「月吹く風と紅の王」



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 俥は滑らかに空を進む。
 旅は、移動の繰り返しである。己の風で行く旅の道のりを苦痛に思ったことはないが、天馬俥に乗った旅がこんなにも辛いとは思いもしなかった。
 飛行用の俥としては決して狭くはない。それで息苦しさを覚えることはないはずだが、まるで狭い檻の中にいるような気詰まりを覚える。
 それはただ単純に、ルシエの中にあるもやもやとした気持ちがそう思わせるのだが、俥の中にたちこめた重い沈黙もまた、そうした雰囲気に拍車をかけているのだろうと思われた。
 手を伸ばせば届きそうな距離にいるのに、誰ひとり無駄口を叩かず、目も合わさない。
 結い上げた髪に挿したかんざしがしゃらりと鳴るのさえ、うるさく思えてルシエは体を強張らせた。
 音をたてないためにはじっとしていなければならず、同じ姿勢で居続けていると徐々に体が強ばり、余計に滅入って仕方がない。
 ルシエは小さく息を吐いて、窓の向こうに広がる雲の海に視線を逃がした。白いうねりと蒼い切れ目が丸く切り取られて、ゆるやかに形を変えていく。
 別れの儀を再び執り行う。
 そう告げたエルシェリタの真意がルシエには読めない。
 素直に喜ぶべきか、悲しむべきか。
 ルシエ自身の感想から言えば、今更そんなことを言われても、というところだった。
 確かにルシエはきちんとした儀を執り行って貰えなかったが、他の誰かの儀式を見たわけでもなく、そういうものだと言われればそれで納得ゆくものであった。
 できることなら家族全員に会いたかったとは思う。けれども、それはそれで気持ちの整理が付けられず、自分も苦しみ、家族も余計苦しめたのではないかとも思うのだ。
 人形になったばかりの頃は、あらゆることに憤り詰って、文句を付けたこともある。
 しかしそれは時間とともに底をつき、たまにひと欠片、ふた欠片こぼす程度になっていった。
 人形の日々には喜びもあれば、ひどい悲しみが襲う時もある。けれどそれは人形でなくても、そうだろう。些細な出来事で気持ちが乱れ、絶望することがあっても、繰り返される日々の中で落ち着きを取り戻していく。
 人形にさえならなければ、と思うことがまったくないとは言えない。
 けれどそう思うことは、堂々巡りの環に入り込むことだ。
 今のルシエは人形で、それ以外の何者でもない。
 分かっている。分かってはいるが、今の自分が家族を会うとなると、訳もなく胸の奥が鋭い痛みを発した。
 人形としての日々になれてしまった自分を見た時、家族は何と思うだろう。
 絶望させないか、嫌われないのか、迷惑をかけてしまわないのか。
 そうして、そんなふうに埒の明かないことをばかりを考えてしまう自分にも嫌気がさしてしまう。
 そうしていると、それもこれもエルシェリタが急に別れの儀を行うと言うからだと、恨めしく思う気持ちも生まれて、ルシエは大きくため息を吐いた。
 窓の向こうに広がる青い景色から目を逸らし、そっと正面に座る相手を見つめた。
 精霊王の子。自分の主人。
 今ここにいることの、何もかもの大もと。
 穴が開くほど眺めても、わずかな欠点も荒らしきものも見あたらない。
 たっぷり時間をかけて整えられる王族の身はいつも身綺麗で、不格好な部分や乱れたところなどひとつとして見つけることが出来ない。その上、大抵の娘が裸足で逃げ出したくなる美貌の持ち主である。下手に貶そうとすると、ただの僻みであり嫌味に過ぎなくなってしまいそうだった。
 恐らく彼の美しさはその美貌を讃えられて育った妹たちよりも上だろう。もしかすれば父親と並ぶかもしれない。
 ふつうは家族を引き合いにして容姿を比べたりはしないだろうが、ルシエの家族はなかなか容姿に恵まれていたので、ルシエの美の基準はあくまで家族である。
