「王子と温かい森の花」



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 硝子を嵌め込んだような薄水色の羽の中に透明な珠が輝いている。燻したような黒みがかった銀色に縁取りされた羽は精緻で、一瞬木の葉のようにも見えた。その中に浮いた透明な珠は花のような風のような螺旋を含み、日がほんの少し陰って仄暗くなると淡く七色に輝いているのが分かる。森の文様と呼ばれるそれは、たった一人にのみ受け継がれる特別な徴だった。
 そこは灰色の石を積み上げた、小さな家々の集まった村だった。家はどれも四角く、高さも広さも似ていて、種類の同じ木を二本並べただけの門がある。その木にかけられた丸い珠の飾りは表札の代わりなのか、中に含まれる文様も外を覆う飾りも一つとして同じものはなく、それぞれが際だった色彩を持っていた。自らの徴がかかった門をくぐり、セゼは木の扉を引いてユツを先に通した。
「葉乳を温めたものだから、栄養があって体も温もるよ」
 幾つかの扉を通り階段を下りて通された部屋でようやく一休み出来た。差し出された木の椀の中身は得体の知れない白い液体だ。ほんのりと香る甘い匂いに誘われて、ユツはそれを受け取った。通された家の中は思いの外広く、地下へ地下へと続く造りで簡単に全容を知ることが出来ない。一体どういう仕組みなのか、土の下であっても色の薄い光が射し、新緑の匂いのする建物だった。土の下にいるはずが木の上にいるような錯覚をさせる。
 ユツは布にくるまれた格好のまま、そろりと手を伸ばし、勧められるまま床に腰を下ろした。床一面に毛足の長い絨毯が敷かれており、柔らかで心地よかった。とうに裸足だったユツだが、玄関で履き物を脱ぐ生活様式で、床はどこも素足で歩いて良いように拵えてあるようだった。この部屋は特に床の上だけで過ごせるよう考えられているのか特に上等そうな敷物で、物のない部屋はくつろぎやすいようにか緩く丸みを帯びた天井と壁に軽石のような圧迫感のない、すの入った岩が使われていた。
「…どう?」
「…、」
「口当たりは悪くないと思うんだけど」
「…、うん」
 極端に癖のない飲み物ぐらいしか喉を通らなくなっていたユツにとっては、飲めるということが新鮮な感覚だった。舌触りはとろりとして濃そうなのに、全く抵抗感がなかった。むしろ美味しい。ユツは肯いた。
「気持ち悪くならない」
「そうだね、…もう限界だったから」
「……限界って」
「向こうの食べ物をね、僕たちは受け付けないから。毒になってしまう。ユツはもう、向こうの食べ物は食べられなくなっていたから」
「毒?夏ばてになる前は、食べられていたよ」
「夏ばてではないよ、時期が来ただけ。子どもは向こうと体を合わせられるから」
「…」
「…ちなみに、向こうの者にとってもこちらの食べ物は受け付けない。不味く思うし、無理に食べれば死に至ることもある」
「…………」
 椀からあがる湯気の匂いは不快ではなく、ユツはその事実に眉をしかめた。少なくとも、この飲み物が体を悪くするようなものには思えなかった。でまかせを言われているような気もして、すんなりとは聞けない。何で出来た飲み物かは分からなかったが、これがあちらやこちらと言われる場所の違いで、毒になるとは到底思えなかった。不服そうな顔にセゼは苦笑する。
「ちょっと分かりづらいかもしれないけど、向こうで人は、肥料を口にすることは出来ないよね。食物連鎖に反するから。連鎖の前を失っては向こうが続かない。…つまり向こうの人そのものから、僕たちは養分を得ることも出来る。だからお互いにとって摂れるものが毒になってしまう」
「連鎖してないよ」
「思わなくてもそういう造りなんだよ」
「…僕は善弘さんを美味しそうなんて思ったことない」
 恐らく逆も有り得ない。冷静に返すユツにセゼは優しく笑った。
「出来るだけで食用ではないから。ただ食べ物が違うということだけ分かっていて。危ないからね」
「……いきなりそんなこと言われても、何も信じられないよ」
「すぐになんて言わないよ、今は耳に入れておいてくれるだけでいいから」
 ユツの前に両膝を付き、セゼは瞼にかかった髪の毛を指先でそっと除ける。目に入っては大変とばかりに前髪に手櫛を通され、ユツは身を捩った。
