「王子と温かい森の花」



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 広い泉だった。飴色の石に覆われた四角い窪みからこんこんと水が溢れて床に通った水路へと流れていく。窪みと同じ石が敷かれた真正面の壁は、入り口にあった扉よりも遙かに高く伸びて果てが見えない。真上にはぽっかりと口を開けた暗い空洞が続いて、そこに天井があるのか先があるのかさえも見て取ることは出来なかった。セゼは窪みの両端に作られた透明な柱の片方に手燭を置いて、火を吹き消した。柱は細身の棒をすらりと立たせた単純なものでその一方にだけ手燭を置けるよう卵形の入れ物が設えられていた。
「底へ行く階段があるから、それを通って水に入ってくれる」
「ここで何をするの」
「ユツの中には向こうの澱が溜まっていて、それをなくさないといけない。だからここを使う」
「そうしないといけないの?」
「向こうでまとった殻の残りのようなものだから、それがあるとこちらの者に成りきれない。あちらの匂いがして、それを嫌う者もいるから」
「シーエンリみたいに」
「…そう、でも全て僕が執り行うから、難しいことは何もない」
 ユツのまとっていた布を背中から抜いて手に持ちながら、セゼは窪みの底へと螺旋を描いて並ぶ丸い段を指す。ユツは肯いて階段に向かった。そろりと足を踏み入れた水の中は思ったよりも滑らかで木の蜜を薄めたような甘い匂いがする。手のひらで掬って落とすと、わっと光を集めたように照って水面に散る。全ての段を下りるとちょうど窪みの真ん中へと行き着き、水位は胸元までになる。壁を背に、来た道の方を向いたユツの前に扉がそびえていた。それはつい少し前にくぐり抜けてきた扉で、暗がりでは見えなかった凝った意匠が全面に彫り込まれているのが遠めにも見える。幾重にも重なった花と翼を広げた鳥、森の向こうには切り立った山と深そうな湖、砂地に渦を巻く風と空を駆る角のある獣。見たことはないが見たことがあるような世界が鋼一色で形作られていた。
「あの扉は界の扉を模したものと言われている」
「界の扉」
 いつのまにか窪みの底へと降りてきていたセゼが傍らに立って言う。ユツはぽつんと呟いて扉を見た。美しいが近寄りがたいような厳かなものがある扉だった。
「門番の守る扉だよ。向こうへと繋がる唯一の扉だけど、門番の他はその姿を見ることは出来ないと言われている。…何度か僕はその扉をくぐったけれど、やっぱり姿は見られなかったよ。朧にしか見えなかった」
 そうと答えて、ユツは差し出されたセゼの手に乞われるまま手を重ねた。ユツを見下ろしてセゼは優しく笑う。上を脱ぎ下は穿いたままの格好は動きにくそうだったが、セゼの動きは滑らかで淀みない。仕草は普段通りだ。だがその中に微かな違和感があるようでユツは首を傾げた。
「セゼ」
「…うん?」
 呼ばれて目を合わせたユツにセゼが僅かにたじろぐ。
「何?」
「…セゼ、何かへんじゃない」
「…そう?」
 聞き返すセゼにユツは肯いた。訝しげなユツにセゼは苦笑を見せて、かもしれないと呟く。幾らかの逡巡を顔にうかべてから、セゼはユツを見下ろした。
「……、あの時、手を離してごめんね」
「まだ僕がセゼのその人と決まった訳じゃないし、言われたって知らないよ。覚えてない」
 素っ気ない応えにセゼは安堵するように笑んで、細く息を吐いた。黙ってユツを引き寄せる。
「そうだね、…でも、ごめんね」
 セゼは片腕でユツの背を包みしっかり抱きしめ、もう片方の手で水の上を一撫でする。その跡を辿るように青い光が暗く水面に浮き上がり、底へ沈みながら連なって周りを囲んだ。
 それは少し前に見た古い言葉だった。ユツには読むことができない。辛うじてそれが力を含み高度な術式であるのは感じられる。セゼは歌うように少しの音を口にして、光の文字を操る。それは幾重にも積み重なり、泉を照らし出して一つの方陣を結ぶ。円になった術式は真上にかざされたセゼの指先に従って浮上し二人を青く照らし出して、水の中の文字の光と合わさり眩しいほどになった。そうしてから、光は徐々に薄れて、消えていく。見たこともない幻想的な光景に見蕩れていたユツはセゼの声が止み、光が消えて行くのと共に水面を揺らす地響きに体を硬くした。淵から闇がせりあがる。それは水の壁だった。壁は見る間に周囲を覆い、泉とその外とを隔てた。
 背後の壁を除いた三方から水が下から上へと伸び、唸るような飛沫の音をたてながら近づいてくる。それはあっという間にユツの背の倍を越え、目を凝らしても見えない天井の暗闇の中へと続く。ユツは体を震わせた。その壁の先はそれとの距離が縮まるごとに闇に覆われる。壁は近づいているのではなく厚みを増している。壁が近づいているということは他は水で埋まったということだ。水没しようとしている。溺れるという危機もそこにはあったが、それよりもその水そのものにユツは恐怖した。
 まるで毒に蝕まれていくように、水に触れている足下から嫌悪が込み上げる。逃れようと動いた為に起きたさざ波に吐き気を催し、頬に微かな水飛沫がかかって叫び出しそうになる。見開いた目から涙が溢れ青ざめた唇でユツは怯えを口にした。
「…だ」
 ユツは身を捩ってセゼの腕から離れようともがいた。水が迫って来ることにユツの震えは強まる。こんなとこにはもう一瞬もいたくなかった。
「…いやだ。怖い、いやだ」
 セゼから離れて出来るだけ水の壁から遠い場所へ行きたかった。ユツの頭の中はたちまちのうちにそのことだけで一杯になってしまう。だが逃れようとした体は容赦ない動きでセゼに引き寄せられ、身動きを封じるようにすっぽりと抱き込まれる。ユツは酷く強張った顔でセゼを見上げた。
「…本当にいやだ」
「…それでも」
「離して」
「…………」
「離して!」
「…だめ」
 息を飲んで、ユツはセゼを見た。逃れられないなんてことがあるわけないと、信じられない顔をうかべる。そのユツをセゼはぞっとするほど冷たい顔で見下ろした。恐怖に囚われたユツには少なくともだめと言ったセゼがまともな人間には見えなかった。
「怖さは正しい、向こうに体を合わせてしまった者の洗浄には、ひどい痛みと苦しみが伴う。幼ければ耐え切れない、歳を重ねすぎれば向こうでは生きられず手遅れになる。…王子であれば尚、痛みは強いし恐れは深い」
「そんなのどうだっていい!ここから出して!出せばそれでいい!」
 ユツは全身を震わせながらセゼを睨み上げた。恐怖の余り舌がもつれ、額から汗が落ちた。間近に迫った水の壁に荒く首を振る。
「…いやだ!!」
「……これをやめることは出来ない、でも決して一人で耐えさせやしないから」
 闇と共に水が迫る。辺りは一瞬のうちに深い水の底にかわる。悲鳴は水の中に吸い込まれた。全身を貫き、捻り裂くような痛みとおぞましさにユツは声を上げることしかできなかった。詫びるセゼの声を聞いた気がしたが、ユツには分からなかった。



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