「月吹く風と紅の王」



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 眠れる青年の明るい夜色の髪と、それを照らす月色の髪が混ざり合う。
 空の中でかき抱いた青年に恭しく唇を寄せるその光景はありふれているようで、厳かで美しい。
 しかしふわりと伸ばされた白い腕が月色の髪にもぐり込むと、嫌がってひそめられる眉も、怒りで紅潮した頬も、夜の光の中では不思議な熱を帯びて、人の心をひどく煽った。
「リリク、…」
「もっとして。ルーシェ」
 ルシエは髪に伸ばされた手を荒く打ち払った。1度収まっていた怒りがふわりと風を起こす。
「僕に触るな」
「ルーシェ、恥ずかしがらないで」
「僕の、どこが、恥ずかしがってると?」
 リリクは顔いっぱいに愛らしい笑みをうかべて、少年に微笑みかける。
 まるでそれと反比例するようにルシエはよりいっそう眉を寄せ、唇をひん曲げた。嫌いなものをうっかり食べてしまった時だって、もう少しマシな顔をするだろう。けれどそんな顔さえ愛おしいようにリリクは笑みを深くした。
 久しぶりに浴びる風が心地よい。彼は己がいつになく高揚しているのを感じていた。目の前の少年の小さな表情の変化、棘のある声さえ、彼の耳にはやさしく響いた。
「つれないなあ。そんなところも良いけどね。…、っと」
 そろりと腕を伸ばし、もう少しで届く、といったところで彼はしぶしぶ体を離す。
 からかいに反論することばかりに気を取られていたルシエは何が起きたか分からず、目を丸くした。
 ルシエとリリク、ふたりの間を切り裂くように一振りの剣が鋭く弧を描いて過ぎる。それはあまりにさりげなく、ぞっとするほど冷ややかな色をにじませていた。
 無粋な銀の輝き辿れば月も夜も霞むような美貌に行き着き、リリクは大好きなおもちゃを見つけたみたいに両目を輝かせた。
「危ないなあ」
「腕が鈍ったようです。いけませんね、稽古を怠けては」
 凄艶な笑みをうかべてひとりごちながら、片腕でルシエを背後に引き寄せ、何事もなかったように抜き身の剣を鞘におさめたエルシェリタは、ヴィエンドルの呼気よりも凍てついた気配を放ったまま、今し方目覚めたばかりの青年と対峙する。
 棘のある笑みも底知れぬ輝きを放つ眼差しも、リリクは綿毛のような軽やかさで受け止め、かわす。全く正反対の所を向いているようで、彼らは同じところに立っていた。
 エルシェリタとリリクは同じように微笑み、同じだけ不快を覚え、同じだけの冷ややかさをたたえていた。
「美しい人。君は精霊王の子でしょ?」
「ええ、そうですね。私は精霊王オルディーアの子です」
「エルシェリータ?」
「ずいぶん古い言い方を使われる」
 わずかな発音の違いを聞き分け、エルシェリタが指摘したが、リリクは目を細め、頷くことも尋ね返すこともなく、にっこりと微笑んだ。
「似ていないなあ」
「それはそれは」
 似ていないことがとても嬉しいことだと言うように、エルシェリタが応える。
 端から聞いているだけなら、主語が抜けて誰が誰と似ていないのかも分からないが、彼らにとっては小さなことらしい。
 リリクは満足げに頷いて、口もとの笑みを深くした。
「でもルーシェを人形にしているなら、もっとスゴイ人だと思ったのに。つまらないな。精霊王の子だなんて」
 心の底から残念そうに言って、リリクは片手をすいとあげる。
 その手に放り投げられたばかりの布を掴み取り、彼はそれを素早く体に巻きつけた。器用な手つきであっというまに形を整え、剥き出しだった肌を隠す。
 布を投げた人影は程なくしてリリクのすぐ傍に辿り着き、ひとひとりぶんだけ開けたところで止まる。
 近付いてくる者が誰なのかは分かっていたので、エルシェリタらはあえて口に出さないでいた。彼には敵意がなく、彼の視線はただひとり、白い顔を晒す青年に向けられている。
「…リ、リ…ク……」
「ありがとう、ドルテ」
