ルシエは、今ひとつ何が起きたのか理解できないでいた。 「公子、お待ち下さいませ!ルシエさまをお離しください」 「うおっ、ツィーツェ。なんでおまえが」 「わたくしは壱の方付きの花青官でございますから」 「壱の方…って、えええっ、こいつエルシェリタの奴の!?」 「さようでございます。ご存じなかったのですか…」 「ああうん。でもすげえなあ、おまえ。あいつと付き合ってられるとは」 けやに感心した様子でまじまじと見てくる男は、それでも腕に抱え込んだルシエを離すつもりはないらしい。 凄まじいとしか言いようがない勢いで後ろへと流れゆく景色をぼんやりと眺めてから、傍らにぴたりと付いてきて普段よりも切れ上がった鋭い目つきの花青官を見る。この状況を作っている張本人に尋ねるよりも、馴染みの花青官に尋ねる方が確かな気がした。そしてたぶん、それは間違ってはいない。 「ツィーツェ…この人は…?」 「ウィレク城主マルフィル様です」 あっさりと部屋に入り込んできたことから、何となくそうではないかとは思っていたものの、ルシエは驚きに目を丸くする。 ずっと姿を見せなかった城主マルフィルは、ルシエが思い描いていた人とは少し違うようだった。 物腰やわらかなアンセルと落ち着きのある城内の様子から、おそらくきりっとした雰囲気の壮年の男性、といったものを想像していた城主は、どうしてかまったく分からないが、頭に大きな鳥の羽を2本を付けており、ぼさぼさに荒れた短い髪はただ飛行中だからとは言えないぐらい絡んで、全く手入れがされていないように見える。 獣皮を縫い合わせた簡素な衣服にはところどころかぎ裂きができており、はじめて針を持ったかのようなぎざぎざの縫い目で繕われていることから、ずいぶん長く使っているものなのだろう。 男の背格好はツィーツェともさほど変わらないが、衣服越しに触れているだけでも、鍛え抜かれているのが分かり、武人や力仕事を請け負う職人のようだ。色に灼けた肌は健康そのもので、目尻がやや下がっているところは少しおっとりとして見えるものの、大きく口をあけて笑うと思いの外若く見える。 「…あの、どうして」 「おまえが必要だから」 あっさりとした返答にルシエは押し黙った。 ウィレク城主と初対面である。 はじめて会った相手への口説き文句としては少しおかしくはないだろうか、とルシエは思う。 「でも…その…」 「さらってごめん。でもひと目見た時から、おまえだって思って」 ルシエは食い下がってみたが、余計訳の分からない返答が返ってきて困惑する。少なくとも、初対面か否かは彼にしてみるとどうでも良いことなのかもしれない。 そもそも、彼がルシエを見た瞬間に口にしたのは「こいつにしよう!」のひと言だった。 もしかして彼は思いつきだけで行動に出たのではないだろうか、と疑念を抱く。ただ今の状況でその通りだと言われても困ってしまう。結局口を噤んで今のところは成り行きを見守るしかない。 強引なところはエルシェリタと似ているな、と、ルシエは思った。 その日、戻しを終えたばかりのルシエはうまく体に力が入らず、寝台を起き上がるのも一苦労で、複数の花青官に手伝われながら過ごしていた。 朝起きるところから、顔を洗い、夜着を脱いで、きつく締めないゆるめの服を着せて貰うところまで細々と手を焼いて貰わないとうまく出来ず、逆らうだけの気力もない。 いつもはやせの大食いだと言われるぐらいよく食べるが、今朝は栄養価の高い葉乳でつくったスープがルシエが口に出来る精一杯のもので、多くは口に出来なかった。 簡素に見えるが手の込んだ朝食を済ませた後、外に向けてせり出した露台に日除けの幕を張った寝椅子を置いて、何をするわけでもなくぼんやりと横たわっていると、ゆるやかに時が過ぎてゆく。 「ルシエさま」 午前中いっぱいをうつらうつらして過ごし、陽が高くなる頃に起こされて室内に戻ったルシエは、花青官たちに乞われて平らな台の上に横になった。それで何をするかと言えば、肌の手入れを受けたり、指の先を調えたりといったことなのだが、それが済めば午睡用に調えた部屋に入る。 連日の荒淫のわりに、戻しというその性質のせいか、気怠さはあるもののひどく気分が悪いだとか、どこかかがつよく痛むということはない。とにもかくにもうまく体が動かないのと眠いだけ、食欲もないがろくに動かないのだから必要もないのかもしれない。 半日休んでいれば少し楽になってきて、ルシエは午睡用の寝台の上から外を眺めていた。 北国とはいえまだまだ本格的な冬は先だから、昼間ともなれば陽射しはきつく、気温も上がる。薄くひらいた窓から吹き込む風がちょうどよく熱を逃がして心地よい。 ウィレクの城はどこも窓が大きく、外と繋がった形や壁ひとつぽっかり開くような硝子戸もある。開放的な造りだが雪の降る国らしく二重窓、三重窓といった拵えをしていて、きちんと窓を閉めれば音も洩れないし、冷気が入り込むこともない。 ひときわ高く鳴く鳥の声に耳を澄まし、空の高さを思う。 良く晴れた天気は絶好の飛行日和だったが体を動かす気にはならず、雲が流れて行く様を眺めていることで気持ちが穏やかに静まるのを、ただ受け入れる。 そうしてまた微睡みだしたルシエは、いつにない騒がしさで目を覚ました。花青官が声を荒げるところなど聞いたことも見たこともないが、どうも何か言い争うような音が聞こえてくる。 