 ルシエはエルシェリタの怜悧な美貌を前にしても、怖じけたり見惚れて我を忘れたりということはない。慣れもあるが、もともとの性格もある。
 もちろん、きれいだな、と思うことはあった。
 美しいものに対する純粋な感動は、ふつうに持っている。
 あんまり長く見つめていたせいだろう。手もとの本に目を落としていた瞳が怪訝な色を乗せて斜向かいに座る人形に向けられる。
「なんです、ルシエ」
「ううん…。ただ、きれいだな、と思って…」
 応えたルシエは半ば考えるのを放棄したようなぼんやりとした様子で、自分の主人に向かっていうような台詞ではないことに気づかない。
 らしいといえばらしく、何の飾り気もないだけに本音なのだろうと伺わせる。
 ようやく口を利いたと思ったのは主人だけではないのに、この場の誰も予想しなかった出だしに、ふっと空気がゆるんだ。
「適いませんね、まったく…」
 呆れるのを通り越して毒気を抜かれた様子でエルシェリタが微笑むと、ルシエは訳が分からない、と口で言うよりもありありと分かる顔つきになった。
「……本当のことを言っただけなのに」
 自分の発言が何かまずかったらしいとは気付いたものの、咎められるようなことを口にしたようにも思えず、少し不満げに口を尖らせる。
 そんなルシエにエルシェリタはわずかな苦笑いをうかべた。
「咎めたわけではありませんよ。その言葉、ありがたく受け取っておきましょう。ですが、ルシエもずいぶん美しくなりましたね」
「…………」
 自分が褒めたからと言って、褒め返す必要はない。
 無言の訴えに気づかないエルシェリタではないが、そんな反応がむしろ小気味良く感じられたエルシェリタはわざと言葉を重ねる。
「これからの道行きでいったい何人の視線を釘付けにするやら。シーゼルエントで開かれる宴が楽しみですね」
「……釘付けにするのはエルシェリタだよ」
 少し前までの重苦しい沈黙などなかったような調子の良い言葉に、ルシエは少し困惑した顔で返す。
 機嫌がよいことに越したことはないだろうが、エルシェリタの発言は大いに間違っている。
 目立つのはエルシェリタ自身だ。
 誰が見てもそう断じる美貌が彼にはある。花青宮に入ってから容姿について頻繁に褒められるようになったルシエは、それがすべて隣にいる人のせいだと答え付けていた。
 誰だって美しい衣を着ればそれなりに見えてくるだろう。花青官が日々手入れを続ける肌身が整うのは当たり前で、そのおかげで己が多少見られる姿になったとしても、生来の美貌には適わない。
 渡り風の暮らしに戻りさえすれば、ルシエは目立たないただの風である。
 けれどエルシェリタのような美貌はどこに行っても何をしても目を引き、注目の的だ。それが疑いようのない事実であるがゆえに、ルシエは自分に向けられる視線にも無頓着なのだった。
「たとえ僕の方をしげしげと見ている人がいても、それはこんな格好だからだよ」
 人形の装いは贅沢なものである。
 下手すると王族よりも煌びやかな格好で人前に立つのだから、視線を浴びないわけがない。
 高価な衣や装飾品は人形の身をより人形らしく見せるひとつの手だ。
 それは傍らに伴う王族の品格をも高め、地位を知らしめるものだと考えられているため、爪の色から香油の調合まで常に気を配られる。そういうものだと言い切ったルシエにエルシェリタは曖昧な微笑みをうかべた。
「それだけではないと思いますけれどね」
 褒めても何も出ないよ、と素っ気なく応えたルシエは、再び窓の向こうに視線を向けた。
 今日は少し風が荒れている。
 冷気を含んだ烈しさのある風は、北の風独特のものだろう。
「次に行くのは…ウィレク?」
 主人に視線を戻すと、エルシェリタも再び手もとの本に目を落としている。
 最大限揺れを抑えるように走らせているとはいえ、よく読めるものだ、とルシエは妙なところで感心したが、幸いにもそれは本人には伝わらなかったらしい。エルシェリタは鷹揚な頷きを返す。
「そうです。なかなか豊かな街ですよ」
