別れの儀は、人形とその家族のために行われるもの。 たとえ同席しても、この時ばかりは主人も口を挟まない。 父との別れを済ませた人形だけが先に奥へ下がると、ほのかな暖かさに満たされたはずの空気が冷たく凝った。 人形の主人と、人形の家族。 相反するもの。相容れないもの。少なくともここではそうだった。 斜向かいに置かれた椅子に腰を下ろした2人は、しばらく無言で瞼を伏せる。 それはお互いに、感情や状況を整理する時間であったのだろう。彼らは今ここでしか話すことが出来ないものを山ほど抱え、そしてそれらをすべて口にすることはできない。 程なくして、怖じ気もなく気負いもない双眸が真っ向から絡み合い、室内の空気は一瞬にして解け、熱を帯びる。灼けつくような烈しさがお互いの奥に見え隠れし、しかし表向きは凪ぎのような静かさだった。 「渡り風のリィジア。…いえ、あなたも月の風ですから、月の風のリィジアとお呼びした方が良いでしょうね」 「いいえ、王太子殿下。わたくしはただの風。ただ風のリィジアとお呼び下さいませ」 名の前に来る呼び名はそれを呼ぶ方が付ければ尊称の一種であり、己で言えば己の出自を簡潔に現すものである。 より属性にあったものであればあるほど良いとされ、敬意や、時に親密さを込めて用いられることもあれば、逆に蔑みや敵意を込めて用いられることもあった。 エルシェリタの声音には最上級の礼が込められていたが、その呼び名はリィジアの内側に鋭く踏み込むものでもある。リィジアにとってそれは特別な時にのみ使うものであり、普段遣いするようなものではない。 厳しく拒絶したリィジアの振る舞いは幾分攻撃的であり、精霊王の息子に対しての礼儀をわきまえていないものだともいえたが、エルシェリタは特に気分を害した様子もなく、ただ少し楽しげに目を細めた。 「失礼。では風のリィジア。奥様はどうされたのです。確か一緒においでくださるようにと申し上げたはずですが」 「妻は巫女です。一族を守る義務があります」 「そうでしたね。では、良い薬師と薬草を向かわせましょう。体調を崩されていては、その務めにも障りが出るでしょうから」 「お断りいたします。あなたにそのようなことをしていただくいわれはありません」 リィジアはにべもない。 それもそのはずで、そもそもその原因は、目の前の男にあった。 彼女が体調を崩すほどの不安と動揺を与えたのは、彼。それは疑いようのない事実である。 それでも彼女は遠出するリィジアのために新しく衣装を誂え、肩に流した髪に息子が最後に買ってくれた髪飾りをつけ、微笑みをうかべてみせた。 そうしてみせるのは母親としての意地であり妻としての決意なのだろう。こんな時でなければ惚れ惚れとしたに違いない。 たとえ彼が高価な薬草を送ってきても、おそらく受け取りはしない。あるいは受け取ってすぐに他の人々のために使い切ってしまうだろう。 泣き言も恨み言も言わない彼女の心の底に、何のわだかまりもないと言えば嘘になる。けれどそれを押し殺し、残された家族のために毅然と振る舞う彼女の意思を尊重したい、とリィジアは思う。 憎しみをたぎらせ、怒りの刃をふるうのはひとりでいい。 それは自分の役目であると、リィジアは理解していた。 「分かりました。薬師団は留め置きましょう。早く健康を取り戻されると良いですね」 「ええ」 「それにしてもルシェリエントとは、素晴らしい名です。まるでそこに、私の名が含まれているようで、親しみを覚えました」 いっそのんきすぎて清々しいぐらいの物言いに、リィジアは慎重に目を眇めた。 彼がその話し口調のままの人柄であるなら良い。しかし本当にそうなら、はじめからこのような会話の応酬などせずに済むものである。 リィジアは、いいえ、と首を横に振った。 「そのような勘違いはされませんように。たとえあなたとルシエが主人と人形という関係になったとしても、それは名が混ざり合うほど強固な繋がりとは言えません」 「そうでしょうか。