆるんだ。
 床に敷かれた絨毯をかきむしるように藻掻く人形の体を抱き起こし、エルシェリタは泣き顔を晒す人形の唇に深く口付けた。
「……ん、…」
 与えられた主人の気によってようやく鎮まった苦痛に、ルシエはぽたぽたと涙をこぼした。怯えのあまり歯の根が合わない人形にエルシェリタは繰り返し口づけを落とす。
 そうしてようやく落ち着きを取り戻した人形を、エルシェリタは優しく撫でる。ほつれて肌にはり付いた髪を指先で軽く整え、抱き上げた。
 もと通り窓辺の椅子に腰掛け膝に人形を乗せた美貌の大公に、呆然とした表情のふたりの客人は、すぐに声をかけることが出来ない。室内はまだ緊迫した空気をはらんでいたが、花青官たちは別で、人形が涙で瞼を腫らさないように温めた湯に通した布をあてがい、水差しから注いだ水をかいがいしく飲ませた。



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