「月吹く風と紅の王」



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「もし」
「………はい」
「わたくしは、先ほど飾りもの屋でお声をかけさせていただきました者の家令で、ツィーツェと申します」
「…………」
「主人が何か失礼なことをしてしまったそうで、誠に申し訳ありませんでした」
 深々と頭を下げた男は、見ればこざっぱりとした身なりをしていた。
 店を出たすぐのところで声をかけられたルシエは、思い切り迷惑そうな顔をうかべて男の顔を見上げる。あれで終わりだと思ったのに、というのが正直なところだった。
 品良く佇む姿は貴人に仕える者独特の節度があったが、彼自身、貴族の子弟だと言っても申し分がないほどの気品があり、身に付けているものはどれも上質で、よく似合っていた。
「主人が貴方様にお詫びをさせていただきたいと申しております。もしお済みでないようでしたら、食事の席を設けさせていただきたいと、…もうお済みでしょうか?」
「これから…、だけど」
「さようですか。ではぜひ、もてなせていただけませんでしょうか。このまま貴方様を帰したとあっては我々も主人に申し訳が立ちません。お詫びのしようもなくなってしまったと、主人は嘆き悲しむでしょう」
 よどみなく語る男には主人のことを気遣う様子がたっぷりと見て取れる。
 だが、あくまで主人のことを想って言っているのである。ルシエに対して申し訳ない気持ちがあるから言っているのではない。
 どんなに恭しく告げられても、それぐらいのことは分かった。
「あの。それは筋が違うんじゃないですか?」
「筋が…と申しますと?」
「おれは身の丈に合わない申し出を断っただけです。詫びられるようなことは何もしていないし、されてもいない。どうしてもと言うなら、その言葉だけで充分です」
「しかしそれでは…」
「あなたの主人がどう思おうと、おれにはどうでもいい。…そういうことなので、失礼します」
 男はルシエに向かって丁寧に頭を下げてきたが、それに浅く頭を下げ返すだけにとどめ、それ以上何も言われないように、さっさと風とともに空へ上がった。
 あげると言われたり、おごると言われたり、おかしな日だ。おかしな主従と言ってもいい。
 身分ある者たちはとても横柄で、こちらの言い分など聞かない、というのが、ルシエの前々からの印象ではあったが、更にその上を行く気がする。
 彼らは頭ごなしに命令を投げつけてきたりはしなかったが、やはり少々、ルシエとは感覚が違うようだ。そうとしか言いようがない。
 今日はこれから街をまわるつもりだったものの、すっかり興が削がれてしまったルシエはほんの少しためらいつつも、街の外へ出ることにした。そちらは母が行って欲しくないと口にする、危険な地域である。
 街の反対側にしばらく行くと、砂漠が縦に裂けたような深い切れ込みがある。
 硬い岩肌に囲まれた谷はたえずつよい風が吹き、徐々に削られて砂に変わっていく、草も木もない荒れた土地だった。小さな獣がやっと通れるぐらいの狭い亀裂も多く、谷はいつも不気味はうなり声をたてている。
 おそらく亀裂の中を通る風がそのような音をたてるのだろうが、叫ぶような低く威嚇するような、独特の音を響かせるために、この辺りに住む人々さえ泣き谷と呼んで恐れる場所だった。  ここに来たと知られたら母親には叱られるだろうと思ったが、傍迷惑な主従に関わり合ってしまった不快感を払拭するには、ここほど適した場所はない。
 結局、黙っていれば良いとルシエはあっさり片付けてしまう。危ないと言われる場所ほど、人が来ない。ルシエはそういった場所に好んでいくので、多少の危険など気にも止めないのだ。
 泣き谷に向かう前に買い込んできた肉団子入りのスープと木の実入りの固いパン、皮ごと食べられるシントの実で腹ごなしを済ませ、ルシエはもっとも深い切れ込みのある谷の上部に立つ。
