「ルシエくん、見ろ、あれだ、石像だっ」 「は、…そ、です、ね…ほん…と…だ」 何度もただの石くれに辿り着き、その度に術の内容を微妙に組み換えながら光の鳥を羽ばたかせたルシエは、歓喜の声を上げたマルフィルに息を切らしながら応えた。 ツィーツェに時々手を引いて貰いながらもどうにかマルフィルに追いついたルシエは、そこにごくわずかな森の切れ目があることを知った。 光の鳥は目指す場所を案内したらいったん消えるようにしていたので、薄明かりが射し込んだ中には一本の木と石の像しかない。 蔓草が絡み表面が赤茶けていたものの、角が丸く大人の腕ほどの大きさがある石は自然のものには見えなかった。文献の場所に来られただけでも嬉しいらしいマルフィルは感慨深げな様子で木と像を見ている。 ずいぶんと湿り気のある地面だった。陽が射さないわけではないのに、たっぷりと水気を含んでいる。 「おおっ、何か石の表面に彫ってあるみたいだ、なんだろうな」 「…っ、え、ええ…待って、ください」 頷くのが精一杯といった様子ながら、ルシエはマルフィルを引き止める。 「何かつよい気配が……」 「つよい気配?」 首を傾げながらもマルフィルは歩み寄るのをやめてルシエを振り返る。 玉のような汗を滲ませた人形を気遣うように背をさすっていたツィーツェは、不意にその背に緊張が走ったことにもすぐに気づいて、ルシエの足もとに軽く屈んだ。 「ルシエさま…?」 落ちた体力での全力疾走が辛くないわけがない。 顔色を確かめるようにルシエを覗き込んだツィーツェは、はっと顔を上げた。 「公子、っ」 「……まずい」 2人の声に応えるように森の木々がざわめき、無数の獣たちの声が響く。よりいっそうひどい騒ぎになった森の中で、彼らは息をのむ。幻獣の森で出会うとしたら、最悪の部類に入るものがそこにいた。 「竜種…」 「大型のヴィエンドルだ」 木々をなぎ倒す激しい音と共にのっそりと姿を見せた巨大な影を見上げ、マルフィルもツィーツェも顔色を変えた。 黒い滑らかな長毛に覆われた四つ足の獣は、長い尾を振るだけで竜巻のような風を起こし、口からはみ出た鋭い2本の牙が獰猛さをより引き立てる。轟音を立ててひと鳴きし、鼻息と共にちろちろと冷気を吹きだした。ヴィエンドルの吐息は何ものも凍らせるのだ。 ぴんと立った三角の耳と瞳孔が縦に割れた金色の目の竜種。ヴィエンドルは気が荒いことで知られており、精霊も喰らう生きものである。正気ならばまだ良いが、どうもそうは見えない。 「ルシエさま、逃げてください。公子も早く」 ツィーツェが急かすようにルシエの腕を引く。ここから逃げなければならない。 たが、ルシエはまるでその場に足が縫い付けられたように動かなかった。呆然と黒い山のような竜種を見上げているルシエを、ツィーツェは青ざめた表情で見つめる。 「ルシエさま…っ」 「ヴィエンドルと目を合わせるな!魅入られるぞっ」 マルフィルはルシエの目を隠すように手のひらで覆うと、ツィーツェと共にルシエを木陰に運んだ。ルシエの様子がおかしいことはマルフィルも気づいたが、確かめている余裕はない。今下手に動けば、冷気をまとった竜種の餌になるだけである。 半身を伏せたヴィエンドルが森の木をなぎ倒しながら、震えそうに冷たい息を吹きかけてくるのを息をもひそめてやり過ごす。 何かを探すように鼻をひくつかせるヴィンドルはしつこく3人が隠れた木陰に大きな金の瞳を向けたが、あまり鼻は良くないようだった。探し当てられずに苛立ったわめき声を上げる。 背後の気配にぴたりと意識を向けたまま、マルフィルとツィーツェは腕の中の少年に目を向けた。 息をしているのが不思議なほど感情の消えた顔でただじっとしていたルシエは、まるでごく当たり前のような動きでふっと後ろを振り返る。 その視線を追って背後に目をやれば、間近に迫った鋭い牙が覗き、金の瞳がぎょろりと動く様をまともに見てしまう。