「な…、なにが、人形の誓いだッ。人の弟を脅しつけて、ムリヤリ従わせて、返せ、返せっ、おれの弟を返せッ」 長い沈黙を破ったのはロッディであった。 たとえようのない悲鳴のような声が室内に響き渡る。 憤りを含んだ風がロッディを中心にふわりと膨れあがって渦を巻いた。とっさにその力を抑えようと動いた花青官たちをエルシェリタは一瞥し、止める。 「ルシィを、ルシィを離せ…ッ。返せよ、おれの弟を返せよ…っ」 「あなたがどう言おうとも、人形の身は人形と主人のもの。周りが口出すことなど何もありません。ご覧なさい」 言うなり人形の襟を引き、肌着ごと抜くエルシェリタの行動に息をのんだのはロッディだけではなかっただろう。白く透きとおるような肌が、陽の光に晒されて輝くようだった。 剥き出しになった肩を抱き寄せ、腕を抜き、腰紐を弛める。エルシェリタは露わになった人形の背を周りに晒した。 「か、花青紋…?」 「凄まじいことだな…」 ルシエの背には花や光、風をあしらった独特の紋様が広がっていた。それはロッディの台詞通り、花青官たちの衣などに縫い取られる印、花青紋に良く似ている。 もともと人形の印は肩胛骨の中央に小さく刻まれる。花と螺旋でつくられた目立たないもので、人形ごとに微妙に異なった意匠をもった。 しかしその印が主人の気に反応して育つことは、あまり知られていない。それもそのはず、たとえ広がっても人形の肩を飾るぐらいがせいぜいであったし、人形の肌身を目にして良い者は限られている。 驚きを隠せない客人たちに、花青官ツィーツェが口をひらく。 「こちらは花青紋と呼ばれるものの、正式な形です。我々が持つものはそれを模したものに過ぎません。伝承には全身に紋様を広げた方もいるそうですが、今は衣の襟を抜いた際、もとの印があるのが良いとされています。その為、広がった紋様はまめに解いております」 「と、く…?」 「見せてあげなさい」 「はい」 主人の求めに応えて、ツィーツェが外に控えた部下に何事かを言いつける。 程なくして運ばれてきたのはどこにでもありそうな糸紡ぎ用の道具で、円形の台と軸を組み合わせてあるものだった。さすがに花青官が使うものらしく、木製の糸巻きには土色の地に黒で複雑な模様が飾られていた。 ツィーツェはルシエの傍らに立ち、糸巻きの先を肌に軽くあてて小さな旋律を口ずさむ。くい、と先を引いて糸を引き出し、軸糸に結びつけて縒りだした。 肌身に広がった紋様から糸が紡ぎ出せるなど、考えられないことだった。 だが、そうとしか言いようがない。 光の雫を延ばしたようなきらきらと輝く糸が紡ぎ出されて、鮮やかな手際で糸巻きに巻き付いていく。ひとつの花を紡ぎ終えたところで、ツィーツェは手を止めた。その部分だけ模様が小さく欠けたが、やがて違う形が新たに広がるでしょう、と彼は付け加える。紋様の広がりは常に同じではなく、基本形をもとに様々な形をつくった。 糸を紡ぐ作業は痛くも痒くもないので、大抵うたた寝している間に作業が終わってしまう。人形から紡いだ糸は傷みやすく、主人や人形の傍から離すとすぐに形を失ってしまうので、ただ主人と人形の為に使った。 大切に使えば主人と人形を守る盾にも、優しく守る癒しにもなる。ルシエはこの糸で織った布を身にまとおうとはしないため、大半はエルシェリタの肌着や寝具として贅沢に使われていた。 もと通り服を着せるのを手伝い、糸巻きを片付けたツィーツェは何事もなかったように傍に控える。 「分かりましたか。他にこれほどの紋様を持つ者はいまの花青宮にはいません。ルシエは私の人形として、もう引き下がれないところまで来ているのですよ」 「そ。それが…が、なんだ。渡り風はルッテフィルドの二の舞をルシエに踏ませることを、決して認めない。知っているのだろう、精霊王の息子」 「先々代イーリ王の人形、ルッテフィルドのことですね」 「そうだ。おれたちにとってはじいさんの弟にあたる。気の優しい繊細な人だったと言っていた。人形になりさえしなければ、あんなふうに無残な亡くなり方はしなかったと」 エルシェリタは悠然とした態度で、優しく頷きを返す。 その名を王家内で知らない者はいない。 「イーリ王の人形たちはひどく嫉妬深かったと言われています。彼が人形として迎え入れられた時には、王は老いていた。まさか子が授かるなど考えてもいなかったのでしょう。彼は芸事に長け、穏やかな気質の方だったと聞きますが、恐らく花青宮で過ごすには少々優しすぎる方でもあったのでしょうね。気うつの病に罹り、誤って、宮の階段を踏み外してしまわれた」 まるみのある物言いをしたシーゼルエント大公に、ロッディは鋭く首を振って否定する。 