 毒蛇に噛まれたのがこの辺りだったので、慎重に蛇避けのまじないをかけておくことは忘れなかった。危険場所に赴くことに抵抗はないが、危機感が失われたわけではない。
「火よ。水よ。我が言葉、我が名の下で、ひとつの大いなる力へとかわれ」
 力ある言葉に違う音、新しい音を混ぜて術を編む。
 ルシエが発した言葉はくるりと渦を巻きながら、異なる力、違う輝きをもつ力が繋がり、混ざり合い、組み合わさっていくのである。時折力が弾けて光が散った。その光景はまるで小さな花火の中にいるようでもあり、遠目から見ればとても美しい。しかしそれは花火以上に、扱い方を間違えれば非常な危険を伴う煌めきであった。  泣き谷は滅多に人が来ない場所だから、安心して好きなだけ術を試せる。こういう場所が好きなのはそのせいもあった。それだけではなく時折谷底へ飛び降りて、荒い風の中に身を委ねるのも楽しいのだが、どちらにせよ危ないのに変わりはない。
 飽きることなく術を組み、試し、頭と体を目一杯使った後は、谷の所々に湧き出た温水に浸かるのがこのところのルシエの楽しみであった。
 こういう大きな温泉には獣が来ていることもあるが、ルシエはまったく気にしない。危ない獣であったら早々に退散するものの、そういうことは滅多にないので、この辺りの温泉は全てルシエの貸し切り状態だった。
 いつものように鼻歌交じりで温泉が湧き出ている窪みのひとつに足を向けたルシエは、そのすぐそばまで来てぎょっと足を止めた。
「あ、れ…」
「おや、こんにちは」
「……こん、にちは」
 先客がいたが、獣ではない。人である。
 見覚えのある銀色の髪と紅の瞳。
 ルシエがこの谷まで気晴らしに来た原因がそこにいた。本人の前にもかかわらず盛大に眉をひそめたルシエに対し、青年は気分を害したふうもなく、美しい顔に美しい笑みをうかべて微笑む。
 ついていない、とルシエは思った。
 出来ることならそのままきびすを返して他の場所に移りたかったものの、今日はふだんよりもたっぷり汗を掻き、他へ行くのも面倒なほど疲れていた。その原因は目の前の青年にあるのだが、そのことに対する文句を改めて言うほど、ルシエは暇ではない。
 細かいことをいちいち気にしているようでは、各地をまわって過ごす渡り風は務まらないのである。だから、ルシエはすぐに気持ちを切り替えた。
「…お邪魔しても?」
「どうぞ」
 一応の礼儀として断りを入れてから、岩場の影で服を脱いで、あらかじめ汲んでおいた水で脱いだ服を包む。だいたいの汚れが落ちたら水の膜を解いて、風で乾かすのである。
 再び青年が何かを贈ろうとしてきたり、あるいは詫びを入れようとしたって、すぐにはできない。お互い裸ひとつで湯の中にいるのである。少なくともすぐに何かを奢られるようなことはないだろう。
 それでいつものように温泉に入ったが、どうにも居心地が悪かった。
 紅眼の青年はいったい何が気になるのか、ルシエにぴたりと視線を合わせて外さないのである。出来ることならひと言も話さずにやり過ごしたかったものの、終いにはルシエも根負けして、青年を振り返った。
「何か」
「失礼。きれいな髪だと思いまして。淡い金色のようで、乳白色がかる、美しい月色の髪ですね。銀混じりの蒼い瞳は星夜の瞳と呼ぶのでしょう。まるで煌石のようです」
「それをいうなら、あんたの方だと思うけど。瞳だって、まるで夜に沈む紅の陽のようだし」
「ありがとうございます」
 嬉しそうに眦を細めた顔は思いの外人当たりが良く、ルシエはほんの少し警戒心を弛めた。少々お世辞が上手すぎるが、嫌味のない純粋な賛辞も感じ取れる。
 会っていきなり高価な首飾りを買ってあげると言われた時には、正直馬鹿にしているのかとさえ思ったものの、ただの育ちの良さから来る良識と常識のズレに過ぎなかったのかも知れない。
 そう思えば世間慣れしていない相手にいちいち目くじらを立てるのも大人げないような気がしてくるから不思議だった。
 世間慣れしていないと言うのなら、渡り風として各地をまわっているとはいえ、度々部屋の奥に隠され、大切に育てられてきたルシエの方がよっぽどそうだったのだが、本人にはその自覚がない。
