「月吹く風と紅の王」



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「祭?」
「ええ、壱の方さま。年に一度の祭が近付いているのです」
 城の中に飾られるようになった虹色の垂れ幕を見て足を止めたルシエに、たまたま居合わせたアンセルが説明する。
 彼が語ったことによれば、このウィレクでは冬が来る前に秋の実りを祝い、また次の年の豊穣を願う祭が執り行われるのだという。
 陽光の精霊、天水の精霊、大地の精霊。
 ひとりひとりの精霊の力はたかが知れていて、ある程度集まったからと言って天候をすべて自由に出来るわけもない。あくまで精霊は宿るもの。春に秋をつくることはできない。
 口に出来るものはありとあらゆるものの恵みであり、肌に触れるものも目に見えるもの、時に見ないものもまた然り。
 大抵の祭は祝いにかこつけた飲んで歌って踊るばかりの楽しい宴である。それを聞いたルシエの気持ちが否応なしに盛り上がったとしても、誰にも責められないだろう。
 ルシエは熱心に祭の様子を訊ね、思いを馳せた。
「こちらは祭で披露する舞の肩巾でございます」
 城の中に人形が喜ぶようなものなどなにひとつないことを心配していたアンセルは、興味を示したルシエのために、時間を改め、祭の内容を詳しく説明することを約束した。
 数日後、ルシエに部屋に祭で使われる道具類を持ってきたアンセルは、小物や、肩巾など舞い手が着る衣装を広げて見せる。
 厚みのある絨毯の上に直に座ったアンセルとルシエの間に艶やかな衣や拵えの凝った道具たちが並べられた様は壮観のひと言に尽き、ルシエは感嘆の息をこぼした。
「すごいきれい。あ、これは舞扇ですか?」
 全面に刺繍が入れられた肩巾を丹念に眺めてから、その近くに置かれた舞扇に目を留める。
 断りを入れてから薄く削りだした竹を重ねた扇を持たせて貰い、はらりと開いて目を細めた。内側に色の淡い土色と黄色で秋花が描かれてあるのが美しい。
「あまり派手ではありませんが、きれいな色でしょう」
「はい。舞うとき、音は何でとるのでしょう…、あ、雫琴」
 アンセルがルシエに応えて胸に抱えた小振りの竪琴を爪弾くと、固く澄んだ音が響く。
 雫琴は水が滴る音のような独特の含みと響きを持ち、ゆるりとした余韻を残す楽器だった。ごくごく短い旋律に耳を澄ましたルシエは、完全に音が聞こえなくなるまで瞼を閉じて音を楽しみ、床の上に所狭しと並べられた品々を見回した。
 舞い手の衣装はその年ごとに新しいものをあつらえる。これはだいぶん前の舞い手の持ち物らしいが、どこも傷んでないし、大切に扱われてきたことがそこかしこに伺えた。
「舞われたのは花の方でしょうか?」
 複数の精霊が住む街では、花の精霊が舞い手として選ばれやすい。
 その方がよりあでやかで、華やかな雰囲気をつくるからである。もちろんひとりないし数人が舞って、後は誰も舞わない、なんてことはないので、最初は花、という形を取ることが多かった。
 舞い手の持ち物に決まった意匠が施されているのに気づいてそう訊ねかける。アンセルはその通りだと大きく頷いた。
「とても華やかな舞をされる方です。今年も花の方なのですよ」
「花の方の舞ってすごく好きです。せかんでよく教えて貰いに行きました」
「今年の舞い手はなかなか良いものを持っておりますので、ぜひ壱の方さまにも見て頂けたらと思いますけれど、残念です。いずれまたの機会にぜひご覧ください」
「はい、…ぜひそうさせてくださいね」
 控えめ笑みをうかべてアンセルに応えたルシエは、こぼれそうになるため息をのみこんだ。
 祭と聞いてルシエは嬉しかったのだ。
 それに参加できるできないは別にして、遠目でも良いから眺めたい。そう思って何気なく主人に尋ねかけてみたのだが、返ってきた答えは祭りの日の前にはここを出るというもの。
