「月吹く風と紅の王」



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「やってくれましたね、エルシェリタ」
 唐突に口をひらいたのはアンセルだった。
 エルシェリタは相手の打った手を充分に眺めてから、美しい形の眉を片方、かすかに釣り上げる。むしろその台詞を吐くべきはアンセルではなく、対する彼の方だったが、盤上の変化とアンセルの言葉には関連性がない。
 彼らの間には四角く平べったい盤が据えられていて、丸く削られた色違いの石が並べられている。盤に刻まれた枡目にそって石を置きながら、領地を取り合う遊戯だった。
 盤が置かれているのは黒木を削ってつくられた机で、浅い背もたれがついた椅子は揃いで誂えられている。ごてごてとした装飾はなく、ほっそりとしたつくりが美しい。
 長い時間をかけて丁寧に扱われてきたことが伺え、よく部屋に馴染んでいた。
 壁一面に硝子戸をはめた部屋は明るく、外に向けて一部の扉を開けはなっていたので、葉擦れの音も鳥のさえずりも良く聞こえる。
 彼らは殆ど無言で石を打ち続けていたから、少し尖りのあるアンセルの声に驚いたように草むらで鳴いていた虫の音が止んだ。お互いの息づかいさえ消え失せたような沈黙がおりたが、エルシェリタが口をひらくと、それに誘われたように再び虫が鳴き出す。
「何をとお訊ねしてもよろしいですか、アンセル?」
 エルシェリタは己の黒石を用い、相手の白石を取り上げながら穏やかに聞き返す。
 ゆったりと頬杖を付く様まで絵になる男である。その声には微塵の乱れもないとアンセルは思ったが、それに惑わされることはない。
「ええ」
 アンセルは鷹揚に頷き、殆ど間を開けず白石を打つ。
「ルシエのことです」
「私の、壱の人形が何か」
「何か、ではありません。まさかここで戻しをはじめられるとは」
 ややため息を混ぜたアンセルには、苛立ちよりも呆れの方が大きい。
 毛先に向かって乳白色に変わるアンセルの髪は、昼の陽射しを受けて、まるで光射す雲のように白く輝いている。
 長い間奥深い森の中で暮らしていたせいか、アンセルの肌は雪のような青白さである。しかし不健康な雰囲気はない。それどころかむしろ髪色とも相まって、彼が持つ静謐さをより際だたせていた。
 エルシェリタは次の手を考えているように、その実、アンセルの希有な姿を心ゆくまで眺めてから、盤上に目を落とした。
 次の手をさし、口をひらく。
「ご迷惑をお掛けすることになって申し訳なく思っています。少し先で場所を用意し、済ませてしまうはずだったのですが、…思わぬ事態が起きてしまったものですから」
「思わぬ事態」
「ええ」
 美しい顔に豊かな表情を乗せてよどみなく応えてみせる王子の様子はどこまでも雅やかで、相対する者の戦意を奪うようなたおやかさがあった。
 ただ盤上の手は容赦なく相手の陣地を切り崩し、まるで追いつめるのを愉しむようなものばかりである。
 穏やかな色をたたえたはしばみ色の双眸をすうっと細め、アンセルは盤上を見下ろす。
 ルシエに見せていたのとはまるで違う、思慮深いが酷薄な目である。
 竜種らしいつよい存在感が一瞬あふれでて、虫も鳥も木さえも息をひそめたようにざわめきが止んだが、その顔にはうっすらと笑みがうかんでいた。
「彼に舞を教えてはいけませんでしたか?」
「いいえ、そのようなことはありません。まったく畏れ多いことです」
「いずれあまねく精霊を統べる王となる方がずいぶんと、ご謙遜ですね」
「相手はマズスギルの次期長とまで言われる方。私ごときが口を出せることではありませんでしょう」
 アンセルの尖った気配に気づかなかったわけではないが、エルシェリタは何事もなかったように返す。
 アンセルは小さく眉を上げ、初耳だとも心外ともとれるような顔でゆるく首を振った。結局のところ、彼らは似たような立場なのである。
 次期精霊王と次期長の座を約束された者同士、種族が違うために並べて考えることは難しいが、背負うものは似ている。
「むしろこちらからは篤く御礼を申し上げるべきこと。マルフィルが聞いたなら、驚くでしょうね。あなたが人形に竜舞を伝えたなどと知ったら」
「いない者のことなど、どうでも良いことです」
 アンセルはやや冷たく目を眇め、城主不在のまま王子一行を迎えるなどという不始末をするはめになった元凶を切り捨てた。
 あくまで精霊王の子、別に精霊王自身ではないから、それほど畏まって向かい入れる必要はないものの、ひとつ城を持つ城主として、ある程度の礼儀というものがある。
 少なくとも初日どころか滞在している間に1度も客に顔を見せないなど、あってはならないことだ。
 しかし、この場合に限って、誰もそれを咎めたり気にしたりしない。
 マルフィルが城に居着かない放浪癖の持ち主であるのが知られていることと、主人がいない城を守るアンセルがとても有能であり、アンセルの本性が竜種であるためである。
 後者に関してはあまり知られていないが、獣が怯えるほど強烈な気配を持った存在がただ者であるわけがない。その辺りは暗黙の了解である。
 エルシェリタにとってアンセルは友人であった。もともとはアンセルはマルフィルに紹介される形で知り合った仲だが、その張本人であるマルフィルはその癖故にしょっちゅういなくなるので、今ではアンセルとの方が付き合いが深い。
