「王子と温かい森の花」



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 床は白い木で覆われ、天井は弓なりに嵌め込まれた透明な玻璃で造られていた。壁の見えない広い空間を手の引かれて歩きながら、そこに満たされた薄明るさや肌にあたる温みに何となく気が安らいだ。足下に巡らされた細い水路を跨ぐのも、殆ど段差のない幅広の階段をあがるのも、それだけで楽しい。王子の間という名の付いた扉の向こうは静かで美しい場所だった。
 時折前を掠めて流れていく色とりどりの緑と花に手を伸ばし、触れたその瞬間に朝もやを散らしたように形を失うのを足を止めて目で追う。それを何度も繰り返し、その度に振り返っていたセゼは、最後は諦めたように立ち止まってユツを見やった。
「ユツ、気に入った?」
「…ん」
「それは幻草花の一種で本当は滅多に見られない」
 この部屋に棲む珍しいそれを眺めながら、セゼは軽く手を振って目の前に来た花を風で払う。消さずに避ける為にするやり方を知ってユツは真似したが、巧くいかない。こつがあるんだよと笑って、セゼはユツの前に来た花を傍から離した。
「幻草花はね、気に入ったものの傍に棲むんだよ。彼らは好まない者の前には決して現れないし、そうでなくても触れることは出来ないから、現れるのを待つしかない。ここにいるものは王子を気に入っていて、王子が生まれるとどこからともなくここに現れるようになる」
 その言葉を裏付けるように、花はどこからともなく溢れて辺りを埋め尽くす。触れれば消えてしまうと分かっていても、傍に来ればユツはつい手を伸ばしてしまう。それは地べたに根を下ろした草と同じように瑞々しく可憐で、しかし手を触れなくてもそれらは現れたときと同じようにいつのまにかいなくなる。まさに幻のようだった。
「…あんまり触れない方が、いいの」
「大丈夫だよ、触れられたくもない相手の前には現れないものだから。それに気紛れだとは聞くけれど、消されるのに腹を立てて現れようとしなくなったという話は聞かない」
 目の前に来た一つにふうと息をかけると擽ったそうに震えて真上へと浮き上がる。そうして在りもしない風に吹き壊されるように崩れ散り、目を丸くしたユツをおかしがるように他全てもそれを真似した。あっという間にだだっ広さだけが目立つ辺りを見回してユツはセゼを見上げる。
「…本当に?」
「ん?」
「本当に嫌じゃないの」
「嫌なら嫌という気配を感じるよ、これはユツが彼らに遊ばれただけ」
 セゼは笑って、不満そうなユツに目を細める。彼らが王子を好むように、彼らを嫌う王子はいない。微笑むセゼにユツはますます顔をしかめた。
「気配なんて分からない」
「分かるようになるよ、今はまだユツは力を使えないし」
「…空を飛んだりする?そんなの僕には使えないよ。やり方も分からない」
「使えないなんてことはない、使えるように出来ているのだから。扱えるものに違いはあっても、皆何かは使える。ただ使えるようになる時期は人それぞれだから、遅くても早くても気に病むことはないよ
「…早いって、どれくらい。赤ん坊でも空を飛ぶ?」
「人によっては。でも、赤ん坊で生まれる者はあまりない、早くても歩けるようになってから目覚めるものだよ」
 首を傾げたユツに気付いたように、セゼは小さく笑う。生まれたばかりの者を赤ん坊というのであって、赤ん坊で生まれるというのはおかしい。
「向こうは必ず、親が二人がいて、子が生まれてくるんだよね。ここは違うから」
「……分からない」
「そうだね、僕もはじめ向こうのことに驚いたよ。どう言えばいいかな、ロウたちが空の者、森の者、と言い方をしていたね。僕たちはこの世界のどこかで生まれる。誰か、からではなくこの世界から。空で目覚めれば空の者、森で目覚めれば森の者と呼ばれる。それはその場所に属した力を持つことが多いからだけど、後で住む場所を変えることは出来るから、単に森の生まれといもいう」
「必ずしも赤ん坊から始まらない、って…こと?」
「飲み込みが早いね、そうだよ、赤ん坊で目覚める者もいれば今のユツぐらいになって目覚める者もいる。基本的に目覚めたばかりの者の面倒ははじめに出会った者か気のあった者がするけれど、誰かと会う前の面倒は、森の生まれなら森、空の生まれなら空が見ていて、誰かと出会ってはじめて自我が目覚めるので、こちらでは自我が目覚めた後を生まれたと言っている。だからたぶん赤ん坊という姿はどこかで経ているんだけど、その姿で現れることは少ない。その形で生まれる者が少ないってことになる」
「…………」
「ユツは向こうでの二、三歳ぐらいの姿だったから、目覚めの時期としてはだいぶ早い方。ここでは歳の取り方も向こうとは違うから歳を言っても仕方がないんだけど…まあ、一度にたくさんのことを言っても混乱するから、それはまたにしよう」
 階段を上りきり、平らな場所へ出る。その先は水だった。セゼは微笑みながらユツの手を引いて傍らに立たせ辿り着いた場所を少しの間見つめたので、ユツもそれに倣った。



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