窓辺に大きな鳥が留まっている。 翼を広げればさらに威圧感が増すに違いない。太い足には鋭いかぎ爪がつき、ぎょろりとした茶褐色の目は気の荒さを伺わせる。 くちばしは弓なりに丸まっており、硬質な輝きを放っていた。濃灰色混じりの翼だが、足もとに垂らした長い尾羽だけは一点の曇りもない黒で、鳥の体を艶やかに彩っている。 「"エルシェリタ様。風の皆さま、無事に揃われました"」 その鳥のさえずりは人の声そのものである。 見た目にそぐった低さに、明瞭な発音。ただわずかに抑揚が少なく、感情に乏しい。 落ち着きのある声に応えて、窓辺の椅子からエルシェリタが頷きを返す。 「分かりました、ありがとう。そのままついて、危険があればすみやかに取り除きなさい」 エルシェリタの指示を受けて喉を鳴らした鳥は、翼をひろげ、あっという間に風を掴んで遠くへと舞い上がっていく。 何度見ても見事なものだ、と部屋の隅で男は思った。 しかし見惚れてばかりもいられない。線の細い顔にかけた丸い眼鏡を指先で直し、灰色の目をじっとこらして、手にしていた茶器をそろりと扱う。 明るい朝の光が満ちた北の城の一室には、優雅さにかけては誰にも引けを取らない城の主人と、ひとりの男がいた。にわかに訪れた鳥もあっという間に飛び立ってしまったので、彼は急がなくてはいけない。 至急かつ適確に。 しきたりに則って"王子殿下のための小休憩用のお茶の支度"をすすめなくてはいけない。 しかし不慣れさもあって、そののろさといったら、鳥の手でも借りたいぐらいだった。 もののたとえでもなんでもなく本気でそう思う。今し方飛び立っていった鳥には本来、別の姿があり、それは人の形をしているはずだった。ただ、彼は未だその姿を見たことはない。 王家に仕え、エルシェリタ個人に仕える影。 隠密を常とする役目を負っているから姿を見せないわけではなく、もとの姿を証すことを嫌う者たちで、人の形をしているのが本当なのか、それとも獣の姿がそうなのか。それさえ分からないのが実情だった。 「オーファ、それでは持ち方がおかしい。手のひらを下にして」 呼び出し方は知っていても原型は知らない、王家の者でもそういった者が多い。その辺りの線引きは不明だったものの、おそらくもの姿をも知っているのだろう男の声に、オーファははっとする。 「…失礼いたしました、……ぁあっ、王子。口を挟まないで下さいと言っておいたでしょうっ。どこまでこなしたのか忘れたらどうするんです」 「どうもしませんよ。オーファが恥ずかしいだけですね」 「言ってくださいますね。ええ、そうでしょうとも」 からかいを含んだエルシェリタの声音に男は唇を歪めつつ、意識して姿勢を正し、手の位置もきちんと直した。 壊したらことだと思うので、どうしても動きがぎこちなくなる。 ただ上等な茶器、というだけだったらこんなにも慎重にならない。今彼が手にしているものは格が違った。下手すると国宝級の品物なので気が抜けず、おまけにお茶の葉をすくうところから複雑な決まり事が絡みついて動きを鈍らせるのだから堪らない。 できることなら、と彼は思う。今すぐにでもあてつけがましいぐらいくっきり眉間にしわを寄せて文句を言いたい。ちょっとした休憩にお茶をいれるだけのこと、それに決まり事をつくるな、と。 が、ぐっと堪える。彼も一応、とびきり美しいが性格も格別悪い王子の側近だったので、少々不条理なことには慣れていたし、身のこなしも最上の部類に入る相手にそんな文句を言っても、ただの負け惜しみだ。 たかがお茶。されどお茶。 ふだんならそんなもの飲めればいいし、気にしたこともないが、しきたりに則って"王子殿下のための小休憩用のお茶の支度"をすると決めたら、それと貫き通すのが彼流だった。 しかしせめてこの茶器でなければもう少し楽に出来るのに、と、やや恨みがましく手もとをにらんでいると、それに気づいたらしい紅い瞳がにっこりと細められる。 「良い器でしょう。ツィーツェも気に入っていましてね、ふだんよりもおいしくお茶がはいるんですよ」 「…………」 「まあ、こればかりはオーファをのぞいてかもしれませんけれど」 「おいしさがなんです。重要なのは儀礼です。そこのところは花青補からみっちり教わりましたから、大きな間違いはしていないはずです」 言い切っているようにみえて、少し微妙である。自信が足りないのでどうしようもない。付け焼き刃も付け焼き刃、ひと晩で"対王子殿下作法"を総ざらえである。このようなことをしなくてはいけなくなったのには深い事情もあるのだが、とりあえずどうにか王子の分を終えて、オーファはほっと息を吐いた。 