「月吹く風と紅の王」



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 懐かしい風が吹いている。
 夢を見ているのだと、ルシエは思った。


 穏やかな日が続いていた。
 渡り風の一族は様々な土地をめぐりながら、一時の住処として小さな里をつくる。
 その年は砂漠にある小さな岩山に住まいを立てて、しばらく滞在することになっていた。
 滞在期間はまちまちで、数日の時もあれば、数ヶ月にわたる時もある。今回はその谷に留まるようになって、すでに数週間が過ぎていた。
 まず手始めに里の周辺を探り、徐々に行動範囲を広げていく。それがルシエのふだんのならいで、この時もそうだった。
 1週間もせずに遠くのオアシスや、この辺りでいちばん大きな街まで出かけるようになったルシエは、奥深い谷底や砂に半ば埋まった洞窟なども見に行くようになっていた。ここは近くの街の子どもたちでさえ近付いてはならないとされていたが、ルシエの興味は尽きることなく、ささやかな制約など構いもせずにひとり気ままに出歩く。
 渡り風は常にない強風をもたらしたりするので、嫌われることが多い。珍しい品を持っていたりするので、好意的に迎えられることももちろんある。砂漠の街の住人はどちらかというと後者で、ルシエには居心地が良かった。
「ルシエ、今日はどこへ行くの。あんまり危ないところに行ってはだめよ」
「大丈夫大丈夫。今日は街に行くだけ。毒蛇にはちゃんと気をつけるよ」
「ぜったいよ。気をつけてね、ルシエ」
 草色のスカートに白いエプロン。
 いつも誰よりも早く息子の外出に気づく母は、今日も洗濯物を干す手を止めて心配そうに口を挟む。
 砂漠を歩き回って毒蛇に噛まれ、騒ぎになったのはついこの間の話だ。
 ルシエは母の話が長くなってはたまらないとばかりに適当な返事をしただけで、ふわりと地面を蹴った。小言を口にしても追いかけてくることはないと知っているのだ。
 耳もと辺りで切りそろえた髪は本人の性格を示すように、いつだっててんでばらばらのところに跳ねていて、収まりが付かない。うまく伸ばせばきっときれいな髪になるだろうに、術に失敗して灼けただの、岩肌に絡めただのと、傷むようなことばかりしている息子を、彼女はため息とともに見上げた。
 おざなりな返事だけを残してあっという間に空を中へ駆けていく小さな風には、何ものも止められない勢いと奔放さがある。
「どうしたんだい、母さん」
「…ロッディ……」
 浮かない顔でいると、大きな樽をふたつも抱えた長男が顔を覗かせる。
 彼女はゆるく首を振って、笑みをうかべた。
「なんでもないの」
「あ、ルシィだろ。手伝えって言ったのに、あいつはまた」
 困った子よね、と微笑みながら頷く。
 いつもの光景だった。
 文句を言いながらもロッディは弟の分まで家のことを手伝ってくれるし、ルシエも陽が落ちる前には戻ってきて、楽しそうな笑みをまきながら夕食作りに加わってくれたりする。
 巫の血を引く彼女は勘が良かったが、不用意な言葉が禍をもたらすことも知っていた。
 朝から妙な胸騒ぎがしていて、どうにも落ち着かない。しかしそれを口にするのはためらわれた。
 今日もまた何事もなく過ぎる。
 そのはずだと、彼女は信じた。それを裏切られることなど考えたくもなかった。




「母さんちょっと元気なかったな」
 砂の上を駆ける風の中で、ルシエは独りごちた。
 家族思いの兄と親の言うことを良く聞く妹たち。
 間のルシエはちっともじっとしていられないのが母の悩みの種だった。
 そのことをルシエ自身も良く自覚している。けれどはじめて行く土地にはいつも新鮮な喜びと驚きがあって、ルシエはそれを確かめに行くのをやめられない。
