「王子と温かい森の花」



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 絹糸のような毛を持つ獣がいたのならこんな感触だろう。寝そべって投げ出した指先が亜麻色の中に沈んで、手を上げるとするりと離れていく。何処も絡んでいないのが不思議なほどそれは細く柔らかい毛だった。膝を抱えた姿勢に疲れたユツは早々に床に横になっていた。少し疲れていた。セゼが部屋を去って大分経っていたが、外に出る気は起こらなかった。
 善弘はユツと暮らし始めるまで、一所にはとどまらない生活をしていた。郷里の家には滅多に帰らない、居所は知れない報せもしない。郷里一帯を治めていた名家の息子であった為に放浪癖があることはあっという間に広まっていて、一族中が彼を非難していた。地元での評判も悪ければ、親族の評価も最低だ。善弘にとっては家などどうでも良かったので、そんなことは気にも留めていなかったのだろう。たまに見つかって親族会議に引き出された中でも居眠りをし、怒り狂われて外に放り出されたのを良いことに寝惚けたまま再び旅に出てしまったこともあったという。ユツのことがなければ、善弘は今現在あるような実家との和解はなかったに違いない。珍しく戻った故郷で出会ったユツと生きていくことを選んでから、善弘は変わっていった。
 小さな子どもを手元に置くことを誰の信用もなかった善弘がすぐに出来るはずもなく、はじめは生家の離れを借りての生活で、まずそこで無事に過ごすことがどこの誰とも分からない子どもを引き取る為の条件だった。生活能力などなかった善弘がユツを養子にする為には親族の力が必要で、彼らの協力を仰ぐには善弘は言うことを聞くしかなかった。外聞を気にする彼らが身元の知れない子どもを籍に加えることを渋らなかったわけもないが、それでも一緒の生活を認めたのは善弘の懇願に折れたからでもあったろうし、記憶もない小さな子どもを不憫に思ったということもあるかもしれない。ただ、善弘はその間、僅か数歩先にある自分の生まれ育った家の敷居を跨げなかった。ようやくそれを許され、信用も得るようになったのはつい最近だ。ユツの方が先に家の子どもとして受け入れられて、善弘がその後に続いた形だった。それだけ善弘と家との確執は深く、善弘がその溝を必死に埋めていったのをユツはずっと傍で見てきた。仮にも名家と呼ばれる家の姓が持ち、その後ろ盾を得られれば生まれの分からないユツの助けになるだろうと、善弘は思っていたようだった。
 ユツは自分のまだ大きくも骨張ってもない手を見つめる。それは少なくとも大人の手ではない、善弘の手とはかけ離れた手だ。川原で一番最初に向けられた大きな手を取って、ユツは善弘と家族になった。それからずっとユツには善弘しかなく、二人きりの生活だった。
 ここが今までいた場所とは全く違う世界であること、違う造りをした体だということを、何となくだがユツは理解する。体が覚えているというわけではなないのだろうが、人と木の違いを知るように、意識しなくても感じられる。だがそれでセゼのいうことが全て繋がるかといえばそうではなかった。
 王子と呼んでセゼが差し出す優しい手は王子というものに差し伸べられたもので、それはユツに向けられたものではない。少なくともユツにはセゼにとって特別なのだろう王子が自分だとは思えない。ユツの居場所は善弘の傍だ。善弘は親で、家族だから傍にいていいし、傍に帰りたかった。もうそうではないとは、信じられないし信じたくもなかった。
「…ユツ」
「おい、泣いているのか」
「…」
「待たせてしまってごめんよ、葉乳のおかわりも用意していけば良かったね」
「…泣いてなんかいない」
 無造作に放り出した空の椀にロウは渋い顔を浮かべたが、セゼは逆にそれを埋めるものがなかったことを悔やむ。食べ物をいれる器を床に置くなと言おうとするロウに、そんなことはいいよと口を挟み、むしろ自分が出したものを飲み終えてもらったことが嬉しいように笑んでセゼは寝転がったユツに両腕を伸ばし、額に口付けた。
「ユツ、これから大事なことをしなくてはいけない。…その後なら、ユツにユツが王子の証を見せてあげられる」
 ユツの中にある王子としての疑問を気取ったようにセゼが言う。ユツはされるまま口づけを受けながら、相手の顔を真っ直ぐ見つめた。
「背、一面っていうやつ」
「良く覚えていたね、その通りだよ」
 川に飛び込む前、セゼが言った話だ。物覚えの良さを褒めるようにセゼは喜ぶ。
「まあ、まずそれからだからな」
 ロウの言葉にユツは肯いた。確かにそれからだ。王子などという間違いを訂正するまでは、善弘のもとへは帰してくれないに違いない。ユツもすっきりとした気分では善弘の元に帰れない気がした。



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