王子の元に届けるまでの一連の動作を済ませてから、自分の分を用意する。王子のためのお茶を自分で飲むなどとんでもないが、それぐらいの役得ならあってしかるべきだった。もちろん、この辺りの解釈はオーファ独自のもので、別人が実践したら首が飛ぶだろう。 ここシーゼルエントの城が本来の主人を迎え入れてから、数日がたった。 城内は久しぶりに主人を迎えたことで活気づいている。 城内だけではない。街中でも至るところに大公を迎えるための飾り幕が掲げられて、祭か何かのような賑わいを見せていた。 人徳がなせるわざ、というより、この地の精霊らしい熱のあげ方だとオーファは思う。 オーファはエルシェリタよりひとつ下の貴族で、ふだんは王宮にいる王子の代わりにシーゼルエントとそこにある城の管理を任されている。そのため、この地のことはエルシェリタよりもよく知っていた。 「お茶ひとつにたいへんな苦労ですね。ですが、正式な作法に則らなくても良かったのではありませんか」 お茶に口を付け、エルシェリタがにべもないことを言ったが、オーファは動じない。 彼は側近である以前に学友として同じ学舎で学んだこともあり、それなりに親交もある方だ。来た、とばかりに、にこやかな笑みをうかべて受けて立つ。 確かに正式な作法に則らなくても良いし、そもそもオーファがお茶を用意する必要などない。身の回りのことは王子宮付きの侍女か侍従、もしくは花青官たちが目を配るものだからである。 「作法に則ったのは、守るべき手順というものをお教えするためです。あのようなことをおっしゃられる方には必要だと思いました」 しれっと応えた。 業務を引き継ぐ際にそれとなく確かめたら、ひと晩かけて作法の総ざらえを受けるはめになり、ぜひ実践して欲しいと頼まれたから仕方なく、というのが本当のところだったが、そんなことはみじんも見せない。 「おやおや、それはごくろうさまです。特訓にめげたり、作法嫌いになったりはしていませんか?花青官のかわりを務める側近などと、例のないことでしょう。心配していたのですよ」 花青官が教えなければ正式な作法など行えない。 花青官が教えるならば、手を抜いた教え方はしない。 それを見透かしたエルシェリタの言葉である。 いやいやながらも学んだことはきちんと実践するのが、オーファの良いところではある。 片眉をわずかにあげて驚きをつくり、側近を気遣うように小首を傾げたエルシェリタに、オーファは頷く。 「お気づかいなく。そのお気持ちだけありがたくいただきます」 すげなく応え、軽く礼をとってみせてから、ですがと続けた。 「これは確かに例のないこと。わたくしが王子のおそばより花青官を離したのは、いわば苦肉の策。壱の方が熱を出された、というだけなら、限られた数しかいない旅の途中でも充分対応できたでしょう。ですがこのような地で別れの儀の支度をしなくてはいけなくなり、どうしても人手が足りなくなってしまった」 「ええ、そうですね。どちらからも人を削るわけにはいきませんが、それなら城の者を回せばよかったのではありませんか」 オーファは頷いた。分からなくて言っているなら諭しようもあるが、返される答えの一言一句まで予想している相手に必要なのはいったい何か。 大仰なぐらいいかめしい態度で臨むのもひとつの手、聞かなかったふりをするのもひとつの手。オーファの場合、必要以上にゆったりと受け答えすることにしていた。 エルシェリタが静なら側近も静で。そのほうがうまくいきやすい。 「そうですね。それもたいへん良い考えではあります。ただ、人形に関われるのは花青官だけ。それは人形の世話についてだけでなく、儀礼その他に関しても言えます。幾らその道に通じた方であろうとも、その不文律を破るわけにはまいりませんでしょう」 いつもさりげなくあっさりと不文律を破り裏で側近たちを奔走させてきた男は、あてつけられてもまったく表情が変わらない。 息継ぎ代わりに自分がいれたお茶をひとくち飲んだオーファは、そこではじめて、う、と息を詰めた。 美味しくもなく不味くもない微妙な味が口いっぱいに広がる。 言い訳するなら、こんな味でもオーファが下手というわけではない。いつもなら当たり前のものとして口にしていただろう。それが今回の"作法練習"で、花青官がいれてくれたお茶を何度も口にしていたため、すっかり口が肥えてしまっていた。 さすが花青官というべきか、まったく同じ茶葉、お湯、器でこれほどの差がでるのだからすごい。