 森からあがってきた黒髪の男は信じられないものを見るようにリリクを見つめ、わずかに声を震わせながらその名を呼んだ。
 明らかに動揺した様子の男を見上げ、リリクはふんわりと口もとをゆるめた。
 森に大きな影を作っていたヴィエンドルは、ルシエとリリクが話をし出した頃からその姿を徐々に変えていき、ひとりの男の姿になった。それが今目の前にいる黒髪の男である。
 マズスギルのアンセルが示すように、竜種が人の姿を取るのはごくふつうのことである。誰でもできるわけではないが、力のある幻獣種なら姿を変えられることが多かった。
 ヴィエンドルの体は大きすぎたし、爪や牙は鋭く、肌は固すぎる。人の形をとると原型であったときの能力の使えなくなることもあるものの、それを上回る利点もあった。原型であったときはよく気をつけて近付かなければならないが、この形なら踏みつぶす心配がない。
 人の形をとったドルテはリリクよりもふた回りほど体が大きく、肌も浅黒い。厳つい顔に並んだ金色の瞳には悲しみと喜びの両方があふれていた。
「………リリ…、ク…」
「でもドルテ。布はありがたいけど、ちょっとこの布古いよ。かび臭いし、色も褪せているし。これ、ぼくがいなくなった時のものじゃない」
「………リリク…、…すまなかった…」
 ドルテの声は低く、雲をひらくように響く。
 大男というわけではないが逞しい体付きをし、いかにも屈強なという見た目だったが、そこに原型のときにあったような狂気の色はない。おずおずと腕を伸ばし、嫌がらないことを確かめてから壊れものに触れるように、そうっとリリクを抱き締める姿はむしろ弱々しげにさえ見える。
 黒髪の男の詫びにリリクはひと言ふたこと軽く返してから、男の気持ちが満足するまで抱擁を許し、その後はきっぱり体を離して立った。ドルテは文句も言わず、リリクの背に立つ。
「ルーシェにもお礼を言わないといけないよね。ありがとう」
 穏やかな顔で立つヴィエンドルを見つめ、胸を撫で下ろしていたルシエは、いきなり現実に立ち返ったように眉をひそめた。
 彼はこれからも後悔に苛まれるかもしれないが、少なくとも詫びる相手が目の前にいるのだから、いつかそれも癒えるかもしれない。ルシエの勝手な自己満足だったが、それはその元凶には適応されないものであった。
「………どういたしまして」
 それでもどうにか礼を受け取る。これには我慢や忍耐を必要としたが、相手はルシエの変化に全く気づいていない。相当嫌そうな顔をして応えていたので、鈍いと言うよりわざとだろう。
「何かお返しをしないといけないなあ。今度はぼくが君を助けようか。このとても心が狭そうで陰険で極悪そうな男より、ぼくの方が好きでしょ?」
「……………」
 お礼でとどめていればよいものを、生身の体を持ったリリクは意識だけの状態よりも毒を孕んだ台詞を吐くようだった。
 ルシエはうきうきと弾むような口ぶりで話す青年に、なぜそうまで言い切れるのか、と驚きと呆れがないまぜになった視線を向けた。だが、その程度の視線で懲りるリリクではない。ルシエの沈黙に後押しされように、よりいっそう嬉しげに目を細めてみせる。
「ルーシェって、すごく可愛い声をあげてよね。色んなところを咬んであげたり、あれとかこれとかもたくさん舐めてあげたから、もっとたくさんしてほしいでしょ?」
「…リリク」
「ん?」
 耐えかねてルシエは口を挟んだ。
 放っておくとあることないことを言うのだと、今更ながら気づく。
「お礼をしてくれるって言うのなら、今すぐここで僕に殴られてくれる」
「えー…?」
 ひどく納得が行かなそうだが、その反応にルシエはむっとした。
 前置きなどせず、いきなり殴っておくべきだった。
「迷惑をかけられた上に無理矢理恩人にさせられたんだよ、僕は」
 言っている間に怒りが再び込み上げ、足もとからじわりと風を吹かせたルシエは、放ちかけた力を背後からまとわりついた腕によって解き崩されてしまう。
 行き場の失った風が八つ当たりをするように背後へと向けられたが、それはあっさりとかき消されてしまった。