マルフィルとツィーツェは身をこわばらせながら、己の腰に手を回した。 「小さなナイフですね」 「そっちこそ。なんだよその長い針」 お互いの得物を見て役にも立たないと無言で言い合うが、どちらも大型の竜種に太刀打ちできるようなものではない。ないよりはいい。その程度の武器だった。 「ルシエさまはいったい…」 「魅入られたんだ。竜種と合いやすい波長の持ち主だと、目を合わさなくても魅入られる」 「もとに戻りますか?」 「そんなにつよくかかってなければ、顔をぶん殴るだけで目を覚ます」 「………お顔に傷をつけろと?」 「あんた花青官だもんな」 ヴィエンドルがいったん遠ざかるのを注意深く伺いながら2人は冗談交じりの口を利く。お互い冷静を保つにはこれぐらいの軽口がちょうど良い。2人の間にいるルシエは先ほど身動きしたのが嘘のようなぼんやりとした顔を晒していた。軽くマルフィルが頬を叩いてみたが、眉ひとつ動かない。 花青官であるツィーツェがルシエの身を危険に晒すわけにはいかないし、傷つけるなど以ての外である。幾ら多少怪我を治す療薬師としての知識や技があったとしても、殴る以外の方法を見つるべきだった。 「俺が殴ってもいいけど、後でエルシェリタに殺されるなあ」 「多少の弁護は致しましょう」 「多少かよ」 「もちろん殴らないで魅入りを解けばの話です」 マルフィルがルシエに傷など負わせれば、まず間違いなくただでは済まない。 危険な目に遭わせたことが知られただけでもまずいが、己が人形を殴った後のことを想像したマルフィルはぶるりを背筋を震わせた。目の前の危機より、その後で起きそうなことの方が恐ろしいとはどうしようもない。 マルフィルはわずかに苦笑いをうかべて首を振った。 「うちの執事も怒るだろうなあ」 「ええ、とっても」 「……………」 「……………」 2人は無言で見つめ合い、揃って声がした左手の森を見やる。 ごくわずかな音をたてて姿を見せたのはとても見覚えのある青年たちだった。 「ツィーツェ、ルシエをこちらに」 「はい、エルシェリタ様」 ツィーツェは機敏に動いて腕の中のルシエを主人に渡し、主人から受け取った靴を丁寧に拭った人形の足に履かせる。己の城の執事に両頬を抓られていたマルフィルは、戻されたサンダルを少し悲しげに見下ろした。何より先にすることが己が貸し出したサンダルを履き替えさせることだとは、まるで己が履き物より下に見られているようである。 「ええ、その通りでしょう」 まるでその心を読んだように、優しい声が断言した。 はしばみ色の瞳をにこやかに細めてアンセルを見上げ、城の主人はがっくりとうなだれる。 そうした主従をよそに、花青官とその主人は気遣わしげに人形の足もとを見ていた。 「少しマメができてしまわれましたね…」 「ええ、ですが他に怪我はないようですね。ツィーツェ、良くルシエを守ってくれました」 「いえ、わたくしなどは…」 深々と頭を垂れ、主人に己の至らなさを詫びたツィーツェは、主人に乞われて梳きながしたままだった人形の髪に櫛を入れ、ひとつに結わえる。本当はもっと早くにそうしたかったのだが、ルシエ自身が構われることを嫌がったため、小枝に絡んで痛むのも見てみないふりし続けていたツィーツェである。 腕に抱えた己の人形を見下ろし、幾ら眺めても視線が合わないことを確かめたエルシェリタは、人形の頬にうっすらとついた土埃を丁寧に拭い、苦笑いをうかべた。 「ずいぶんと深く魅入られましたね。アンセル、どう思いますか?」 「ええ、すみません。すぐに解くのは難しいようです」 アンセルはルシエを見て告げ、後ろで肩を落とした主人の頭を小気味良くたたき落とした。 「誠に申し訳ありません。当家の主人のたいへんな非礼、…マルフィル、ちゃんと立ちなさい。