実際に似ていますのに」 「たまたまです」 これ以上は会話に応じない、そのつよさを持ったリィジアの声音にエルシェリタも鷹揚に頷く。 名付けた本人が断言しているのだから、はじめからエルシェリタに分はない。 それでもそれを持ち出したのはエルシェリタ流のからかいであり嫌味であるのだろうと、リィジアは理解する。 その話題を出されることをリィジアが嫌がるのを分かった上で持ち出しているのだ。名が似ることに大した意味はない。けれど言われればカンに障るのである。 ついきつくなる眼差しを意識して落ち着かせながら、リィジアは軽く息を吸って、鼓動を整える。 それほど自分の息子ほどに年若い王子だが、決して油断してはならない。焦りは禁物だった。 「あなたはルシエとの繋がりを欲していらっしゃる。だからこそ、このような酷い振る舞いをされた」 「私が人形を得ることは、ごく自然なことだと思いますが」 「ならば正式な申し込みをすべきでしょう。本来なら、それを受ける受けないはルシエ自身が決めることです。正しい手順を踏まずして、本当にルシエを得られたとお思いなのですか」 相手は身分がずっと上の精霊王の息子だったが、リィジアは言葉尻をゆるめたりなどしない。 強引な方法でことを成し遂げた相手は、正論を投げかけられた時に逆上することもあれば、開き直ることもある。 エルシェリタはどちらかというと後者だろうが、更にその上を行くに違いない。 リィジアの言葉にたじろぐ様子はなく、美しい微笑みをうかべてエルシェリタは頷きを返した。 「風のリィジア。あなたがたに恨まれることは覚悟の上ですが、こうは思いませんか?これは定められた宿命であったと」 「思いません。あなたがあの日、あの場にいた時から、確かにわたしはいつかこういう日が来るのではないかと危ぶんでいました。ですがそのことについて、宿命などという言葉で飾っていただく必要はない」 気の弱い者なら、ふたりがうかべた微笑みに腰を抜かしただろう。 精霊王の長子にここまではっきりした物言いをする者がいたことだけでなく、お互いに鋼の心臓でもあるのかと疑いたくなるぐらい、遠慮ない物言いをぶつけあっていたし、片方がごくごく平凡な男、あるいは青年であったなら、圧倒されるぐらいで済んだだろうが、お互いにありとあらゆる賛辞を身に受けてもまったく見劣りしない美貌の持ち主だった。それが彼らの迫力を増す。 沈み行く太陽のような烈しさをもつ紅い瞳と、月に照らされて淡く輝く夜のような蒼い瞳。 それが烈しくぶつかり合うのだから、相当な迫力である。 対極にあるようで、ふたりはどこか似通っていた。 だがそれは、ただ瞳の色や備わった容色だけが、彼らをそのような雰囲気に駆り立てているのではない。お互いが身にまとう雰囲気が、彼らをそうさせる。 夜明けのような澄みきった空気、あるいは晴れ渡った空に射し込むひと筋の光。 そのようなものをお互いから感じ取ることが出来る。あるいは似たもの同士であるが故に、お互いがはらむ個性がつよまるのかもしれない。 少なくともそれは混ざり合うことなく、お互いにお互いの存在をはっきりと際だたせた。リィジアの息子であるルシエにもわずかに備わった独特の空気。もしかすれば成長したルシエも同じ雰囲気を持つのかもしれない、そう思わせるものがリィジアにはあった。だが恐らくそうなっても、リィジアのものの方が尖りがつよいのだろう。 「はじめてあなたの子を見た時、私には月色の風に見えました」 「…………」 「古き神々の名残を見たような気分になったものです」 今は精霊が宿る地に、かつては神々がいた。 それは精霊とは異なる種族。今は遠い世界へと旅立ったと言われているが、その血脈は細々と続いているとも言われている。 しかしそれはもはやただの言い伝えであり、いようがいまいが、現実には大して障りもない。