 一所に留まれないのは渡り風の性分であったし、もう少ししたら一人前の風として認められる。そうなったらルシエも少し大人しくするつもりではあった。
「あ、そういえば髪飾りをなくしたって母さん言ってたな」
 新しい髪飾りを買って帰れば喜んでくれるだろうか。
 明るい茶色の髪をいつもひとつにまとめている母親だけれど、たまに髪を下ろして髪飾りをつけると、息子であるルシエから見てもすごく素敵だった。若い頃はずいぶんともてていたようで、今でもそれを話のネタにする年輩の男たちは多い。
 瞳と同じ深い碧に合う、髪飾りがいい。
 母だけに買うと妹たちがうるさいので、彼女たちにも何か見繕う必要があった。母譲りのつんと尖った唇と大きな瞳はいつでも魅力的で、ときどきルシエを困らせたりもするけれど、可愛い妹たちだった。下心丸見えの男たちはいつだってルシエが追い払っている。
 目的が決まると、ルシエを乗せた風はますます迅くなる。
 目指す街はまもなく、その姿を見せた。





 白珠、碧玉、紅石、きらきらと輝きを放つ透きとおった煌石があしらわれたものや、金や銀で拵えられたものはどれも高価で手がでない。
 ルシエが探すのは色糸を丁寧に編んだ紐飾りや、色合いが鈍くて質は落ちるけれど、手頃な彩石をあしらったものである。
「なんだい、想い人にかい」
「ちがうよ。母さんと妹にだもん」
「なあんだ。やっぱり」
「やっぱりってなんだよ」
 飾り屋の前にある布屋の店主はまるい体を揺らして、ああでもない、こうでもない、と首を傾げるルシエをからかうので、ルシエはむっつり唇を尖らせた。ひとりで選べるよ、と生意気な口で応戦するが、口を出されるとますます目移りしてしまうルシエである。
「想い人ができたなら、ルシエちゃんにはまず風呂がいるねえ」
「砂の中に転んだろ。髪の中まで砂だらけだよ」
 他の店からも人が出てきて、ルシエの母親よりも少し年上の女性が3人揃えば、まったくもって賑やかこの上ない。
 細い身体を持ち上げて砂を振り落とす彼女たちの腕っ節はなかなかのもので、ルシエには抗う暇もないのが常である。ばしばし背中を叩かれて咳き込んだルシエの文句も彼女たちの上を素通りだ。
 初対面の相手でもまったく臆することがなく、やんちゃばかりしているルシエはなかなか目立つ存在で、この辺りの店主とはあっという間に顔見知りになっていた。
「ちゃん言うな。おれ、もう少ししたら一人前なんだぞ」
「はっはっは。一人前ねえ。じゃ、もそっと大きくなった方がいいなあ」
「どうするんだい、ルシエちゃんのところはお父も美人じゃないか、この派手なのとかも似合うんじゃないか」
「ルシエちゃんも可愛いさ、なあ。毒蛇に噛まれても、治った途端けろりとした顔でヘビの蒸し焼き食べてるんだからなあ」
 ルシエにかこつけて井戸端会議を開く彼ら、彼女らにはまったく悪気がない。
 だからルシエもぷっくり頬をふくらませて怒りながらも次の瞬間には笑っている。来たばかりのよそ者であるルシエと地元に根付いた商売をしている彼らがうまくやっていけるのは、どちらも明るいのが取り柄で、さばけているためだろう。
 ルシエの父親はとても美しい人で、妹たちも遠くまで知られた美人姉妹だった。
 まだ1度も会ったことがないのに、恋文どころか結婚の申し込みは後を絶たない。そう言う輩はルシエがふたりの兄だと知ると少し不思議そうにし、ルシエの家族を見ると、哀れみを含んだ視線を投げかけてくる。
 身内ではルシエは父親似で通っているものの、ぼさぼさの髪に薄汚れた格好のルシエと繊細な美しさをもつ父親を比べることなど、誰であっても鼻で笑って済ませてしまうのだ。
 家族と似ていないことをからかわれるのは幼い頃こそずいぶん傷ついたものの、今となってはそれで良かったと思っている。
