身内、あるいは一族の殆どを集めて盛大に行われるはずの別れの儀は、密やかに行われることになった。 招かれたのは人形の二親のみ。それ以外はたとえ親以外の親族であっても、対面を許されなかった。もし建物の周辺に招かれていない者がいると分かれば、儀そのものを行わない。そのような一方的な通達を持って行われた。 仕立て終えたばかりの人形は白でまとめた衣をまとう。 光沢のある白い布地に白銀の糸で艶やかな紋様が縫い取られており、襟は高く、ほっそりとした腕の形に合わせてつくった長い袖には、糸を編み合わせてつくりあげた繊細な透かし布が惜しみなく使われていた。 腰にふくらみをつくらず、足先に向かってやや広がるような形をとった引き裾は定められた通りの長さであり、まるで咲きかけの花のようなふんわりと足もとを覆い隠して、美しい流れをつくっている。 それはいわば人形のための婚礼衣装だった。 ただしふつうのそれとは大きく異なる。 この辺りの娘たちが着る婚礼衣装ならば、艶やかな色糸で派手な縫い取りをしてあるものであり、なるべく色鮮やかで、華やかな方がより幸せに豊かになれるという考えだから、布地も紅や空色、碧など、はっと目を引く色彩であることが多い。裕福な娘なら金糸や銀糸で縁取りを施した豪奢な衣装を仕立てて祝いの席に望むものだった。 入宮を控えた人形の拵えは、育った家を巣立つための離別の衣装であり、主人に心身を捧げることを誓う、生まれ変わりを示すもの。唯一白以外で身にまとえる色は、主人がその身に含む色である。それは髪の色であったり気の色であったが、無垢であることを強調するため、白だけでまとめることも多い。 髪は結い上げるのが正しい形だったものの、ルシエの髪は短いので、結い上げようにもどうしたって長さが足りない。 付け髪をすることは出来るがこの場では相応しくなく、横髪を編み込んで後ろで軽くまとめるだけにとどめ、薄い翅のような透きとおった衣で全身を包んだ。 その布越しに、ちらちらと紅い輝きが覗く。 ルシエの額には砂漠の街で受け取りを拒んだ、あの首飾りを崩してつくった額飾りがつけられていた。紅い雫のような紅想石の上に貝殻色の小さな珠を組み合わせてあるため、輝きにまるみが出て、白い衣ともよく合う。 それは幼さを残した顔立ちに大人びた装いを与え、遠く澄み渡る空のような、清らかで凛とした佇まいを際だたせていたが、蒼い瞳は物憂げな色をたたえている。 身支度を調え、自分付きの花青官の片方の手を預けたまま、ルシエは白い結晶石で造り上げられた廊下をゆっくりと歩んでいた。 どことなくひんやりとして、厳かな気配に満ちている様はまるで小さな神殿のようだ。建物全体が張り詰めた空気に覆われている。それを敏感に感じ取ったルシエの頬もまた、固く強張っていた。 扉布に付けられた鈴が軽やかな音を立てて、先へと誘う。 その向こうには、両親が待っているはずだった。 天窓から太陽光を取り入れた白い部屋の中で、彼はただ静かに座りつづけていた。傍らには同じ椅子が並べられていたが、隣はあいている。 壁飾りもなければ、置物もない。あるのはふた組の椅子だった。彼の座った椅子と、数歩進まねば届かない位置に置かれたもうひと組の椅子。 入り口は彼の左右にあった。そのどちらにも祝い事などで好まれる煌びやかな紋様が刺繍された扉布がかかり、幾重にも重ねられた刺繍の糸で重みが増すのか、ごくわずかな風では揺らぎもしない。 ふたつある方のひとつは彼が使った外から通じる道、もうひとつは建物の中から通じる道である。 彼の眼差しは自然と後者の方へ向けられる。 ときどき、深く息を吐いて込み上げる緊張を解さねばならない。