感心が先に立つが、後に来る微妙な味に余計げんなりする。 花青官は人形とその主人に気を配り、彼らの為に尽くす。そういうものである。 だからいなくなって困るのは人形とその主人だけ、と思われがちなのだが、そうではない。 「花青官は我々のかわりになれます。花青官ひとりで侍女侍従、料理人、庭師、医師などなど、兼ねてしまえますから。さすがは官吏と言うべきかも知れませんが、それでは我々が逆のことを出来るかといえば違う」 「それが彼らの務めであり、それを必要とする役目を持つからですよ」 「分かっています。今回のことは、花青官の補助にまわせる人員の確保を考えていなかった、わたくしの手落ち。だからこうして責任をとって、おいしさは追求しない、お茶を入れているんでしょう」 少々複雑な顔でお茶を飲むオーファに対し、エルシェリタはいつもと変わらない様子でそれを口にする。 お茶がまずいのまの字もない。正真正銘の王子育ちで花青官が出すお茶を飲み続けてきているというのに、顔色ひとつ変えずに口を付ける。むろん、だからこそかもしれなかった。 いずれ王になれば、王がひと言まずいと言っただけでお茶に関わる精霊すべてに累が及びかねない。大げさな話だが有り得ないわけではなかった。 王家や王家に連なるもの、そういった者の地位はそれほど高いわけではないが、やはり王と、次期王と呼ばれている者に対しての礼儀は他とは一線を画す。 王子の身の回りのことをするようしつけた侍女たちもいるにはいるし、積極的に使ってはいるのだが、花青官がするだろうと思っていた部分の教育は後回しにしていたオーファである。礼儀作法ならこの辺りの城勤めに適う者はないだろうが、もっとも高い王位継承権保有者に対して、相応しいぐらいかといえば違う。 双方にとって万が一のことがあっては困るので、側近である彼が肩代わりすることにした。この場合、何らかの粗相をしても問題にされない人物が選ばれるので、自然と彼しかいなくなってしまったのだった。 憂うつそうな顔でカップの中身を見つめている側近を見やり、エルシェリタは唇をうっすら引いて、優しげに目を細める。はっと気づいたオーファは主人の前に立ちはだかった。 「疲れているようですね、オーファ。かわりに私がお茶を入れてあげましょう」 王子に対する礼を欠いた態度だとか側近としての振るまいとしてはどうか、などどことは言ってられない。オーファは力一杯否定した。 「遠慮します」 「いいのですよ、これぐらいのこと」 「構います」 側近よりも王子の方がお茶をいれるのがうまいなどという笑えない冗談は勘弁して欲しい。 王子を辞めて花青官になれるぐらいの技量はある。 それを分かっているので、オーファは固く断った。おいしいものを求めてはいるが、主人を使うほど彼は図々しくはないし、それほどまでには図太くない。そう言ったら、周りは信じられないような目で見るとしても、オーファにだって意地がある。 どうにかこうにか正式な作法に則ってみせたのに、それを受けるべき王子があっさりこなしたら、オーファの面目は丸つぶれだ。 エルシェリタはもともと何でも器用にこなす質なので、それができることに疑問はないものの、ものには限度というものがある。 「恋は盲目とは言いますけれど…」 「なんです、急に」 エルシェリタはおおむね弟たちにも優しいが、自分の人形に対しての振る舞いは度を超えている。人形を構いたいあまりに花青官としての技能を完璧に身につけた男を、オーファは白々とした顔で見た。 もともとの彼を知っている身としては、今のすすんで花青官代わりになり、人形の世話を焼く姿は考えられないものだ。 「いえ、なんでもありません」 素早く首を振って、オーファは話を変えた。 たかがお茶、されどお茶である。 先ほどとは多少意味は違うが、とにかくエルシェリタの気を変えさせなくてはいけない。エルシェリタが確実に興味を覚えることと言ったらただひとつ。少々わざとらしいが、と思いながら、オーファは口をひらいた。 「壱の方、ですが。久しぶりにお会いして、とても驚きました。ずいぶんとお綺麗になられましたね。エルシェリタ様にはもったないぐらいの方でしたが、ますますその印象がつよくなりました」 唐突に何を言い出すのか、といった顔になるかと思い王子を見れば、優しい顔で微笑みをうかべている。 「ありがとう」 「あ、あなたをお褒めしたわけではありません」 あんまりにも嬉しそうな顔にたじろぐ。ふつうは遠慮してみせるものだろう、とオーファは思ったが、これほどきれいに微笑まれては叶わない。 