 エルシェリタはルシエの上に手のひらをかざし、服に残っていた湿り気を抜き取ってから、己の外套をルシエに着せる。
「ルシエ、下がっていなさい」
「…でも…エルシェリタ…」
 殴りたいのは自分で、相手に怒っているのも自分で、それを発散させて欲しいと言おうとして、ルシエは口ごもった。真っ直ぐ見下ろしてくる紅の瞳には、自分以上の怒りがあるように見えてしまう。
「エルシェリタ、…彼は、……その、おかしな術も使うし、正体不明だし……」
「気遣ってくれるのは嬉しいのですが、正体なら分かりますよ」
「……き、気遣ってなんかないっ。………、え?」
 精霊でもなければ、竜種でもない。幻獣の民のようではあるが、何者かは分からない。
 そうしたルシエの疑問にエルシェリタはあっさりとしたものだった。
「蒼翼族です」
 言われても分からない。
 きょとんとしたルシエのかわりに、黙って成り行きを見守っていた男が声をはりあげた。
「ええっ、それって、あの!?儚げな容姿と慈愛に満ちあふれた笑みで美しい楽を奏でるっていう幻の民の、…ホントに!?」
 叫んだのは彼らの背後でじっと控えていたはずのマルフィルである。
 まるで思わぬところで思わぬ宝物を得たように顔を綻ばせたマルフィルは、今さっきまで何の興味もない顔で見ていた青年を熱に潤んだような瞳で見つめた。まるで恋する男そのもののような顔になったマルフィルに、彼の後ろにいたドルテの顔がしかめられる。
「男。リリクは見せ物ではない」
「そんなっ、俺は会えただけで嬉しいんだっ。別に見せ物にしようとなんか…っ」
「そうは見えんな。蒼翼族は数が少ないが、それを言うならそなたらの王子も希少種であろう」
「エルシェリタはどうでもいいんだって。俺は、この…」
 1度火が付いたマルフィルの熱い語りは止まらない。
 長い付き合いでそれを知っている王子は微笑みに冷ややかさを込めて友人を見たが、それと被さるように素早く穏やかな声が割って入る。
「そこまで。マルフィル、人の話に割って入るものではありません」
「アンセル、すごいなあ、本当にいたんだなあ」
「……………」
「……………」
 嬉しそうに顔を綻ばせるマルフィルには悪気はないのだが、小言や冷気はみじんも入ってこないようである。
 確かに本人の言うとおりマルフィルは、彼を見せ物扱いしているわけではない。
 珍しい一族の1人に会えた喜びはあるものの、ただそれだけだった。幻の気石を見つけた時でさえ、ひと目見ればそれで満足してしまう。あれだけ熱心に探しておいてあっさりし過ぎているようにも思えるが、出会うことそのものに重きを置いているので、手に入れること自体はあまり重要ではないのである。
 貴族の子弟らしい鷹揚さだといっても良いが、それが彼の良いところでもある。
 しかしそれを初対面の相手に分かれというのも無理な話で、今の反応を見たら、珍しいもの好きの厚かましい男だった。まあ、それにもあまり間違いはないが、正体さえ分かれば腹立ちは呆れに変わるだろう。
「……あなたはまったく」
 城主を引っ掴んで後ろに下がらせたアンセルは、黒髪の男から金色の瞳を向けられ、ひときわ優しい表情をうかべた。
「お騒がせして誠に申し訳ありません。お初にお目にかかります。アンセルと申します」
「ドルテと申します。知者アンセル、お会いできて光栄です」
「ありがとう。戦士ドルテ。私もあなたとお会いできて嬉しい」
 竜種の言葉でかわされた挨拶は短くあっさりしたものだったが、お互いに敬意を払うなら、これぐらいがちょうどよい。彼ら竜種は同じ幻獣種同士の付き合いにそれほど重きを置かない。
 ルシエは彼ら2人の挨拶を少し興味深く見つめた。それは精霊とも違った挨拶であるが、とても心地よく感じた。
「あー…、ルーシェ、今の分かったね?」
「え…?あ…そう、みたいな」
「良かったね。これなら何の心配もなく、ぼくと一緒にやっていけるよ」
 にこにこと微笑むリリクをルシエは睨みつけた。言葉が分かった驚きよりも早く、先ほどの苛立ちが再浮上して、ごくふつうに会話をしてしまった己が腹立たしい。