そうしないと、いつまでも同じ向きで全身が凝り固まってしまいそうだった。 彼が身じろぐ度に、淡い月色の髪が腰元で揺れる。天窓から降り注ぐ陽射しの中で眩い光を放つ、白く輝くような髪だった。 横髪だけ軽くねじり結い、銀糸で編んだ紐で留めてあるだけだったが、それだけで面差しが違う。まるで大輪の花のようであり、凍てつく寒さに舞う雪の結晶のように鋭く冷然とした美貌を晒していた。 身にまとうのは渡り風の紋章が入った正装で、体の線に合わせて裁断し、縫った上下に、前は短く、後ろにたっぷりとした裾を持つ上衣を着付けてある。腰紐には守り石付きの房飾りが付けられていた。 それは彼の息子からの贈り物。本来ならば直接手渡されて、はにかむ姿を見せてくれただろうもの。しかしそれは、思いもかけないところから彼の手もとに来ることになったものだった。 彼は胸底で渦巻く気持ちを呼気で整え、再び入り口を見た。 先触れを示す独特の余韻をはらんだ鈴の音が響く。 はじめに姿を現したのは、背が高く凛とした美貌の青年。彼はそれが誰なのかすぐに気づいた。 精霊王の長子、シーゼルエント大公。 彼の息子を奪った、その人である。 銀の髪の上に冠をつけたエルシェリタは、精霊王の息子としての正式な衣装を身にまとっていた。 胸もとに並ぶ数々の勲章と、大公を示す杖。肩に付けたマントは長く、定められた規定をもってこぶし6つ分ほど床につく。上から下までひとつながりの上衣には冬燐煌石を細かく砕いて縁取りに使い、腰元で折り返して片方の足もとが見えるようにしている。素足に履いたサンダルには大粒の光石があしらわれており、指先まで整った形をしていることが分かる。 典雅な出で立ちだが、圧倒的な存在感を伴う。一見優しいようで、烈しいまでの鋭さを含む紅の双眸があるからだろう。大抵の者が気圧され、たじろぐだろうその姿を前にしても、彼は微動だにしなかった。 一瞬、紅と蒼の光が交差する。 しかしそれはすぐに逸らされた。大公の後に続いて入ってきた少年の姿に、彼、リィジアは立ち上がる。 前もってきつく言い渡された注意事項の中には、たとえ家族であっても、軽々しく人形の身に触れてはならない、そういったこともあったが、彼は構わなかった。 また大公自身、それを止める気はないのだろう。己の人形とその親とが駆け寄り、お互いの身をつよく抱き締め合う姿を、ただ無言で見つめている。 その顔には微笑みもなければ苛立ちも含まれていない。ただ冷静にことの成り行きを見守る静かな表情だったが、今この場にいる父と子にはどうでも良いことであった。 「ルシエ、会いたかった。ああ、少し痩せてしまったね」 「お父さんこそ。すぐにごはんが食べられなくなるじゃんか。ちゃんと食べてるの?やつれたんじゃない?」 「おやおや、困ったな。どうだっただろう」 少し唇を尖らせるようにして父を気遣うルシエの口調はいつもと同じだった。 リィジアは息子の顔を覆う布を摘んで外し、頬を撫でる。 もともと灼けにくい肌質はいっそう透きとおるような白さで、月色の髪はたっぷり艶を含み、指の間をするりとくぐりぬけた。喜びに綻んだ頬が薔薇色に染まり、蒼い瞳がきらきらと輝くと、やんちゃだったはずの面立ちは驚くほど可憐に見える。 きれいになった。 ルシエが真実婚礼前の少女であるなら、父親として与えてあげたい最高の賛辞だろう。 それを告げる父親には一抹の寂しさが過ぎるのだろうが、この場においては、その言葉はリィジアの胸を深く抉る。 それはあってはならない報せだった。 あなたの息子さんは人形になりましたと。 こらからは花青宮で幸せに暮らすでしょうと。 幾ら美しく飾られた言葉を重ねられても、我が子を奪われ、家族を失った怒りと悲しみは癒えない。 