 もしここでルシエが今まで誰も会ったことがなかった場所で再会する不審さや、人当たりの良い笑顔にひそむ鋭さに気付けたなら、話は違っただろう。あるいは、食事を断って飛び立つルシエに一瞬だけ向けられた、家令と名乗る男の冷ややかで計算高い笑みに気づいていたのなら、良かった。
 けれど良くも悪くもルシエには人の裏を読む技量はなく、また、たとえそうしたものが身についていたとしても、相手はルシエの一枚も二枚も上手だったはずだ。簡単に笑顔の裏を読ませたりはしなかったに違いない。
 どちらにせよルシエには紅の瞳にうかぶ邪気のない、ただ美しい笑みだけが目に映ったのだった。
 ルシエがほんのわずかに気を許したのを見て取り、青年は嬉しそうに目を細めた。
「ここの温泉には良く来られるのですか?」
「うん。まあ。そっちこそ、良く気付いたなあ。ここに来るのははじめて?」
「ええ、ここには地元の方でもあまり訪れないそうですね。あなたはなぜここに…失礼、お名前を伺っても?私はエルと申します」
「ルシエ。ここは新しい術を試すのにちょうど良いから。あんたが巻き込まれなくて良かったよ」
 お金持ちの子弟であればある程度の学業を修めているはずだから、独学のルシエの術に巻き込まれることはないだろうが、万が一ということもある。
 何事もなかったことに心底ほっとしたルシエに青年は興味深そうな顔で、術?とルシエに訊ねかけた。
 きっと鼻で笑うんだろうなと思いつつ、ルシエは今試している術の内容を話した。
 術と言っても、今ルシエがつくっているのは水の気を効率よく集めるための仕掛けで、似たようなものはたくさん市場に出回っている。
「売られているのは術者向けのものばかりだから、ふつうに家で使えるものが欲しいなって思って。砂漠を渡っていると、水を集めるのってけっこう大変だし。勝手に水がたまる器とかつくれたらいいのにと思うんだ」
「それは面白そうな術ですね。完成しそうですか?」
「一応は。でもまだ水が集まるのに3日かかるんだ。それもほんのちょっと。器にたまる前に傷んでる」
「よろしければ術の内容を教えていただけますか?少し心得がありますから、何かお手伝いが出来るかも知れません」
「うん」
 きちんとした術者の中には己が組む術を他の人に教えたがらない者もいる。勝手に使われたり、はっきり仕組みを見せてしまうと弱い部分を狙って崩されてしまうからだ。
 ルシエはそういうことはまったくこだわらない。
 きちんと耳を傾けて貰えたことが嬉しくて、ルシエは丁寧に術の内容を話した。
 素養がなければ口答で述べる術の仕組みなどまったく耳に入らないだろうが、青年はルシエが述べる内容を止めもせず最後まで聞き取り、深く頷いた。
「そうですね。火の2と10の辺りに土の気を混ぜてみるのはどうでしょうか」
「土の気?…なんで?…あ、そっか」
 青年が口にするのはどれもごくあっさりした助言である。けれど深く聞き込むにつれ、ルシエは新しい驚きと発見に夢中になって、次々思いうかぶ案を試したくて仕方がなくなった。あれやこれやと思いつくままに話しても、青年は的確な相槌を打ってくれる。それはルシエにとってこの上ない感動と喜びをもたらした。
「すごいなあ、エルは。おれ、すごく為になった。ありがとう」
「どういたしまして。それにしてもすごいですね、ルシエは。あのように独創的で変化に富んだ術はなかなかありませんよ」
「そうかな」
「ええ」
 そう言われて悪い気はしない。
 青年は1度もルシエの術を稚拙だとか、きちんとした法則にのっていないとか、探しだしたら切りがないあらに関してはまったく口にしなかった。
 他愛ない子どもの遊びだからと、まともに聞いて貰えることが少なかったルシエは、それだけで嬉しくなってしまう。
 それでついいそいそと今まで完成しなかったもの、完成したものをとりとなめなく話してしまったが、青年は嫌な顔ひとつしない。
