「月吹く風と紅の王」



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「で、どうすればいいんだろうな。俺たちで冊子の術をやれと?」
「起こすのが先です。全く、魅入られている相手の意識に潜るなど危険極まりない」
 マルフィルはエルシェリタとルシエ、2人を抱えたまま、途方に暮れていた。
 腕は重いし、月色の髪も銀の髪もさらさらと腕を掠ってこそばゆい。何とかしてくれと城の執事を見るも、いかにも怒り心頭といった顔をしていて助けてくれないようである。
 それならとマルフィルはもうひとりを憐れっぽい瞳でじっと見つめた。
「ツィーツェサマ…せめてルシエくんだけでも…そっちに…」
「誠に心苦しいのですが、しばらくお願いいたします」
「うう…」
 花青官が人形の体を預けるのだから、信頼されているのだと誇っても良いのだが誇れない。アンセルとツィーツェは2人の意識を戻すため、マルフィルには分からない複雑な術を相談し合っていて、マルフィルの腕の痺れにはまったく見向きもしていないのである。敷物代わりに2人を抱えておいてくれれば良いというのがありありと分かる態度だった。
「ああ、もう…。人間荷物置きか何かかよ、俺は」
「栄誉ある荷物番です。傷ひとつ付けないでくださいね」
「これなら俺、ヴィエンドルに真っ向勝負を挑みたい…」
「くだくだ言わないで下さい。静かにして」
 アンセルがぴしゃりと城主を黙らせ、ツィーツェと改めて話をしようとした瞬間だった。
 ひときわ大きく唸り声を立てたヴィエンドルが冷気を吹き上げる。今までは逆の方向を向いていたのに、振り向きざまの吐息は真っ直ぐこちらへ向かっていた。
 とっさにマルフィルは抱えていた2人に覆い被さった。その前をアンセルとツィーツェが庇うように立ちはだかる。
 りん、と音をたててアンセルの張った目隠しが破れ、冷気が吹き付ける。マルフィルの焔がすみやかにそれを融かしたが、もうもうと蒸気が立ち上り、辺りが一瞬白いもやに覆われた。
 風でも欲しいところだが、とマルフィルが思ったのを読み取ったように、つよい風が吹く。腕に抱えたルシエからあふれ出ているようだ、と思った時には遅かった。
「うおっ」
「ルシエさま…ッ」
 止める間もない。意思が失われていたはずの瞳がヴィエンドルに向けられた瞬間、少年の体は上空へと舞い上がる。
 荷物番としては面目を失った形だが、荷物がひとりでに出て行ってしまったのだから、言い訳も出来るだろうか。マルフィルがそう思い悩んでいると、もうひとりの荷物がするりと腕を離れるのが分かった。
「まったく、少しは落ち着きが欲しいですね」
「…お、おまえ、ひと言言えよっ」
「体番ありがとうございます。マルフィル」
「そのことじゃなくてだ、…いやそれも感謝してくれて良いんだけどさ」
 マルフィルは大きなため息を吐いた。
 いきなり意識を飛ばして、勝手に目覚めるものだから、一生懸命意識を戻そうとしていたアンセルとツィーツェの安堵混じりの怒りの眼差しが向けられるのである。近いところにいるからマルフィルまで巻き添えで睨まれていた。
「エルシェリタ、どうしてあのような真似をしたのです」
「アンセル。申し訳ありません。説明は後に。まずはあの暴風を止めませんと」
 エルシェリタの無事を確かめたツィーツェが素早くルシエの後を追って飛び立つ。
 アンセルはエルシェリタの言葉に怒りで眉間にしわを寄せたまま頷き、腕が痺れて動きが鈍いマルフィルの手を引いて地面を離れた。