 美しい妹たちはルシエのように自由に外へ飛び出すことが出来ないし、いつも誰かしらに言い寄られるのが面倒になるのか、部屋の奥に閉じこもりがちだ。
 王族や貴族が近くにいる時などは、母は妹たちだけではなく、子どもは全員隠れるべきだと言って聞かないものの、誰がルシエに目を付けるのかと同世代の少年にはいつも笑われる。ルシエ自身もそう思うが、これには母だけでなく父も同意を示してくれないので、仕方なく隠れることも多い。ここのところはうまく逃げ出す術を覚えてしまい、外に飛び出すことも増えていた。
 井戸端会議に夢中になった店主からようやく解放されたことにほっとしながら、ルシエは再び熱心に飾りものを見比べる。
「よし、じゃ、これ」
 先に丸い彩石を連ねた紐飾りを色違いで2つと、それよりも上質な糸と彩石で編まれた紐飾りを選ぶ。ルシエは我ながら良い見立てだと悦に入った。少し悩んで、せっかくだからと父と兄にも守り石がついた房飾りを買うことにする。家族を守るためにいつも先陣を切っていく彼らには、厄災を避けると言われているものを必ず持っておいて欲しかった。
 贈り物らしく包んでくれるというので、出来上がりを待ちながら、ルシエはいつもは入らない店の奥へと足を踏み入れた。奥の棚には高価なものが多く、ルシエが見るのはいつも店先にある手頃な飾りものだ。
 ずいぶんといろいろあるんだなあと物見高く眺めていたルシエはふと足を止めた。
 紅い雫のような小振りの紅想石がはめこまれた銀細工だった。
 紅の石の周りをやや金色を帯びた光彩石が囲んでいる。細い銀の鎖で首から提げられるようになっており、薄暗い店内でもきらきらと輝いているのが分かった。
 冬の国に降る雪あられぐらいの、たいして大きくもない煌石だが、かなりの高値がついている。紅想石は希少なのだ。せいぜい雨粒ぐらいの大きさのものが出回るぐらいで、そもそもその石がこの店にあるのが不思議なぐらいだった。
「お目が高いですね」
「…?」
「とても良い石です。力を含んだ気石としての価値もある。あなたに良くお似合いですよ」
 振り返ってルシエは驚いた。
 そういう相手こそ、似合いそうだった。
 砂除けの外套からごくわずかに長く艶やかな銀の髪がこぼれ、整った容貌が覗く。おそらく青年だろう彼の瞳は、紅想石も霞んで見えそうなほど紅く、澄みきった色をしていた。
 美形に見慣れたルシエにとっても、ひどく美しい青年であるのが分かった。顔立ちが整っているのはもちろんのこと、指先はすらりと長く、手足はほっそりとしているようで弓弦のようなしなやかさがある。
 外套の仕立ては上等なもので、貴族かお金持ちの子弟といった雰囲気が見て取れた。
 ルシエがこのように高いものを身に付けるはずがないことは誰が見ても分かりそうなものだが、青年はにこにことルシエと首飾りを見比べている。
「…見ていただけだから」
「買わないのですか?」
「当たり前じゃん。こんな高いの手が出ないよ」
「では、買ってあげましょうか」
「…今なんて?」
 聞き間違えだと思ったものの、店の奥からルシエが頼んでいた包みを手に店主が出てくると、青年は飾りを覆っている棚の鍵を外すよう店主に頼んでいる。しかしそれだけでは耳にした内容に確証が持てず、ルシエは大人しく口を噤んだ。
 一目で上客だと見て取った店主は目でルシエに断りを入れてから、愛想良く鍵を外し、首飾り客に渡した。売れる相手はなんとしてでも引き留めるのが商売人である。
 愛想良く笑ってお追従を口にしようとした店主は、しかし、いつもどおりそれを口にすることは出来なかった。
「ほら、似合いますよ」
 客の青年が器用な手つきで留め金を外し、ルシエに首飾りをかけようとしたからである。