 せめて舞い手と会ってみたいと頼んでみたが、エルシェリタはにべもなかった。その時のことを思い出し、ルシエはしょんぼりと肩を落とす。
 外出もだめ、人を呼ぶのもだめというのは厳しいようだが、城内ならば存分に歩き回ることが出来るし、人形の身としては充分すぎる扱いだろう。そうだと分かってはいるが、あと少しだけ、自分の言い分を聞いて欲しいとも思ってしまう。
 ルシエはアンセルが寄せる慰めの眼差しに気づいて、大丈夫だというように微笑み、扇を床に戻した。祭に使う衣装には金糸の入った色糸で丁寧に縫い取られた花や螺旋が描かれ、四季が紡ぎ出されているのが分かる。彩り鮮やかな袖を手に取らせて貰うと、思ったよりも軽く、手先に馴染んだ。
「美しい舞なんでしょうね…」
 ぽつりと呟いて、未練を振り払うように布地をひと撫でしただけで離す。
 花青宮では芸事を奨励しているから、花の精霊の舞を教わることも出来たが、それと土地の者に教わる舞はたとて型が同じでも趣が違う。
 ルシエは各地を渡っていく渡り風だから、他の精霊よりも様々な舞を見ているし、多少なら心得もある。しかし人形になってからだいぶ日も経っているので、自分の舞に多少なりとも人形の癖がついてしまっている気がした。
 人形の立ち居振る舞いには花青宮独特の決まり事というのが深く関わり、歩き方、会釈の仕方、微笑み方まで細かく定められている。ルシエはあまりそれらを守っている方ではないが、そういうものは長く暮らしていくうちに身についていくものだ。
 それが悪いということではない。けれど花青宮を通さない新しいものに触れてみたいと思うのも、自然な気持ちには違いない。
「壱の方さま…」
「すみません。もうだいぶ、祭の舞なんて見ていないものですから、懐かしくて」
「お好きなのですね、舞が」
「はい」
 呟きを聞きつけたアンセルが気遣うように声をかけるのに微笑んで、ルシエはしっかりと顔を上げた。くよくよしていても仕方ない。
 ルシエ自身、ある程度のことは受け入れているのだ。ルシエはアンセルのように名ではなく人形に対する呼び名を使われても、あまり気にならなくなっている。
 ルシエが住む宮には花青官以外の下働きの者もいて、そういった者は人形の名ではなく、アンセルのように壱の方、とルシエを呼びあらわす。人形は入れ替わる。勤める者は基本的に人ではなく宮についているから、その方がやりやすいのだろう。
 けれど、ここは複雑に入り組んだ宮の奥ではない。すぐにだって外に出て行けるような気持ちになれるから、気持ちの整理に少し時間がかかってしまうのかもしれなかった。
「よろしければ私が少し、お教えしましょうか」
「え、…」
「ただし、祭の舞ではありません。竜舞になってしまいますが」
「え、よ、良いのですか?」
 ルシエはアンセルの突然の申し出に驚き、一度も目にしたことがない、聞いたこともない、未知の舞に胸をときめかせた。
 竜の舞を竜種から教われることなど、滅多にないことである。竜の世界は精霊と同じ空の下にあるが、近しいわけではないのだ。交流も少ない。
 教えて貰えるのならそんな嬉しいことはないが、あまりにぶしつけな願いになってしまわないだろうかと、ルシエは戸惑った。
 気軽にそれをぽんと受けとることはできない。竜には敬意を払うべきだったし、竜の舞を知るということは、ある意味、隔て守られた竜の世界に深く踏み込んでしまうことになりかねないことだから、そういったことに疎いルシエは慎重になる。
 そのことが分からないわけではないアンセルではないだろうが、アンセルの答えは決まっているようで、何のためらいもなかった。
「ええ、もちろん」
「ぜ、ぜひ、お願いいたしますっ」