もしリィジアの父親が生きていたのなら、その報せを持ってやってきた花青官たちをただでは返さなかったはずだ。怒りのあまり周辺一帯大嵐になったに違いない。リィジアがそうする前に、すでに長男のロッディの怒りが烈しく、それを抑える方にまわったリィジアにはできなかったが、できることなら、怒りのままに花青官を追い返し、息子を取り戻しにいきたかった。 だが、各地に点在する渡り風すべての情報網をもってしても、ルシエの行方はようとして知れず、別れの儀を行うから来るようにと言われるまで、精霊王の王子一行がどこに滞在しているかさえ掴めなかった。 本気なのだ。そうリィジアには感じられた。 精霊王の子は本気で自分から息子を奪おうとしているのだと。 彼はいつまでも息子を抱き締め、髪を撫で、その温もりをしっかりと感じていたかったが、これがごくわずかなひとときであり、すぐに終わってしまうことも理解している。抱擁を解き、リィジアは息子の頬を片手で包んだままじっと己と同じ色の瞳を見つめた。 「ルシエ、よく聞いておくれ。…渡り風はすでに砂漠を離れた。今は南に向かって進んでいる」 「南…西ではなくて…?」 当初の予定なら、西の森に向かうはずだった。 怪訝な面持ちになる息子の髪をリィジアは優しく撫でる。少しでも不安を和らげられるよう心を配り、彼は慎重に己の気持ちを伝えねばならない。 「南の湖に風の長がお住まいなんだよ。わたしとお母さんはいったんそこで渡りから降りる。長に今回のことを相談して、なるべく早くルシエがそこに戻ってこられるようにするから」 「……渡りから、降りるの…?」 「お母さんはもともと渡り風の育ちではないし、ロッディは渡りに残る。もしかしたら、ミメイとセイラも。…今はわたしたち家族の巣立ちの時。誰しも…そういう日がある。今はそういう時なんだ」 「…………」 「たとえ、ルシエが…人形になっても。わたしたちは家族であり、わたしの大切な息子であることに変わりはない。わたしたちは南の湖にいるから、いつかルシエもそこへ来てくれると嬉しい」 「………一緒に、おれも、帰る。今すぐ、お父さんと一緒に…っ」 その言葉に含まれた父の思いは痛いほど分かったが、だからといって頷くことは出来ない。今の今までルシエのは中にははっきりとした家族との別れが思い描かれていなかった。しかしそれは、リィジアの言葉で現実のものになる。 渡り風が渡りをやめることなんて、ルシエはないと思っていた。 それは風が死する時、その時だけだと。 でもリィジアたちは決めたのだ。旅を続けていると、ルシエが戻る時に迷ってしまうかもしれない。帰りづらいと思ってしまった時に、すぐに迎えに行ける場所にいないかもしれない。 南の湖なら王宮ともそれほど遠くなく、王宮や花青宮の噂話も流れてくる。 しかしそのことはすべて、父と子が長く会えなくなることを指し示していた。 当たり前に日々を過ごしてきた家族と離ればなれになるということが、これほど重く気持ちを乱すものだとルシエは知らなかった。 叫ぶような息子の声に反応して、室内の中に風が荒れた流れをつくる。床や天上、壁にぶつかり、渦を巻いた風の流れは、ルシエの体を覆い隠していた薄布を吹き飛ばし、リィジアの髪を巻き上げ、エルシェリタの衣をはためかせた。 「花青宮になんて行かない…っ、お父さんと帰る…っ」 「ルシエ…」 このまま連れて帰れるなら、この場から連れ去ってしまえば良いのなら、リィジアもそうする。 それですべてが解決するのなら、王族への不敬罪、人形への傷害罪、なんでも引き受ける。けれど、それではだめなのだ。だがそれをそのまま口にしてしまっては、息子の心を傷つける。絶望的なまでの残酷な宣言になるからだ。 