「できるよ」
 拒んだユツを見たセゼの目は悲しそうで何か酷く悪いことをしたような気分になる。それを振り払うように身を震わせて前髪をばらけさせたユツにセゼは笑みをこぼした。その仕草はまるで子どもだ。
「もう高校生だものね、できるよね」
「善弘さんみたいに」
 ユツは唇を尖らせ、椀に口を寄せた。呆れたようにからかうように言う言い方は善弘そっくりだ。大して熱くもない椀の中身に息を吹きかけ、上目遣いにユツはセゼを睨み付けた。子ども扱いもうんざりだが、それよりも気になることがある。ユツはまだ、ここがどこであるのかはっきり分かってはいない。
「……ここは、何」
 家に入ってから別れたロウもはじめ久しぶりと言ったが、ユツにはロウの見覚えもなければ懐かしいとも思わない。それはこの場所にとってもそうだ。セゼはここが二人の家だと話したが、別に帰ってきたなどと思わない。知らない家だ。
「王子って、何」
「この世界で最も高く優れた力を有しているたった一人のこと」
「僕が、そうだって言うの?…ばからしい。僕は僕がどこで生まれたのか知らないし親も知らない、この世界で生まれたのだと言われたら、そうかもしれない。でも僕がセゼの言うとおりの人だなんてことは言えない。人間違いだよ」
「…いずれ、そんなことが有り得ないと分かるよ」
「…分からないよ」
 尖った言葉も苛立ちを含んだ目も何もかもやわらかに受け入れられてしまい、ユツは次の言葉に迷って押し黙った。跳ね返ってくるものがないとただ当てつけるのも難しい。もともとユツは小さな頃の記憶がないまま今に至っている。きっぱり言われてしまうとその言葉に抗うだけの材料がなかった。何もかも分かったような目に見下ろされれば余計だ。セゼの存在を厭わしく感じられないのもそれに拍車をかけていた。いつものユツならば、嫌と思うまま追い払い無視を決め込んでしまっている筈が、どうしてもそう出来ない。特別善人に見えるわけでもないが、なぜかユツにはセゼが嘘を言うような者でないと確信出来て邪険に出来なかった。
「…ユツ」
「帰る」
「…、」
「もういい。幾ら考えたって分からないからいいよ。今夜は善弘さんとテレビを見たい、王子だとか向こうとかこちらとか、そんなのどうだっていい。僕を帰して、善弘さんの所に」
「……ユツを育ててくれた彼は、良い人だね」
「…………」
 駄々を宥めるようにセゼが微笑む。ユツは真っ直ぐセゼの顔を見た。
「丸め込まれないから」
「感謝しているよ、望めば富も名声も手にはいるように彼には手配してある。でも、ユツに関する記憶を消すこともできるよう指示もしてあるから、彼はユツを忘れることを選ぶのではないかな」
 脅しとも取れるような台詞に、ユツは眉を顰めた。セゼの言ったことを鵜呑みにするのなら、もう帰る場所などないと言っているようなものだ。
「…なにそれ」
「彼はユツがここにいることに反対はしないと思う。戻ることも望まない」
「あるわけないこと言わないでくれる」
「ないとは言えないよ、ユツを愛おしいからこそ、そう選ぶのではない?」
「理解できない」
「…僕はそう思うよ、ユツがいなくなってしまうならいっそ、全てを忘れてしまえればと。半身を削られて生きていくのは辛すぎる」
「…」
「おい、まだなのか」
 部屋の入り口にかけられた長い布を除けて、ロウが顔を出す。それを振り返って、セゼは肯いた。ユツは言われたセゼの言葉が頭中を回っていて、動けない。こわばったユツの頬に触れ、一瞬怯えたように震えた体を労るように撫でたセゼは押しのける手を一瞬握って、立ち上がった。
「家の中ならどこに行ってもいいから」
「…………」
 ユツは答えなかった。出来たのは膝を抱え、セゼを拒むことだけだ。セゼが言ったことが本当なのか気になったが、想像も出来なかった。善弘のいない自分、と逆にして考えてみてもそんなことは有り得ないことで、既にそれが起こっているといえるこの今でさえ考えられない。ユツは何で出来ているかも知らない白い飲み物に縋るように、無言でそれを啜った。



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