 アンセルの声には遠慮も気負いもなく、無理しているようには見えない。
 喜びに胸を躍らせ、ルシエは深々と腰を折った。




 宿泊先の家人が申し出てくれたことなので、ツィーツェたちは頭ごなしに止めたりはしなかったものの、やんわりと注意事項を口にした。師となる相手の身に近付きすぎない、みだりに口を利かないことなどだったが、しかしその程度なら、ルシエを阻む理由にはならない。
 ちょうど側近らと一緒に執務室がわりの一室にいたエルシェリタには、花青官とアンセル両方から伺いが立てられたものの、どちらにもすぐに許しがでたため、ルシエは無事アンセルに舞を教わる手筈になった。
 アンセルはマズスギル。そのせいだろう、彼の舞は精霊のそれとはずいぶんと趣が違うようだった。
「私たちは舞うときに謡を口にします。謡い手がいる場合はそちらに任せますが、いなければ自分で音を取らねばなりません。意味はおいおい説明いたしますので、私の後に続いて、復唱して下さいますか」
「はい」
 お互いに真向かった形で板間に正座し、ルシエは居住まいを正してアンセルを見つめる。舞には白を基調とした服で、足回りが自由になるものがよい、そうアンセルから前置きされていたため、一度湯浴みをしたルシエは白いこざっぱりとした服を着ていた。
 打ち合わせ式の上衣に筒袖、縫い付けられている長い紐を腰で回して留める下外衣。襟に布と同じ色の糸で小さな刺繍が入っている他は飾り気がなく、髪は頭の上でひとつにまとめただけである。
 肩に飾り布でも羽織れば、どこにでもいそうな少年の格好だった。城の外に出てもまったく目立たないだろう。できることならいつもこういった格好でいたいとルシエは思ったものの、口には出さなかった。却下されるのは目に見えている。
 急拵えの稽古着とはいえ仕立てに甘いところはないのは、さすが花青官の手を経たものだからに違いない。
「では、はじめます」
 アンセルは瞼を閉じて、ゆっくりと息を整える。
 次にアンセルの口から紡ぎ出された音色にルシエは戸惑った。充分心づもりはしていたつもりだったが、一瞬それが言葉だと分からない。
 まるで大きな鳥が啼いているようだった。あるいは風が通る渓谷の揺れのようで、言葉として捉えようとすると端から忘れてしまう。
「壱の方さま」
 謡を切ったアンセルに促され、ルシエは懸命にアンセルの声を辿った。少しゆっくりになっても、音を間違えないように紡ぐ。音の響きひとつひとつに力を含む場合もあるので、抑揚、伸び、そういったものができるだけ同じようになるよう気をつけた。
 だがそこに体の動きを伴わなければ舞ではない。ひと小節謡い終えるとアンセルが立ち上がり、指先を揃えて手を合わせ、額に軽く押し当てるとそれをぱっと開いた。
 ルシエはそれに倣う。
「そうです、足を前へ」
 鏡を前にするようにそっくりアンセルの真似をするのだが、手の形ひとつ、目線ひとつ、今までルシエが身に付けてきたものとまるで違う。
 おまけに鋭い動きもあればひどく不自然な形で体を留めることも必要で、慣れない動きに全身が悲鳴を上げたが、ルシエもアンセルも手足を止めない。ルシエにも風の舞い手としての意地がある。これぐらいのことで諦めるわけにはいない。
「指先、腰を」
 舞いを重ねていくうちに、アンセルはだんだんと言葉少なになっていった。
 ルシエの方も、それに応えて頷く余裕はない。ただ夢中で形をつくり、音を追い、旋律を喉にのぼらせて舞う。
 ひとさしごとに体が砕けてしまうようで、一声ごとに集うようだ。その繰り返しが心地よい。
 透明であり、ひどく深い竜舞の世界にルシエは意識を広げていった。



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