ついうっかりほんのりと目もとを赤くしたオーファは、それを隠そうとして声を尖らせ、確認を終えた書類を主人の机から拾い上げた。 気後れも気恥ずかしさもなく、人形のことを褒められれば嬉しい、そういった態度を見せるエルシェリタにはまったく驚かされる。 ごちそうさま、お腹いっぱいです、と諸手を挙げて降参だった。オーファには良く理解できない感情であるが、城の者にとっても人形の存在はとても喜ばしいものだったから、良いことではあるだろう。 残念なことに到着してすぐ体調を崩し、オーファでさえろくに会っていない。そのせいか高まるだけ高まっていた周囲の熱が未だくすぶっているような、そんな感じが城内にはある。 伏せっている人形を気遣って大人しくしているものの、機会があれば今すぐにでも盛大な歓迎の宴をひらきたい、そんな雰囲気だ。 気分を切り替えるつもりで、間違いでもあればここぞとばかりに言ってやろう、と意気込んで確認作業をはじめたオーファは、がっくりうなだれた。さすがにこの主人相手ではそう簡単にはいかない。 「別れの儀を執り行うことに今更文句は申し上げませんが」 悔しいので文句は言わないがちくちく嫌味は混ぜている。オーファは完璧な書類越しに王子をねめつけながら口をひらいた。 「その前に壱の方…、本来なら儀を執り行う前として、ただ名をお呼びするべきですね。まず、ルシエさまの承認を得てくださいますようお願い申し上げます」 「…承認?」 かすかに眉を寄せ、理解できない、といった表情をうかべたエルシェリタに、オーファは頷く。 「ここにお連れになったからには、地下へ案内されるつもりなのでしょう。それにはルシエさまの同意が必要です。王子のことですから、適当に言いくるめてしまおうとお思いかもしれませんが、それはあまりおすすめできません」 「適当にとはずいぶんな言い方ですね。私がルシエに対し、そのような不誠実な態度をとると?」 「不誠実か誠実かなどとは存じ上げませんが。ルシエさまは術組みに精通され、古い言葉だけでなく、竜語の素養までおありにとか。他の人形の方と同じと考えては、後々問題が起きる可能性もあります。その辺りのことをよく考えて、ルシエさまのご理解を得ていただきたいのです」 今言ったことぐらいなら花青官からでも伝えられるだろうが、こうまでたっぷりとげとげしさを含められるのは彼しかない。だから彼が言う。 「ルシエさまがどのような方であっても、わたくしは王子が選ばれた方として、たとえお手元を離れてもお守りしたいと考えています。ですがまずは、ルシエさまを思われるなら、それが当然のご説明であり、同意である。そう思います」 王族ゆえにより多くの人形を抱え、多くの子を持ち、血を絶やさず、それが国の安定となる。そういったことも重要である。 オーファは国を支えるひとりに仕えているが、国そのものに仕えているわけではない。 だからすべての精霊の平穏などという、大それたことは望んでいないし、望む必要がない。時には本人が嫌がるようなことを押し付けるかもしれないが、それは主人を想うがゆえだ。たとえその思いが理解されなくても、彼は彼の思いを貫くだけだ。 エルシェリタもまたそうである。彼には彼の意志があり考えがある。 「王子はいつでも王子なりの正道を歩んでいますが、時には譲歩も…。…聞いておられますか?」 「聞いていますよ」 だんだんと小言に変わっていきそうな言葉に頷き、ふっと沈黙をもたらしたエルシェリタは、ごくさりげなく窓辺から外を眺め、席を立つ。あ、とオーファが気づいた時には遅かった。 「やはり次は私が入れましょう」 まったくありがたいことに、湯も茶葉もたくさん用意されている。 オーファは顔色変えて止めに入ったが、見たまま文官であるオーファに、見た目と違って文武ともにこなすエルシェリタを止めることは出来ない。 側近の妨害を軽やかに乗り越え、これでもかとまとわりつく恨みがましい視線をも寄せ付けなかったエルシェリタが、流れるような美しい動きで用意したお茶はオーファを唸らることになった。 何が違うのかさっぱり分からない。 納得がゆかなかった。 投げかけた問題をはぐらかされたとしても、右から左へと通り過ぎていったとしても、側近の沽券は守らなければなからなかったし、これでめげていては側近は務まらなかったので、彼はしばらくおいしいともおいしくないとも言い切れない微妙なお茶を入れ続けることにする。 そうしてつくられたお茶を飲むのは彼の主人だけだったから、何の問題もなかった。 |