「だから、どうしてそうなるのか全く分からない」
「ぼくのものになって」
「だから、…リリクにはドルテがいるでしょう」
「やだなあ、ぼくの話、忘れたの?彼とは別れたんだよ」
 確かにそう言っていたが、リリクの一方的な宣言に過ぎない。
「その辺りは両人で話して貰うとして、たとえそうでも、僕はリリクのものにはならない」
「人形だから?」
「ええ、人形だからですよ」
 息は合っているが気の合っていない応酬に割って入ったエルシェリタに、リリクの眉が片方つりあげられる。
「王子様はルーシェをたくさん泣かせてるでしょ。そういう人はルーシェの傍にいてほしくないなぁ」
「ひとつお伺いしたいですね。まさかそのルーシェというのは、私の壱の人形のことですか」
「そうだよ、可愛いでしょ」
 その返答を聞いてはじめてルシエはある事実に行き当たった。
「もしかしてリリク、ちゃんと僕の名前言えるんじゃ」
 疑いが籠もったルシエの視線をさびしげな表情で受け止めたリリクはしかし、否定はしないかった。ごくふつうに精霊の言葉で話せているのに、ルシエの名前だけが言えないという話もない。
「呼んで欲しい訳じゃないけど複雑…」
 きちんと名前を呼んで貰うのと、愛称を使われるのと。
 どちらがより嫌なのかを考えてルシエは迷ったが、問題はそこではない。
「ぼくが長くいた狭間の中に入り込んできたからかな。ルーシェのことは良く分かるんだよ。どうすれば嬉しくて、喜ぶのかね」
「そうですか。その割りに嫌われているようですね」
「うん、怒った顔も好きだもの」
 可愛らしい笑みをうかべて、またそれが良く似合う青年はあっさりと言いのける。
 ルシエは唇の端を小さく歪めた。今すぐに殴りに行きたいが、あの狭間の中で、ルシエはリリクに歯が立たなかった。込み上げた怒りのままに風をふるうならともかく、冷静さを残している間はどうしてもやり方を考えてしまう。
 ルシエとリリクが出会った場所は、リリクの力によって色づけされた場所だった。しかしその為に負けた、ということではない。身体能力も、術を使う力もその応用力も、何もかもがリリクの方が優り、歴然とした差があることをルシエは悟っていた。
 術に関してなら、誰にも負けないぐらい造詣が深い。それ故に相手のすごさが分かる。
 リリクはルシエを怒らせるようなことを言っては飛びかかってきた体を軽くいなし、時には捕まえて首筋や手のひらに唇を押し付け、歯を立て、更にルシエの逆上を煽っては、大怪我をしない程度にきっちり反撃を加えていた。
 全く情けないことに良いように遊ばれたのだ。エルシェリタがいなかったら、無事に体に戻れたのかさえ分からない。
「悔しいんだね、ルーシェ。そうだよね、もともと君って負けず嫌いのところがあると思うんだ」
 慰めるように、あるいは包み込むような慈愛をこめて口をひらいたリリクを、エルシェリタは微笑みとともに切り捨てた。
「あなたは人形というものを分かっていないようです」
「ご冗談。良く知っているよ。ぼくは人形だったんだ」
「………え?」
 打ち明けられた事実にルシエは大きく目を見開く。
 一瞬それを理解できず、じわじわと沁み込んで血の気を引かせた。
「リリクが…ほんとうに…?」
「ルーシェ、知ってる?飽きられた人形の可哀想な末路」
 知ってはいる。けれどそうだとはすぐに頷けない。
 ルシエの戸惑いを労るように、リリクは優しげに空色の瞳を細めた。
「好きでもない相手のものになって、飽きられたら無理矢理主人替えさせられたり、娼館に売られたり、何も花珠を生ませるのは王族だけの特権ではないんだ。調整を変えれば、誰にでも足を開いて、花珠を与えてくれる人形になるんだもの」
「………それが…何。そんな、当たり前のこと」
「それでも、傍にいるの?」
 弱々しい強がりはあっさりといなされ、鋭い棘を含まされたようにルシエは押し黙った。