「何か特産があるんだよね。何だったっけ?」
 まったく何も考えてない顔で気軽に問いかけるルシエに、エルシェリタは紅い瞳を細め、傍らの花青官に目をやった。
「ツィーツェ。ルシエに訪れる街の概要は?」
「説明しております」
「そう。ならばルシエ。少しは頭を使いなさい」
 わずかに口をとがらせ主人と花青官を睨みつけたが、エルシェリタは相変わらず本を読んでいるし、ツィーツェもしらっとした顔でお茶を淹れている。
 黙っていても誰も答えを教えてくれないことを悟って、仕方なくルシエはろくに耳を傾けていなかったツィーツェの説明を頭の中から引っ張り出した。
「…建国…なんとか年、の、古い街なんだよね。現在街の代表はマルフィル。焔の精霊で、西の王族の遠い血縁で……えっと、あ、良い紅想石がとれる山があるんでしょう?」
「それだけですか?」
「何?僕に歴史学並の説明をしろって?」
 不満げに話を切ったルシエに、さすがのエルシェリタも本から顔を上げて苦笑いをうかべたものの、そうはいかないのが実際に長い時間をかけ、時には復唱までさせたツィーツェだった。
「ルシエさま。焔の民がとても好戦的な一族であることは当然ご存じですね?」
「えっ、まあ」
 頷きながらも、ルシエはいまいち反応が鈍い。
 花青宮にいる火花の精霊はとても穏和な少年である。直接話したことはないので、あくまでそういった印象があるだけだが、そんなものは人それぞれではないかとルシエは思う。
 ルシエの内心を読み取ったように、ツィーツェの鋭い双眸がきりりとつり上がった。
「ルシエさま。では、焔の民から踊りに誘われた時はどうされるのですか」
「ええと…」
 外で行われる宴では見知らぬ同士が手を取って踊ることがある。シーゼルエントでもそういった形をとるだろうと説明を受けてはいた。
「お断りするよ、もちろん」
 いちいち応じてなどいたら、面倒で仕方がない。そう思って気軽に答えたルシエだったが、正解ではなかったらしい。まあ当然か、とルシエも思った。ツィーツェの問いかけはその先を訊ねている。
 しかし人前では尚更、人形の傍から花青官が離れることはなく、その辺りのあしらいはツィーツェ任せにするつもりだったのである。
「そのあたりについて、もっともよくご説明させていただいたと思いますが」
「…ええっと…、そう、…」
 不機嫌な様子の自分付きの花青官を見上げ、ルシエは少し慌てて記憶をさらった。
 ツィーツェは滅多なことでは声を荒げたり怒りを見せることはないが、ルシエがあまりに不真面目だったり、やることがおざなりすぎると、ただでさえ切れ長の瞳にたっぷりと冷ややかさを込めて見据えてくる。それは思いの外迫力があり、とても居心地が悪いのでルシエは苦手だった。
「ええと、わたくしには、…眩い?」
「わたくしには貴方様の焔が眩くて、畏れ多いほどです。貴方様のお足を踏んでしまうことになったら、わたくしの心はお詫びの言葉もないまま破れてしまうに違いありません。どうかぜひ、次の機会にお誘い頂けますでしょうか、です」
「………無理」
「通常は微笑んでいらっしゃれば良いのです。わたくしどもがどうにか致します。ですが時には直に声をかけられ、返事を求められる場合もあるのです」
「西の王族の血縁って…偉い?」
 精霊王に従う他の王族相手なら、人形もある程度礼をもって接するものだと教えられている。傲岸不遜にふるまえと言われても困るが、たおやかに微笑んでいるというのもルシエにとってはなかなか苦行だった。
 否応なく人形のたしなみを身に付けたルシエとはいえ、もともとの性格というものがある。機知に富んだ断りの言葉を言えるようになるまでには、もう少し時間がいるだろう。
 主人と花青官はちらりと目を合わせ、人形には知られないように小さく息を吐いた。
「ルシエ。マルフィルの場合、その血筋が、と言うよりは、紅想石の優れた加工法を見つけた功績があるのです。ルシエのところにも献上品として、ウィレクの紅想石が良く届いていたでしょう」