大公殿下に謝罪を」 「すまん、エルシェリタ」 地面に顔がつくほど殴りつけたのは執事本人だったが、マルフィルは大人しく起き上がってぺこりと頭を下げた。 しかしそれで、えへ、っと、少しも懲りないふうに笑ってみせるのがいけない。執事が見事な足技で主人を土に沈ませるのを、エルシェリタは美しい微笑みをうかべて見つめた。 「この鳥頭には後でたっぷり反省してもらいましょうね」 「もちろんです」 「えー…、謝っただろ、つれないことを言うなよー」 「で、なにゆえこのようなことになったのです」 穏やかに問いかける旧友の顔が少しも笑っていないのをため息と共に見上げ、マルフィルは己に全く勝ち目がないことをようやく悟った。 「話は分かりました。マルフィルのどうしようもない冗談はさておき、だいぶまずい状態ですね」 マルフィルの話を聞くには少しコツがいる。 興に乗ると脱線に次ぐ脱線を引き起こすため、時々口を挟んで話を戻し、あるいは整理して、道筋を付けてやるとお互いに理解が早い。 そうして聞き取った告白をあっさり切り捨てたエルシェリタに、くだらないことを聞いたとばかりにきつく眉をひそめていたアンセルもまた頷きを返した。 あんまりにもつれない2人にマルフィルはがっかりするようなことはない。慣れているからである。彼の夢と希望と冒険が彼らに理解されないことなどとうに承知済みだった。 ひとり沈んでは自力で浮上する男を余所に、王子と執事は真面目な顔を向き合わせる。 「あのヴィエンドルは正気を失っています。対話は無理でしょう」 「そうですね。私の呼びかけにも応えません」 「マズスギルの次期長でも無理なわけ。嘘だろ」 気持ち的にも土の上からも完全に復活した城主が驚いたように目を丸くするのに対し、アンセルははしばみ色の目を細め、憐れみに満ちた眼差しを投げかけた。 「私に、精霊を食して欲しいですか?」 「あー…、ごめん。似て非なるもののわけな。って、そんな目で見るなよ、俺がばかみたいに見えるだろ」 ひとくくりに竜種と言っても、各々の違いは天と地ほど開きがある。 お互いに冷静であれば竜種同士話し合うことは出来るが、相手が本能に支配された状態では到底適わない話だ。 「おや、そうではなかったのですね?」 「…エルシェリタ、言うことに事欠いてそれかよ」 懸命に食い下がろうとするマルフィルの言葉にはまったく応じず、エルシェリタはアンセルが彼らの周りに張った薄い膜ごしに森の頭上を見上げる。 いよいよ陽の光がかげりだした空に不気味なうなり声が響き、近くに獰猛な竜種がまだうろついていることを教えていた。アンセルのつくり出した膜には精霊の気配を隠してくれる作用があるが、そのままでは移動することは出来ない。 「困りましたね」 少しも困っていなそうな美しい顔で、エルシェリタは呟く。腕の中の人形を抱え直し、優しく髪を撫でる顔には少しの憂いもない。 殴られたぐらいでは目が覚めないぐらい深く魅入られているため、人形からは反応が返らないが、こうまでなすがままに撫でられ、生意気な口ひとつ聞かないのを見ていれば、まさしく人形のようである。 見る者を心安らかにするような深く清んだ面差しは、表情が乏しいせいか硬く尖った雰囲気を孕み、ふだんどれだけ心の動きが顔に出ているかが良く分かる。これはこれでたいそう美しかったが、物足りなくもあった。 アンセルが原型に戻ればおそらく、魅入りは解ける。ただ、ここでアンセルが原型に戻れば、正気を失っているヴィエンドルと闘わねばならなくなるので、少々まずい。どれだけうまくやってもどちらかに、あるいはどちらともに血が流れるだろう。 「良い案がないようでしたら、私が原型に戻ってあれを引きつけましょう。その間にお逃げください」 アンセルはいつも通りの穏やかな顔つきで口をひらく。まるでお茶の支度を申し出るようなさりげなさに、彼の近くにいたマルフィルの顔が石でも飲んだように固まった。 