地団駄を踏むように荒れ回る風は、ひどく悲しい。 精霊の子どもたちは己の身に備わった力をうまく使えず、暴走させてしまうことがある。大人になるにつれそれは自然と改善するものだが、あまりに大きな力を持ったり、あるいは相反する力を受け継いでしまったりなどすると、きちんとした教育と訓練を受け、力の制御法を会得するまで、いつまでも己の力を使いこなすことが出来なかった。 今でこそルシエは術を組んだりと己の力をうまく使う方法を見つけたが、幼い頃はちょっとしたことで風を荒らしていた。 人よりも少々不安定で、つよい力。リィジアは幼いルシエを抱き上げ、空の中を廻りながら、飽きることなくルシエをあやし続けた。 気持ちの乱れが力を乱し、力の乱れで気持ちが乱れる。 そんな悪循環に陥りがちの我が子を、ただ広々とした空の世界へ連れて行く。それだけで不思議と幼いルシエはぐずるのやめ、いつのまにか父の長い髪に風を絡めて嬉しそうに笑っていたこともあった。 「ルシエ…」 「どうして、お父さん、おれは帰っちゃダメなの…?」 「そんなことはない。そんなことはないんだよ。いつだってルシエは戻ってきていい。でも今は、ルシエとそこの紅い瞳の人は繋がってしまっているから、あんまり長く離ればなれになると、一緒にいなくちゃダメだよ、って、ルシエを苦しめる力がくっついてしまっているんだ。だからその力が解けるまでは、ルシエは彼のそばに…花青宮にいなくちゃいけない」 「お父さんにも解けないの…?お母さんにも…?」 ルシエがこの世で一番賢く、つよい力の持ち主である、と思っているふたりを出す。 リィジアは潤みそうになる瞳を瞬かせ、優しく頷いた。少しずつ己の風に荒れる風を取り込み、勢いをゆるめながら、リィジアは息子の力を受け止める。 「今は、そうだね」 「………じゃあ、おれが見つけてみせる。たくさん勉強する」 術を組むために難しい書物を読むのは好きでも、勉強となると尻込みする息子の固い決意に、リィジアは微笑んだ。親の欲目かもしれないが、息子ならきっといつか、そうするのではないかと思ってしまう。 頷く代わりによりいっそう、リィジアは息子の髪を優しく撫でた。 幼い日、あやすために空の中に連れて行った子ども。 自分と同じ、月色の髪と星の瞳を受け継いだ、ただひとりの子。 一緒に帰ろう、そう紡ごうとする心を押し殺し、リィジアはいちばん優しく見える顔で、今までいちばんきれいな微笑みを形作った。 「それまで、風の長のもとで待っているから。だからそれまで、さよならだよ。かわいいルシェリエント」 「………っ」 本来なら、成人の儀で与えられるはずの長い名前。 それを告げられ、ルシエは家族としばらく会えなくなるのだという事実を認め、覚悟を決めなければならなくなった。 少なくとも家族のもとで成人の儀は受けられない、そう見てこそのリィジアの言葉なのだと、ルシエには分かった。だからこそルシエは、成人の儀を受けた大人としてふるまわなければならないのだ。それが父の想いに応えることだった。 「星の瞳を受け継ぐ、月の風ルシェリエント。我、リージュテイアの名のもとに、成人と認める」 「………、はい」 「大人になっても、ルシエはわたしたちの子どもだよ。それを忘れないでおくれ」 「うん。お父さん、…」 さようなら、と小さく呟いたルシエを、リィジアはつよく抱き締める。 しがみつく細い腕を、華奢な体を、その温もりを、いつまでも忘れないように。ルシエもまた父のすべてを覚え込むように、抱擁は長く、固く続く。 ようやく荒れが収まり、ゆるく吹き流れる風の匂いが部屋に広がる。 ルシエとリィジアの風がそこにあったが、それは別れの風であった。 |