 リリクの表情は穏やかで、甘く優しい。どこか茶化すような明るい声音にはしかし、実が籠もっていて冗談では受け流せないものがある。
「一緒に行こうよ、ルーシェ。大丈夫、たとえその身体のままでも扱い方は心得ているし、いつかぼくが治してあげる」
 たとえついさっき知り合ったばかりの相手でも。
 人形のことは同じ人形であったものの方がその心をより汲み取れると、リリクは無言の笑みに込める。
 それはあまりに強烈な誘いかけだった。
「で、も…、でも、リリクも…珠を孕ませたい、って言った…」
「うん。ぼくはルシエが欲しいんだもの。主人としてじゃない、ひとりの人としてだよ。わかるよね。ぼくはルシエが好きなんだから、心も体も自分だけのものにしたくなるんだ」
「…リリク……」
 ルシエはリリクのことを良く知らない。
 だからそれは嘘かも知れない。
 それでも一欠片、信じても良いのだろうか、という思いが込み上げる。それだけリリクの言葉は真っ直ぐすぎた。
「ルシエ、人形の誓いを忘れたのですか」
「…っ」
 ルシエの戸惑いを断ち切るように、エルシェリタの声が響く。
 リリクは待っていたとばかりにひときわ輝きを放つ目を細め、ちらりとエルシェリタを見やる。
「ほーら、人形のご主人様はすぐにこう。嫌だねぇ」
「蒼翼のリリク。あなたとルシエは上手くいきません。種族が違いすぎます」
「そんなこと」
 あまりにありふれた台詞をリリクは鼻で笑う。
「王族と貴族以外だってそうでしょ?大丈夫、愛があれば乗り越えられるよ。支配するものと、されるものとしてしか付き合えない王子様には分からないかもしれないけどね。おいでよ、ルーシェ。君は風だもの。風をひとところに留める事なんて、端から無理な話だよ」
 空のすみずみまで、何にも遮られることなく思うままに。
 繰り返し望み、その度に打ち砕かれてきた望みを突きつけられ、ルシエは視線を迷わせた。本当にそれができるのだろうか。淡い期待と不安で心が揺れる。
「あなたに何が分かるのです」
 風を切り裂くように響く深く冷たい声に、ルシエははっと顔を上げた。エルシェリタの顔を見上げる。
「同じ人形であったから分かる?同じ場所に意識を置いていたから分かる?笑わせますね」
 エルシェリタは悠然と微笑み、戸惑うルシエを腕の中へすっぽり抱き込んだ。
 髪に口づけ、肩を流れる月色の髪ごと腕を絡める。
「この髪、この瞳、この腕、この胸、この足先に至るまで全て私のものです。私が私の一部を知るよりも多くのことを知っているなどと、有り得ません」
「そうかな。ルーシェの心はルーシェだけのもの。王子様のものじゃない」
「喜び、怒り、哀しみ、様々な感情を宿らせた心は確かにルシエのものです。だからこそ私は私の中にあるルシエの心によって、新しい喜びをも得続けるのです」
「……変態」
「あなたには言われたくありませんね」
「何その執着ぶり。王子様なんだからたくさん持てばいいでしょ。むしろ人形は多い方がいい癖に」
「私の一部になれるのは1人だけです」
 堂々とはっきりと言いのけた紅の瞳の男にリリクは軽く肩を竦めて見せた。
「ああ、そ。でも、ぼくも決めちゃったもの。ルーシェはぼくのものにする」
 向こうがそう言うなら、こちらも言い切るだけだと言わんばかりの強気の対応だ。
 対峙する2人に挟まれたルシエは堪ったものではない。
 彼らがいたら、のんびり戸惑ってもいられないのだ。そもそも所有権争いめいたものを目の前でされて喜ぶような質ではないし、それこそ可愛い女の子でも引っ張り出してくれば良いのに、と呆れが先に来る。
「あの…ふたりとも」
「うん」
「何です」
 揃って愛らしく、あるいは美しい顔を向けられる。
 余計にげんなりしながら、ルシエはそれでも言い切った。
「すごく気が合ってるみたいだから、ふたりが一緒になれば?」
 半ば自棄になって口にしてみると、この上ない名案のように思えた。



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