怪訝に思いながら寝台から起き出して天蓋から下がる布を掻き分けると、部屋の扉が勢いよく開いた。 「どうかしたの…、?」 「こいつにしよう!」 「…ッ」 寝起きでぼんやりしたルシエは、部屋に入って来たのは花青官のひとりだと疑いもしなかった。旅先とはいえ人形の世話はすべて花青官が取り仕切り、余人が勝手に立ちはいることなどないのである。そうした油断もあって、ルシエは反応が遅れた。 花青官立ちを振り切り入り込んできた男がいきなり自分を抱え上げるとは思わず、それどころかそのまま窓から外に飛び出されるとは思っても見なかったのである。だからといってルシエを責めるわけにはいかない。たぶんその場にいた誰ひとりそのような展開を思い描いていたものはいなかったはずだ。 ルシエを抱えたまま空に飛び出した男は、追いかけてくる花青官たちを振り回しながら、してやったりといったふうに楽しげに顔を崩し、空の中をぐんぐん進む。 たまたま席を外していたツィーツェが戻ってきた時にはルシエは攫われた後で、その頃にはルシエと城主は影も形もない状態だったものの、一の宮の筆頭花青官がそれぐらいで諦めるわけがない。城から姿が捉えられなくなる前に追いついてきたのは、さすがというものだった。 歩き出すよりも空を飛ぶ方が早いと言われる風生まれのルシエが最初に思ったのは、マルフィルが生まれつき飛行能力を持つ持つ者ではない、ということだった。 先天的か後天的かにそれほど違いはないが、風の扱い方に少し差が出る。 それは風のいなし方だとか、捉え方と言ったささいなものだが、自分とは違った飛び方をされると妙に心地が悪く、ただでさえ万全とは言えないルシエには辛かった。 「あの、ひとりで飛べます…」 「えっ、飛べるの?」 「…はい」 「誤解してた。すごく可憐だからさ」 マルフィルの台詞は、抱きかかえていた理由にはならない。そう思いながらも、そのままおろしてくれるようなので、ルシエはほっと胸を撫で下ろした。 加速した中でいきなり放り出されると、飛べる者でも失速しかねない。 マルフィルは慎重な手つきでルシエの体を空に置き、片手をしっかり繋いだまま、それ以外は自由になるように腕を離す。 「ルシエさま、大丈夫ですか」 「うん、…」 すかさず近寄ってきたツィーツェはルシエの顔色を確かめ、残るもう片方の手をしっかりと握った。万が一にでも引き離されないようにという警戒心があるためだろうが、図らずも両側を固められる形で空を飛ぶルシエは小さなため息を吐いた。これでは飛行能力があろうがなかろうが違わない。どちらかと手を離しておきたいがどちらも離しそうにないので、仕方なくそのままにする。 マルフィルの飛び方はやや癖がつよいものの、その迅さは風の民でさえ驚くほどである。無理に急停止でもしようもなら腕をもがれそうなので、ルシエは慎重に辺りの景色を伺う。城から続く森は微妙に木々の様子が変わり、より深い緑が続いていた。 「公子、ルシエさまはあまり体調が良くないのです。このような振る舞いは決して許せることではありませんが、今すぐルシエさまを解放されるのなら、問題には致しません」 「そういえば顔青いな。大丈夫?」 「え、…ええ……」 「目的地、すぐそこだから、ちょっと我慢してくれな?なんなら俺背負うし」 「いえ…」 周りの景色に気を取られて返事が遅れたのを、具合が悪いせいだと思ったらしいマルフィルが気遣わしげな視線を向ける。しかしルシエを自由の身にするつもりはないようだ。 話を逸らされた形になったツィーツェは大きなため息を吐き、やや咎めるような顔で滞在先の城主を見やった。 「公子、何のご説明もなくこのような振る舞いをされるとは、あまりに失礼ではありませんか。この方はエルシェリタ様の人形でいらっしゃいますよ」 「だから、それは知らなかったんだって」 「今は違いますでしょう。お分かりになったのですから、すぐにルシエさまを離して下さい」 「えー…」 今離しても後で離しても、怒られるのは同じだし…と呟いたマルフィルは、歯を見せながらにっかり笑って、 「いやだ」 と、爽やかに言いのける。 ルシエはツィーツェの眉間に深いシワが刻まれるのを見てしまったが、見なかったふりをした。そうした方が良いように思えた。 花青官として体技にも優れ、人形を守るためにある程度の地位を持ったツィーツェなら、地方の城主に対し更に強気の態度で出ることもできるが、そうはしたくないらしい。その理由は分からなかったものの、こうした時の判断は花青官であるツィーツェの方が優れている。 押し黙った自分付きの花青官を少し気遣うように見てから、ルシエはマルフィルに視線を移す。 今更ながらマルフィルが気性が荒いとされる焔の民であることを思い出したルシエだったが、気性の荒さよりもこの気ままさの方が強烈だ。思いも寄らないことをしでかすのも焔の民にはよくあること、とツィーツェならばしかめつらをうかべて言いそうだと思ったものの、悪びれたところがまったくないマルフィルには邪気がなく、不思議と憎めない。 とにもかくにもしばらく付き合うしかないようだ、と見て取り、ルシエは両手を繋がれたまま、大きく息を吸う。 風に耳を澄まし、心を静めて、体力を温存する。それだけが今のルシエに出来ることだった。 |