 お互いそろそろのぼせそうなほど湯に浸かっていることに気づいて、ルシエははにかみながらもう一度礼を言う。簡単に断りを入れてから、さっと湯から上がった。
 風に乗せていた服を引き寄せ、脱ぎ着可能の外衣を使って体を拭う。些末なことには気にしないのが渡り風である。振り返ってみると、ちょうど青年も湯があがるところで、傍らにはいつ来たのか、ルシエを食事に誘おうとした家令の男が大きな布をあてがっていた。
 湯を拭い、主人の身繕いを整える様はとても手慣れていて、なるほどこうまでされたらひとりで釦も留められないおぼっちゃんができる、とルシエを納得させた。
 ちなみにその釦を留められない男は、旅先で出会った大商人の息子である。ひどく横柄な物言いをする少年で、ルシエは彼が好きではなかった。脱げた靴を取って来るよう言われた時には、思わずそれを投げつけてやったほどである。
「どうかされましたか」
 あんまりじっと見ていたので、主人の着付けの手を止めて男が振り返る。
 気恥ずかしさに俯き、何でもないと首を振ったルシエは、岩陰にもぐり込んで足の形に合わせた下衣をはき、頭から被って帯紐を締める上衣を着込む。簡素なつくりの服なので、あっというまに身繕いを済ませたルシエは、別れの挨拶をしようと外へ出た。
 改めて主従に視線を合わせたルシエは、はっと息をのむ。ルシエは、全身から血の気が引く音を聞いた。
「腕、輪…」
「おや、これをご存じですか」
 ルシエの呟きに、青年は紅い瞳を細めにこやかに応えた。その声音には少し前とまったく変わらない。優しく、清涼な声である。しかしそれは禍々しい響きとなってルシエの鼓膜を揺すぶった。
 青年の影になっていたから、気づかなかった。
 最初に男が現れた時は、苛立ちをこめてその顔を睨むばかりで気付けなかった。
 主人の着替えが終わり、まくり上げていた袖を戻した男の腕に輝く環には、独特の紋章が刻まれている。ルシエは幼い頃からそれが何かを教えられてきた。それは渡り風にとって、必ず見分けられなければならない印。
 花青紋である。
 花青官は常にその紋様を身に付けていなければならない。そういう決まりだ。
 彼ら花青官が従うのは、人形、もしくはその主人。
「あんた、…王族か」
 睨みつけたルシエに青年は小首を傾げる。
「私が人形だとは思わないんですか?」
「ふざけるなッ。人形がこんなところにいるもんか」
 かっと叫んだルシエに、青年は鷹揚に頷く。
「王族嫌いで名高い渡り風は、そういった教育もきちんとしているんですね。花青紋をきちんと見分けられる人はなかなか多くありませんよ」
「妹は渡さないっ」
 どれだけまろみのある言い方をしたって騙されはしない。
 相手が王族、それだけでルシエには充分だ。それだけで理解できる。相手は憎むべき相手だった。
 ルシエは鋭く言い放つ。
 王族は金持ちの子弟に化けられた。その身を証す印は公的な場でしか用いない。だから見分けられなくても仕方ないと渡り風は教えている。
 花青官は違う。だから渡り風は彼らの印、花青紋を教え込むのだ。花青紋がどういったものか、どのようなものに付けているかを必ず覚えさせる。
 怒りに首筋を朱くするルシエを、青年はまるで楽しいものでも見るように、おかしげに見つめ返した。
「守れるとでもお思いですか」
「風の誇りにかけて」
「守れませんよ」
「……な、!?」
 青年の傍にいたはずの花青官がいない。はっと身構えようとした時には、遅かった。
「あなたは私の人形になるんですから」
「……っ、…」
 その言葉をはっきりと理解する前に、ルシエの意識が遠ざかる。いつのまにかすぐ目の前に迫った花青官の男に、鋭く手刀を打ち込まれたせいだった。
 なぜ。それは意識を失う寸前、ルシエが思えたことだった。
 そしてそのまま、ただ美しく微笑む青年の腕へと崩れ落ちるしかなかった。



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