「…暗いね」 「ゆっくり足を運ぶんだよ、滑るからね」 「…壁のあちこちにあるのは文字?」 「そう、この辺り一帯で昔使われていた古い言葉だよ。術式に良く用いる」 術式?と首を傾げたユツに、前を歩きながらセゼはそうと言葉を継ぐ。 この世界では言葉と文字は生まれ持ち、力と言葉は密に繋がっている。だから力を使うのに特別なことは何も要らないが、言葉の配列によって力は編まれて新しい力になったりよりやり易いものになったりする。時と共に移り変わり使われなくなった古い言葉は今よりも力との繋がりが深いものであるのが常で、だから術式には古い言葉を使うことが多かった。 「古い言葉は力が強いからね、声にするだけで発動するものもある。術式を扱うには知識がいるから、そう簡単にいくことはあまりないけど」 「…そう」 「王子には王子だけが扱える古い言葉もあるから、いずれ見せるよ」 「…………」 見ても分からないだろうと思いながら、ユツはうんともううんとも聞き取れるような返事を返した。 石壁に囲まれた狭い階段の壁に刻まれていた文字らしい模様は、たとえ早見表を見比べても解読できそうにないので大した興味も覚えなかった。前を行くセゼの手にある手燭の細い光でそれは鈍く浮き上がって、次々黒い闇の中に沈む。振り返ってみても後を追うことは出来ず、ますます興味はそがれた。少しでも面白みのある話をと途切れなく喋り続けていたセゼもユツの様子に自分の気遣いがただの煩さだと感じてか口を噤み、暗闇の中に沈黙が降りる。 そこは厚い岩盤をくり貫いて造ったような細く長い階段だった。天井だけは大人二人の背を合わせても届かないだけの高さがあるものの、幅は狭く段差は低くて、緩く螺旋を描きながらどこまでも下へ続いている。幾つもの部屋を通り抜けて辿り着いた古い扉の先に続いていたその階段には一片の明かりもなく、セゼの手にした明かりだけが頼りだった。 閉鎖された空間に落ちた静けさを怖いとは思わなかった。ユツは手燭の細い明かりを見つめ、黙々と降りる。裸足に感じる岩の冷たさが逆に気を静めるようだった。凍えるほどでもなく温かいとも言えないその冷たさが余分なものを削ぐのかもしれなかった。 「…言葉を生まれ持つって」 ぽつりと呟いた声が周囲に跳ねて遠くへと響いていく。その余韻に耳を澄ませながら、ユツはもう一度おなじことを言った。 言葉は生まれ持つ。自分が話している、または考え事をしているときに自分の中にある言葉が善弘といた時に使っていたものではない。それぞれの文字を前にするとそれがはっきりする。違う世界の生まれでありそこに来ていると教える為だろう。既にその違いは見せられていた。ユツは意識しないと、ここに来るまでは当たり前に使っていた言葉が遣えなかった。 「…言葉を生まれ持っても、力は使えない」 「力には目覚めがいるからだよ、体の中にはある。だけどそれを出す為の機能が最初は眠っている」 「これ、セゼは分かるの?」 手で触れると文字の刻まれた窪みがはっきりと分かる。ざらついた壁の感触にある滑らかな断面に触れて、ユツは歩く速度のまま一撫する。ユツにとってはそれはただの凹凸でしかない。文字だということだけが分かるだけで、それは殆ど模様だった。力を使う機能が眠っていると言われ、そういったものが自分の中にあるとは思えないのと、文字だと言われ文字だと思えない感覚は良く似ている気がした。 「…一応」 「読んで」 「読むの?」 「だめなの」 「…ここはどんな力も使ってはいけないところなんだけど、まあ…そうだね、無難なものなら」 明かりを掲げて迷うのを、ユツは適当なものを指さしてあれと示した。読んでくれるのなら何でも良かった。セゼは肯いて、前置きを置いた割にはあっさりとした声でそれを読み上げる。耳慣れないその音の流れは柔らかだが澄んでいて心地よかった。セゼの口にしたものは流暢なものに入るのだろう。意味が分からないなりにそれは違和感がなかった。 「意味は?」 訊ねたユツにセゼは一つ一つを丁寧に説明した。音と意味をそれぞれ取りだして短い解説を付けるやり方は分かりやすく、ユツは熱心にとは言えないまでも真面目に聞いた。だが、全てを聞き終わったときには聞いたことを少し後悔した。 「…王子ってばかなの」 「そんなことはないよ、ただ、ここは基本的に王子が一人で通る道だから、心配になる気持ちは分かる。まさか後をつけるわけにはいかないし」 後をつけた者がいないとは言わない。恐らくいたに違いなかった。壁に刻まれていた文字は歴代の徴持ちが王子にあてて書いた注意書きなのだ。力を使ってはいけない、足下を良く見て歩かなくてはいけない、ということを、また、風を操ったりしてはいけないし、上を見上げてばかりいながら歩いてはいけない、と更に細かくしてえんえんと壁にあるのだった。 「ここは明かりを失えば真っ暗になるし、術は使えないから。そう呆れることでもないよ、正直ユツがこの暗闇を恐れていないだけでも嬉しい。勇気があるね、ユツは」 「…………」 セゼはユツを褒めて、明かりを前に戻す。再び階段を降りていく背を見ながらユツは黙ってその後に付いた。褒められても嬉しくなかった。確かにここでは持ち込んだ光が消えれば、すぐ目の前さえ分からなくなるだろう。狭く窓のない階段は逃げ場もなく、掴まれる手摺りもない。だが、壁一面に注意を受けなくては歩けないわけがなかった。ユツはそこまで稚くも頼りないわけでもなかった。だが、セゼにとってはそうではないのかもしれない。微笑むセゼの顔は怯えないユツにどこか誇らしげでもあった。 「さあ着いたよ」 セゼの言葉通り、少し行くと先に行き止まりがある。明かりに丸く照らし出されたそれは鋼色の扉だった。二人の背を足しても尚高く、岩のように重くそびえ前を塞いでいる。セゼは直角に折れた取っ手を持ち、片手で緩く前へ押した。人の手では到底明かないはずのそれは音もなく、ゆっくりと押し開かれていく。その向こうへ続く広く白い空間に誘われるように、ユツはいつのまにか扉をくぐっていた。 |