 地上でのささやかな攻防をよそに、暴風は真っ向から荒れ狂う冷気と対峙していた。
「ドルテ、おまえがいけないんだっ」
 ヴィエンドルを真っ直ぐ指さして怒鳴りつけるルシエの双眸は蒼さに混ざった銀の輝きが強まり、今にも弾けようとする星のようである。
 ルシエは心底腹を立てていた。
 それはドルテの苛立ちを遥かに凌ぐものだったが、ヴィエンドルには通じない。
 金色の瞳をぎらつかせたヴィエンドルは、鋭い牙が覗く大きな口の端から凍てついた吐息をこぼしながら、精霊を見て喜色をうかべる。獰猛な笑みは目の前に餌が姿を見せた喜びに満ちていた。
「ルシエさま、ここは危険です。お下がりください」
「ツィーツェこそ下がっていてよ」
「ルシエさま。そのように、何にお怒りなのです」
「何って、そんなの…ッ」
 渦を巻いた風を全身にまといながら怒りに赤らんだ顔を見て、ツィーツェはすかさず乱れていた襟を調える。
 ついでにさりげなく怒りの原因を尋ねようとしたが、されるがままだったルシエの行動は、またも唐突だった。
 ヴィエンドルから吹き付けられた冷気の流れを風で跳ね飛ばし、ツィーツェの手が離れると、それを待っていたように頭から落ちはじめる。
 そのままルシエを追いかけて急降下をはじめながら、ツィーツェ小さくため息を吐いた。魅入られているのが解けて良かったと思う間もなく、まるで小さな嵐が吹き荒れている。
「ルシエくんはいったいどうしたんだ」
「さあ、私には。何か嫌なことがあったのかもしれませんね」
「白々しさたっぷりだな、エルシェリタ…」
「そうですか?心外ですね」
 マルフィルに心を読まれるなどと、とエルシェリタは微笑む。その顔にはあふれんばかりの優しさがうかべられており、マルフィルは怖気だった。こんな顔をしている旧友には近付くべきではない。
「申し訳ありませんが、しばらく囮になっておいてください」
「了解した。……うわあ、ルシエくん、それやだ、やだって」
 その場できちんと冷気と防ぎながら、マルフィルの視線は足もとに釘付けになった。
 囮役だろうがなんだろうが、今のエルシェリタから離れるならなんでもしようと決意していたマルフィルだが、その決意をすみやかに撤回したくなった。妨害しにいきたいがいけない葛藤に襲われる。
「あああ、やっちゃった…」
 空中から降り注ぐマルフィルの嘆きに構わず、ルシエの鋭い蹴りが石碑をなぎ倒し、真っ二つに割った。風を伝ってマルフィルの声は聞こえていたのだが、止めようとは思わなかった。
 問答無用でかつて伝説の夕朱の珠が現れたという石碑を破壊し、落ち葉や小石、湿り気のある森の土を巻き上げながら石碑があった場所の土を風を使ってえぐり出す。
 ある程度そこがくぼんでから、ルシエはやわらかな腐葉土の中にためらいもなく両腕をもぐらせた。
「ルシエさま、お手が傷みますよ」
「ツィーツェ、この取っ手を引いて」
「よろしければわたくしが致しますから、…取っ手ですか?」
 ルシエが抉り、半円状にくぼんだ底には四角い石の表面とそれに付けられた鋼の取っ手が見えている。それを素早く確認し、ツィーツェはルシエの代わりにその取っ手を握った。人形に力仕事をさせるようでは花青官の名が泣く。
「うんと強く引いて。だいぶ古いから固まってしまっているんだ」
「分かりました」
 ルシエの言うとおり、見えている分から考えられる大きさよりもずっと重い。
 人形を抱き上げるぐらいなら軽くこなす花青官は腕力も強い方だが、それでもかなり踏ん張って引かなくてはいけなかった。
 両手で取っ手を持ち、全身を使ってそれを持ち上げる。
 こぶしふたつ分ほど持ち上がったところで、それはいきなり軽くなった。下から何かが石を押し上げる。
「水が、ルシエさま」
 とっさにルシエを抱きかかえて離れようとしたツィーツェの腕を、ルシエは無言で押さえる。
 そうしているうちに石が抜け落ちた穴からあふれでた水があっというまに2人の足もとを浸し、ルシエはためらいなく水があふれだす穴の中に手を沈ませた。
「ルシエさま…っ」
 あふれだした水はツィーツェの膝を越え、ますます迫り上がっている。
 このままではいけないと人形の体を水から引き上げようとしたツィーツェは、抱き上げようとした体の重さに驚いた。ツィーツェが知る重みよりも更に重い。
 その原因はルシエが握りしめた白い手のひらだった。
 手のひらの後には夜を淡くしたような紺色の髪を持つ青年が姿を見せる。
 ツィーツェは薄い膜でつくられた魚のヒレのような耳に目をとめ、太陽の下で生きる者とは思えないほどの白さを持った肌を見た。そこにはまだ生気がある。
 ツィーツェはルシエの腕ごと、勢いを付けて青年を引き上げた。
「ルシエさま、その方は…」
「何もかもの元凶」
 常にない語気の荒さが続いているルシエは、未だ蒼い瞳を銀色に輝かせている。
 青年の頬をひと叩きして揺さぶり、それでも起きないことを知ったルシエは苛立たしげに顔を歪めてから、風の球体でふんわりと青年を包み込む。
「ルシエさま…、どこへ」
「ツィーツェはそこで待ってて」
「そんなわけにはまいりません」
「手伝ってくれてありがとう。ついでで悪いけど、水止めておいて」
 わずかに声を和らげたルシエの蒼い瞳にほんの一瞬、いつも通りの穏やかさが覗いたが、ルシエは引き留めようとするツィーツェの声には振り返らず、風で包んだ青年ごと空へ飛び上がる。
 追いかけるべきだったが、あふれ出す水をそのままにしておくことも出来ない。空の向こうには、大型の竜種が控えている。空へ舞い戻ったルシエをヴィエンドルは獰猛な唸り声で迎えたが、ルシエの傍らにはエルシェリタの姿があった。
 それを確かめてから小さなため息を押し殺し、ツィーツェは黙々とあふれ出す水の処理をはじめることにした。