 それを見て、店主はぎょっと目を見開いた。そんな砂まみれのガキんちょに…と言いかけて慌てて口を閉じたが、誰が見たって似合わないし、正直なところ、石に傷でも付いたら大事だ。
「あの、旦那さま…?」
「構いませんでしょう?」
 やんわりと、しかし有無を言わせない口ぶりで店主を振り返った青年は、ルシエに首飾りを付ける。上から下までじっくり確かめるように見て、口もとを綻ばせた。
「ほら、とても良く似合っています」
 せっかく美人なのに、目は節穴。
 と、店主とルシエは思った。もちろん店主は固く口を閉ざして、なんとか褒め言葉をひねり出そうとしたが、ルシエを見るとぷっと吹き出しそうになる。良くも悪くも正直な店主にルシエはため息を吐いた。出来ることなら自分も笑う立場になりたい。
「…じゃ、あんたの大切な人に買って」
 手早く留め金を外そうとして、ルシエは小さく舌を打つ。
 このような飾りをつけたことがないので、うまく外すことが出来ない。
 もたつくルシエに青年はやんわりと己の手のひらをかぶせた。ルシエは青年の、想像以上にひんやりとした指先に息をのむ。手の冷たさぐらいで驚いては大人げない。そう思ってじっと堪えたルシエの態度をうっすらと笑みをうかべて見つめた青年は、ゆっくりと留め金を外しにかかる。
 付ける時はあんなに早かったのに、たっぷり時間がかかった。ようやく外れてほっとしたルシエに、青年は何事もなかったような顔で店主に首飾りを返す。
「店主、これをいただきましょう」
「は。はい…」
 逆らわない方が良いと見て取ったのだろう。
 店主は腰低く頷いて、店の奥に戻ろうとする。ぎょっとしたのはルシエだった。
「おい、あんた。おれの話を聞いていなかったのかよ」
「こ、こらルシエ…」
 ぞんざいな口を訊いたルシエに店主が慌ててたしなめるように口を挟む。気合いを入れて仕入れたものの、婚礼用か何かで売れてくれないだろうかと思っていた高値の品をぽんと買ってくれると言うのだから、どんな審美眼の持ち主であれ上客は上客である。
 ルシエはそれを無視して、青年をきつく睨みつけた。
「あんたがそれを買うのは別にいいけど、おれにくれるっていうなら、おれはいらないからな」
「なぜです。いけませんか」
「なぜって、おれはそういう飾りものを貰ういわれもないし、誰が見たって後ろ指さす。だいたい、そんなものを持っていてどうするんだよ。おれ、男だぜ」
「そのようなこと、どうでも良いと思いますが。あなたは目を奪われていらした。気になったのでしょう?」
「万が一そうでも、おれがあんたに買って貰うのはいやだって言っているんだよ」
「ならば、私が欲しいのです。自分で買って、自分のために使う、それならば構いませんか」
「はじめからそうすればいいんだ」
 どうしてこんな回り道をするのか分からないぐらいである。
 ルシエは店主から頼んでいた包みを受け取り、もう付き合っていられないとばかりに急ぎ足で店を出た。むろん後ろは振り返らない。
 いつの間にか井戸端会議は終了していたらしく、布屋の主人も客の応対をしているようで、道行く人々はみな楽しげに行き過ぎる買い物客ばかりだ。
 ルシエはひとつため息を吐いて、いったいなんだったんだろうと思った。
 金持ち息子の道楽にしたって、いきなり買ってやるはない。貴族などは男だろうが女だろうが気に入ったものを己のものにすると言うが、庶民にとっては男は女の気を引きたがり、女は男の気を引いて喜ぶものとされている。ルシエにしても、妹たちに贈り物を渡したがる男の気持ちは何となく分かるが、自分相手に同じような真似をしようとする男の気持ちなど、まったく分からなかった。



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