「…そうなの?紅想石は気石として使おうとするとすぐ砕けるから、あまり気にしていなかった」
 紅想石はエルシェリタから最初に贈られた石であり、身に付けることも多いものだが、ルシエにしてみれば高価な石であるという印象しかなかった。
 もちろんそれ以外にも高価で希少なものはある。ルシエの持ち物だとされている衣装類はどれも贅沢な品ばかりだが、いったい何がどれだけあるのか、ルシエは正確に把握できていない。
 渡り風は移動しながら暮らしているので、もともとあまりものを持たない。ルシエにしてみれば、衣装庫に仰々しく詰められた品々が自分のものだと思うとうんざりするし、見ているだけで息苦しくなってくるので、あまり気にしないようにしている。
「いちど、髪に挿されたかんざしの珠を気石代わりにしたら、再構成の術を調べなくちゃいけなくなったし」
「ああ、あれですね。石の精霊に会いたいと突然言い出して、結局石よりも高い本を取り寄せた」
「………そう」
 自分が身に付けているものが上等な品であることは分かっていたが、それほどまで高価な石だとは知らなかったのだ。
 たまたまそれを知って、ルシエは誰にも知られないように石を元に戻そうとした。
 知らずに気石代わりにして、壊してしまったのだから仕方ない、と開き直るにはあまりに値がはり、気まずさもあった。術が上手くいかなくて、苛立ち紛れに使った石だったからである。
 石の精霊に知り合いがいれば、使ってしまった石の力を元に戻し、砕けてしまった欠片を繋ぎ合わせてくれる。そう安易に考えたのだが、花青宮には石の精霊がいなかった。
 結局、ルシエが砕いてしまった石のことは花青官たちにも、もちろん主人にも知られることになったのだが、別に誰も謝罪を求めず、そんなことでしたかとあっさりしたものだった。そのことよりもルシエの様子がおかしかった原因が分かってほっとした、というところだったのである。
 しかしそれでは納得がいかないのがルシエで、自分で直すといって聞かず、本があればできるようになると豪語した。それで取り寄せたのが石よりも高い本である。
「少々時間はかかりましたが、石はちゃんと元に戻りましたね」
「そう…だけど、でもあの輝きがちゃんと戻った訳じゃない。繋いだ石は、あくまで1度砕いてしまった、空っぽの石だもの…」
「力ある石は、長い時間をかけて、天と地にあるものが集まったもの。我々の手でそれを完全に修復することはできません。本来ならばただ飾りとして用いるより、ルシエの使い方の方が正しいのでしょう。時にはルシエの中に含まれ、あるいは術として使われ、再び形なく漂うものになるのですから」
「…………」
 あの時、ルシエは己の身を振り返り、自らを戒めた。
 人形として与えられる贅沢な暮らしは永遠ではない。
 贅沢になれてはいけない。
 ルシエは王族ではなく、貴族でもない。エルシェリタに飽きられたらお終いの、あやふやな身の上である。
 それを忘れてはいけない、とルシエは思う。
「断りの言葉が思いつかなくても構いません。ツィーツェの言うことを良く聞いて、自分なりのやり方を見つけていけば良いのです。誰が何といおうとルシエは私の人形であり、人形の品格や知性など、周りのものが勝手に思い描く幻想に過ぎないのですから」
「うん……」
 主人がそう言うのなら、ルシエとしても頷く他はない。
 しかしそれはルシエを慰める言葉であり、今のルシエを受け入れてくれたものだった。頷きながらほんのりのした喜びが込み上げたが、その言葉は悪い方にとろうとすれば幾らでもとれてしまう。
 どちらでも良い。どちらでも受け入れるしかないのだから。深く考えずに済ますのはそれが1番だったから、ルシエは良い方で受け取ってみることにした。



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