「ドルテ」
 荒ぶる黒いヴィエンドルは、夜の森の上に降るように瞬く星と月の光に獰猛な眼差しをぎらつかせ、小さな精霊の体を流れる豊かな月色の輝きを威嚇するように冷気を吹き上げる。
 ヴィエンドルの呼気によって、辺りは冬のような寒さに変わっていた。
 吐き出す息は白く、空気の冷たさで指先に痺れるような痛みが走る。
 黒い獣の体からも湯気がのぼっていた。それは彼の生の証だ。もしリリクを追っていたら、失っていたもの。
「ドルテ、もう良いんだ」
 傍らに伴わせた体の持ち主に変わって、ルシエは静かに話しかける。
 怒りに我を失いかけたルシエだったが、それはこの白い体を手に入れられたことで少し落ち着きを取り戻している。
 風に包んだ青年は、まるで眠り続けているかのように物言わず瞼を閉ざしていた。しかし肌の下では確かに鼓動が続いている。
「彼は生きている」
 ルシエはリリクから教えられただけのことしか知らない。
 リリクはドルテを拒み、怒りにかられたドルテはリリクを狭間に落としてしまった。どうやってそうなってしまったのか、どうしてどんなことをしたのか、ルシエは知らない。けれどそれは少なくとも故意ではないだろう。あくまで事故だ。リリクの声音にはそうした感じがあった。
「彼を追いかけなくてもいい」

 "君に返すから"

 ルシエは慎重に覚えたての言葉を紡ぐ。
 竜種の言葉はわずかな音程の差で意味さえ変わってしまう難しい言葉だ。それを口にしながら、ルシエは思っているのと同じ意味を持った言葉を話していると確証は持てない。
「もう、行かなくていいんだ」

 "彼は、怒ってない"

 狭間で出会ったリリクからは、恨みや憎しみは感じられなかった。
 ドルテは唸りながらも、今まで吐き続いていた冷気を口の中で噛み殺し、じっと小さな精霊と彼の悲しみの在処を見つめている。ルシエはそこに彼のひたむきさを思う。
 正直なところ、本当にこれで良いのかとルシエには分からなかった。
 これを返して良いのかも分からない。
 これというのはもちろん、ルシエが今風に包んでいる素っ裸の青年のことで、意識のない顔だけ見れば優しげな青年のように見える相手のことだ。
 人の好みは人それぞれとはいえ、彼は少し、手強すぎるように思う。むしろ彼のことは諦めた方が良いのではとさえ思ってしまうが、きちんと別れるにせよ、縒りを戻すにせよ、それは彼らが決めることで、ルシエが思い悩むようなことではない。
 ドルテはずっと、ここで、彼の心が狭間へと入り込んでしまった場所でずっと、想い続けてきた。それがあまりに長い時間であったために、彼が疲れてしまったのだとしても、誰に責められるだろう。
 意識を失った彼の体を維持するために水脈の近くへ体を沈め、外の力を取り込むための石碑を建て、リリクを守り続けていたドルテの想い。ルシエはただそのことに報いたいと思う。
「僕に考えがある。彼を起こしてみせるよ」
 とても気が進まない。けれど人助けなのだ。
 やや消極的なルシエの気持ちは、できるだけ必要な部分以外は離そうとする不自然な姿勢になって現れたものの、幸いその場でそれを指摘する者はいなかった。
 だからルシエは風を使って青年を抱き寄せると、彼の唇へそっと口付けた。



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