この天と地には精霊以外にも様々な種族が暮らしている。それと同じことだ。 「月光の民とお会いになったことは?」 「ありますよ、風のリィジア。それが?」 「月光の民の髪は白銀。わたしどものような黄味混じりの乳白がかったものではありません」 「そうでしたね。ですが私にはあなた方のそれの方がより古き神々に似ているのではと思ってしまうのです。星の瞳と呼ばれるそれは、なかなか滅多に現れることのないものだとも聞きますし」 「話をすり替えないで下さい。精霊王の子」 どこまでも壮大に描かれる話にうんざりとした様子でリィジアは短く首を振った。 今、ここでするべき話はそれではない。 「あなた方王族は、あまりに身勝手すぎる。叔父、ルッテフィルドのことをよもやお忘れではないでしょう」 「先々代の約束はあなたまで。あなたの子には有効ではありません」 「だからと言ってわたしの子を選ぶ。それはあまりに酷い仕打ちではありませんか」 「しかし出会ってしまったのです、風のリィジア」 「…っ」 リィジアは息子に似た清んだ瞳に烈しく燃え上がるような怒りの火を宿し、精霊王の長子をにらみつけた。 そんなことで、と叫びたいが、まさにその通りでもあった。 だからこそ渡り風は我が子たちを隠し続け、我が子を奪う王族たちの目が届かないようにしてきたのだ。出会うことさえなければ、選ばれることはない。一概にそう言うことも出来ないが、会わずに済ませられることに越したことはない。 怒りとともにリィジアにあるのは、後悔であった。 リィジアは叔父のことがあって、決して手を出してはならない、そういう先々代の宣言を受けた。それによって厚く守られることになったものの、リィジアの父は決して油断しなかった。いつ何時、それを破られることがあるかもしれないと、渡り風の中からまったく外に出さないような、ありとあらゆる権力者の目から隠すような、そんな育て方を貫いたのである。 それゆえに、リィジアは我が子には窮屈な思いをさせたくなかった。 遠くまで自由に駆けて、思うまま風とともにある。 そういった暮らしをさせたいと願い続けてきた。 妻と出会い、ロッディが生まれた。妻似たかわいい子どもで、これ以上ない幸せだと思った。 次に生まれたのがルシエ。自分と同じ髪と瞳を持つ子ども。3代続けてそのような容姿の子に恵まれたのは、とても良いことだと人は言い、その通りだと頷いた。 やがて娘たちにも恵まれた。赤ん坊の頃からきれいだった娘たちは、ちやほやされて育ったわりにそれほどわがままに育たず、今から結婚相手のことを思って父と兄たちの気持ちを乱す、可愛い娘たちだった。 特別なことはなにもない。 ただありふれた日々を送りたかった。それが裏目に出るなどと、想像もしたくなかったのに、リィジアは今こうして息子の主人と向き合わなければならない。 「わたしは父親として、あの子の幸せを願っています。ですから、これだけは言わせてください」 「ええ」 「もし。あなたが人形の誓いを盾に、あの子を苦しめ、捨てるなら。その時は王宮まであなたを殺しにゆきます。あなたがどれほどの力に守られようと、わたしにはきっとそれを成し遂げましょう」 リィジアの瞳はエルシェリタの瞳を捉え、真っ直ぐ見つめ続ける。 自分の息子を奪っていこうとする男に対する、父親として矜持、あるいは意地。 向けられたリィジアの眼差しを逸らすことなく受け止めた。むしろ好戦的なまでに、その笑みをにこやかに受け入れる。 「月の風のリィジア。その言葉、謹んでお受けしましょう。ですがそのような日は決して訪れない」 「そう願っています。精霊王の子」 「エルシェリタと、あなたになら呼んでいただいても構いませんが」 「お断りします」 形ばかりの別れの儀が執り行われた数日後、ルシエの花青宮入りが世間に伝えられた。 一の宮の壱の人形。 長く空白だった座がようやく埋まった報せに、人々は揃って祝意を口にした。 |