 そのおかげで城主マルフィルがいようがいまいが、我が物顔で城を使えているものの、いるならいた方が良い、とエルシェリタは思っている。マルフィルはエルシェリタにとって気心が知れた相手だった。
 一瞬覗かせた不機嫌さが失せて、冷ややかさだけが残ったアンセルの顔をエルシェリタは少し苦笑気味に見つめる。
「それで、また今回はどこまで行っているのです、マルフィルは」
「おそらくは、西の果てまで」
「また幻の気石とやらを?」
「ええ」
「常々不思議なのですが、それは本当にあるのですか」
「愚問です」
 あるかもしれないし、ないかもしれない。
 もともと気石とは曖昧なものである。ある程度のものは精霊自身で生み出すことができるし、放っておいてもどこかで育つから、その辺の道端に転がっている石粒が気石だったなどという話は山ほどある。
 あっさりとしたアンセルの応えに、さもありなんといった様子でエルシェリタは頷く。
「知者マズスギルと共にいながら、マルフィルはちっとも変わりませんね」
「あなたも大して違いません。昔も今も人の言うことをまるで聞かないのですから」
 アンセルはにべもない。アンセルはエルシェリタらの幼い頃を知っている。
 アンセルがルシエに舞を教えたのは、まだほんの数回だけである。しかしそれでもアンセルはルシエの師匠であり、ルシエは弟子である。ルシエが客人であることに変わりはないが、アンセルとルシエの繋がりは深まりつつあり、悪びれたところがない旧友よりそれに振り回される弟子の身を思ってしまうのは当然の成り行きだろう。
「その辺りに関しては、大人しく口を噤みましょう。あなたには適いませんからね」
 さりげなくありすぎるほどある年の差に話を押し付け、エルシェリタは穏やかな微笑みをうかべた。
「ただ、本当に…、なぜ、ルシエに舞を教えて下さる気になったのです?」
「なぜでしょうね」
 煙に巻くような応えだったが、それがアンセルの正直なところだった。エルシェリタはつよく続きを促すことなく、控えめな相槌を打つ。
 アンセルにとってそれは、ただの興味からはじまった。
「あなたが人形を持ったと聞いて、それがどんな子なのか、見てみたいと思っていました」
 少し前まで子ども子どもとしていた王子が、いっぱしに人形を得た。
 多くの人形を持つ精霊王の子であるのに、まだ1人目というのは少々遅いが、おめでたいことには変わりない。彼本人が美しいことから、それに引けを取らない美貌の人形だとか、むしろ美しさには飽きて、ちょっとひと目には出られないぐらいの醜い人形だとか、人々は好きなように言っていたから、噂ではなく実際に見てみたかった。
「見たいから見せに来いとああまではっきり伝えてきたのはアンセルぐらいです」
「仕方ありません。花青宮に乗り込むわけにはいかないでしょう」
 王宮よりも立ち入ることが難しい場所、それが花青宮である。
「当たり前です」
「会えて良かったと思っています。まさか、リィジアの子だとは思いませんでしたけどね」
 エルシェリタも頷く。
「私こそ、まさかあなたがリィジアと顔見知りだとは思いませんでした」
「正直、あの子を見るまで忘れていました。どちらかというと、リィジアよりもルッテフィルドに似ていますね」
「そうなのですか」
 やや素っ気ないエルシェリタの応えに、アンセルはわずかな苦笑いをうかべた。
 ルッテフィルドが亡くなったのはずいぶん前である。瞼を伏せればいつでも思い出せる姿はエルシェリタが生まれる前のものだった。アンセル自身それほど親しいわけではなかったが、なかなか印象深い人であったことは覚えている。
「オルディーア王は何も言ってませんでしたか?」
「ええ。ただ、ルシエが好みであるのは確かですね」
 自分が息子の年にさえ生まれていたら、主人は自分だったろうとのたまうような父王である。冗談交じりに譲れと言われたことは1度や2度ではなく、まったく油断も隙もないと、エルシェリタは思っている。
 それを読み取ったわけではないが、アンセルは少し困ったように眉を寄せ、盤上に目を落としながら、椅子の肘掛けにゆったりともたれかかった。
「あの方は変わりないようですね…」
 言いかけたアンセルはふっと口を閉ざす。
「…………」
「…………」
 お互いに顔を見合わせため息を吐いた。
 彼らが気づいたことを証し立てるように、扉に掛けられた鈴が鋭く打ち鳴らされ、焦りを覗かせた声が入室の許可を求めてくる。
 ゆるしを得て入って来たのは花青官で、彼ら独特の作法で主人とアンセルに向かって一礼をした。
「申し上げます。つい先ほどご帰城された城主マルフィル様がルシエさまを連れて、外へ出られました。花青補が後を追っておりますが、かなりの迅さで遠ざかりつつあるため、こちらからでは気が辿りにくくなっております」
「分かりました。すぐに出ます。支度を」
「エルシェリタ」
「アンセル。そういうわけですので、勝負はまた後で」
「ええ。また今度に。マルフィルの行方を追いかけるなら、私も手伝えることがあるかもしれません」
 そろって椅子から立ち上がり、彼らは1度だけ視線を合わせる。
 不測の事態に対する戸惑いや苛立ちはそこにはない。
 どちらもただ黙々と、これから外へ出るための支度に取りかかった。



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