けれど口はひらかない。マルフィルがたとえそれを嫌だと言っても、己の執事が言うことを聞いてくれないことは分かっていたし、それは彼が口を挟めることではないと分かっている。 今は曲がりなりとも主従という間柄とはいえ、かつて幼い頃のマルフィルにとっては、兄のような、あるいは親のようなものだった。思うままのことを素直に口に出せないでいる旧友をちらと見て、エルシェリタは優しく目を細める。 「ありがたいお申し出ですが、断らせていただきましょう」 「なぜです?これが実現性の高い、1番安全な案です」 「その場だけを考えるなら、確かにそうでしょう。ですが後々に起こり得ることが分かっていて、それを選び取ることは出来ません。このようなことであなたに怪我をさせれば、あなたの一族に怒りを買います」 「そのようなことは…」 アンセルの否定は弱い。アンセル自身は己の身内を贔屓することはあまりないが、次期長に怪我を負わされて黙っているような一族でもないことは分かっている。気にすることはない、というようにエルシェリタは大きく頷く。 「幻獣の森にむやみに立ち入った非はこちらにはあります。精霊王の血に連なる者として、許しを乞わねばならないのは私の方。それがたとえ気狂いのヴィエンドル相手でもです」 精霊王の一族がいかにつよい力を持っているとしても精霊は精霊。通さなくてはいけない筋があるとしても、無事では済まないだろう。 あっさりとしたエルシェリタの言葉に顔をしかめたのはマルフィルである。彼には昔馴染みの考えが手に取るように分かった。 「やめてくれ。おまえにそんなことをさせるぐらいなら、俺があの固そうな肌に一世一代の焼け焦げを作ってくる。もとはと言えば俺のせいだってことぐらい理解しているんだ」 「それはそれは。あれ相手に燃え尽きようと言っているのですか?」 「ああ。決めるべき覚悟は持っているつもりだ」 焔の精霊が己の全てをかけてもたらす大火なら、多少なりとも竜種に傷を付けることが出来るかもしれない。しかしそれは命との引き替えになる。 「そのようなことを許したら、私はここにいる誰かさんになぶり殺されますね」 その誰かが己であることを悟った竜種で執事の青年は、はしばみ色の目を嫌そうに顔をしかめる。そのようなことは有り得ない、と断ってから、さりげなく付け加えた。 「この間抜けな主人ではせいぜいささやかな火傷をつくってくる程度でしょう。お役に立つとは思えません」 かばっているのか貶しているのか微妙な執事の台詞に、マルフィルは不満げに口を尖らせたが、ぐっと堪える。良い案もうかばないが、文句だけしているのも居心地が悪い。マルフィルはつい、救いを求めるように背後へと視線を向けた。 「ああ、ここに夕朱の珠があればなあ。転移できたのに」 転移の力を宿しているかも知れない幻の気石。 それがあればここからどこかへあっという間に移動できたはずだ。それがどこかは分からないのが少々問題ではあったものの、今の状況よりは少しマシだろう。 「せっかく巻物にあった石碑を見つけたのにさ…」 「これを機会に、気石探しも程々にせよという天啓かもしれませんね」 「ええ、でもさあ…」 たしなめるアンセルの声がよく聞こえないように、マルフィルは名残惜しげなため息を吐く。責任を取るつもりはあるが、反省はしていないらしいマルフィルである。エルシェリタは頷いた。 「良い案かも知れませんね」 「うん、…って、えええ?まじで」 当然のようにアンセルの肩を持つだろうと思っていた相手の応えに、ぱかりと口をあけて、信じられないと言わんばかりの顔で旧友の美しい顔を見る。 自分とは違って現実的な考え方をする王子がそのようなことを言うわけがない、とマルフィル思ったが、エルシェリタはいつもと変わらない優雅な物腰で、首を頷かせた。 |