「違う。ルッテフィルドは花青宮の妄執に殺されたんだ。彼は芯の強い人だった。その彼がまいるぐらいの仕打ちを受けたんだ。我々渡り風の民は2度と王家の人形に我が同胞を差し出さないと決めた」 「悲しい出来事です。イーリ王はこの事をとても悲しまれ、当時すでにその美しさが知られていたあなた方の父親を人形にしてはならない、と触れを出しました」 イーリ王は直接の子に対してだけではなく、自らに縁あるすべての王族に対して厳命したため、ルッテフィルドの名は広く知られるようになった。 本来なら王の子もろとも亡くなった責めをルシエの祖父たちが被る危険性さえあっただろう。だが、ルッテフィルドの死には王の他の人形たちが関わったという黒い噂が囁かれており、現実に彼の亡骸は家族のもとには返されず、すみやかな密葬が執り行われたのもあって、王が出したこの触れは、彼を守れなかった非を認めたためだとも言われていた。 今までも花青宮内で亡くなる者がいなかったわけではない。 ただルッテフィルドの場合、先々代王には子が少なかったため、懐妊が知れ渡るのが早く、民に歓迎されていたこと、もともと彼はその美しさと優しい人柄で、人形になる以前からその名が知られていたことの、ふたつがあった。 王が非を認めたというより、隠すことが出来ない死であり、民衆の反感も買った挙げ句、何もしないでは事が収まらないと、王に近しい人々が一計を案じたのだとも言われているものの、王も近しい人々も当時の詳細については固く口を噤み、真相は知られていない。 もっとも人形を出すことが少ない大衆の関心は花青宮内の話題からは離れやすく、いくつもの話が現れては消え、特に花青宮についての話は信憑性が薄いので、忘れ去られるのも早い。 世間を賑わせた話とはいえ、今でもルッテフィルドの名を覚えているのは、王族を除けばごくわずかな数だった。現に彼の血縁であるルシエがエルシェリタの人形に選ばれた際も、貴族の出てはないことが言われたぐらいで、さほど盛り上がりもせず噂話から消えた。 「渡り風は王家を信用しない」 「ええ、あなた方がそう思う原因が我々にあることは理解しています」 どこまでも暖簾に腕押すような手応えのなさにロッディは舌を打つが、結局のところ、シーゼルエント大公の方が上手ということである。 悔しさに歯がみするロッディをルシエは不安げに見つめた。 どれほど背に紋様が広がったとしても、飽きられるのは一瞬。そうルシエは思っている。ルッテフィルドの二の舞に遭わないと、断言は出来ない。 花青宮内のことにしても、決して風当たりが良いとは言えない。けれどルシエにはユーシムのように信頼の置ける相手がいるし、変わらず術組みに取り組むことが出来ている。 たとえここでルシエが幸せだと口にしても、ロッディは信じないだろう。ルシエ自身、今の状況が幸せだとか、不幸せだとかとはっきり区別がつかず、ただ大丈夫だと応えることしかできない。 「ルッテフィルドのことがあったっていうのに、あんたは別れの儀さえまともにさせず、弟を攫っていった。あんたも同罪だ」 「少々気が急いたことは認めましょう。別れの儀に関しては、改めて執り行いたいと考えています。旅の予定がありますし、ご家族が集まるための時間も必要ですから、数週後。シーゼルエントで、というのはどうですか」 「……?」 「…っ」 兄と弟、ふたりから揃って驚きの視線を受けたエルシェリタは、微笑みをうかべて頷いた。 「風のロッディ。再び執り行う別れの儀では、ルシエとゆっくり話す時間がとれるでしょう。決断はすぐでなくても構いません。ここはいったん帰られて、よく考えてください」 それがどういう考えのもとに行われるにせよ、大公の譲歩ではある。 ロッディは黙り込み、しばらくの後、頷いた。 ルシエは兄から向けられる視線には応えず、彼が去るまで避け続けたが、思いもかけないエルシェリタの気紛れに驚いているのは、ルシエも同じだった。 本当に再び別れの儀が執り行われるのか。 エルシェリタは気紛れだが、つまらないことで嘘をつくことはない。 「ルシエ、別れの儀は本当の別れ。それを機に、未練は捨てなさい」 「………っ」 客が去った後の、妙な静けさに包まれた部屋の中で、ルシエは主人の口づけを受ける。主人の苛立ちは少し収まったようだったが、まだどこか埋め火のような怒りが燻っているようだった。 それがなぜかと考えようにも、その余裕さえなく喘がされるルシエにはただ過ぎていく時間しか分からない。 執拗に施される愛撫に涙をこぼしながら、ルシエは頷き、懸命に主人の背に縋り付いた。 |