「記憶を失ったのは、生きる為だよ。唐突に向こうへ行ってしまったユツの体は向こうに合わせなければ過ごせない。だから向こうに合った体になったけれど、そうなると帰る時に洗浄を経なければならなくて、それは幼くては耐えられない。耐えられるまでになるには時間が掛かる。その長い日々を徴持ちなしで送るのは王子には負担過ぎて出来ないから全てを忘れた。何もユツが薄情だったからではないんだよ」 微笑んだセゼはユツの中にある後ろめたさを言い当てて、やわらかにそれを否定する。だがユツの気は晴れなかった。またそれを否定する。 「かもしれないけど、…迎えに来たみたいに、セゼが来ることだって有り得た。向こうに行った途端、僕は忘れてたよ。それでも生きる為?」 「王子の能力は特殊で、実際には記憶を封じた経緯にどんなことがあったのかは分からない。だけど徴持ちというのは王子の制御役でもあって、徴持ちが傍にいない王子はとても危険だから。過去に徴持ちから離された力が暴走した王子というのもいないわけじゃない。あの時のユツはまだ小さくて、ユツという意志よりも王子の本能で動いているところがあったから多分、暴走を食い止める為の機能が働いたんだと思う。…そう、門番たちも判断していたよ。…だから不用意に僕が行って記憶を甦らせてしまった時、どんな弊害が起こるのか分からなくて僕が向こうに渡ることは認められなかった。逆に僕が暴走しては困るから、まめに状況は教えて貰っていたけどね」 駅に行くまでの道のりを正確に辿りながらも物珍しそうに辺りを見渡していたのはそういうことだった。セゼは報告という形で門番から王子の映像などを届けて貰ってはいたものの、実際に会いに行くことは迎えに行くその日まで耐えなければならなかった。何でもないことのようにそれを言い、セゼはユツの気持ちを軽くしようとする。容易にはそれに応えられないユツの隣で、セゼはふと思い出したことがあるように笑みをこぼした。 「向こうでの王子の生活は門番がずっと見守ってた…報告役はユツの良く知っている人だよ」 「知ってる?…門番て怖い人たちじゃなかった?従わなかったら何をされるか分からないって。そんな人、知らないけど」 「キーロア・キッセリ…知らない?」 ユツは首を傾げた。門番などに知り合いがいるはずがない。不思議そうなユツにセゼは薄く笑う。余り人の良い笑み方ではなかった。何かその相手に含むものがあるのだろう。ますますユツには分からなくなる。 「………誰?」 「誰だろうね」 「教えてよ」 「…ちなみにユツは幼なじみの名前、覚えてる?」 話を変えられて首を傾げた。しばらく言われるまま考え込んで、首を振る。覚えていなかった。 「…きっちゃん?う。んん?」 「はじめに名乗ったらしいけど、ユツはキの音しか覚えなかった。きっちゃんというのは門番のキーロア・キッセリのことだよ。彼は門番の一人で向こうでの王子を守護する任務に就いていた。彼は向こうでの面倒を見る為に傍にいて、王子の守護だった。…正しくそれが行われていたかどうかはともかくね」 話しながら凄味を増した微笑みは、ここにはいないユツの幼なじみであり門番の男に向けられたものだ。その顔を見て思ったことをユツはそのまま口にした。 「…もしかしてセゼはきっちゃん嫌い?」 「嫌い?」 「…手、きっちゃん上げてたけど、多分下ろさなかっただろうし、あんなこと今まで一度もしなかったんだよ」 出くわした場面が場面だ。好印象を持つのは難しい。だがそうしたもの以前から余り良い感情を抱いていなかったようにも見える。それを思い出して訳が分からなくなるユツに、セゼは肯く。 「確かに落ち着いてみればあの男が王子に手を上げるとは思わないけど、一番可愛いときのユツを門番と云うだけで独り占めした挙げ句、身近に寄らなくても守護出来るはずがちゃっかり幼なじみの位置についた男が一時の感情で形で手を上げる?そんなことしていいはずがない、嫌いという言葉の前にあんな男眼中にないけどね、務めは正しく果たして貰いたいと僕は思うんだよ」 思い切り眼中に入れたセゼの台詞にユツは曖昧な返事を返して応えを濁す。昔から傍にいた。だから公私ともに認める幼なじみで記憶が戻ってもそれは変わらない。無愛想な顔をうかべて、そうかと思うぐらいだ。 王子は徴持ちがいなければ生きてゆけず、徴持ちは王子がいなければ生きてゆけない。そうした深い繋がりがあるものだと聞かされていてもそうは思えない。忘れればどうにかなったぐらなのだから、少し大げさに言っているのではないかと思っている。ただ王子である自分にとっての世話や守護をしてくれるのがセゼだということは分かっていた。それは王子に対して歯止めも意味する徴持ちとの中にある本能で、長い間近い所にいた幼なじみとのあるものとは全く別物だ。セゼはその二つを同じものとして比べているようだったが、ユツの中ではそれぞれが独立して在る。 「…きっちゃん、門番だったのか」 呟いて、ようやくその意味に気付いたユツはぼうっと宙を見た。 界を渡る、つまりユツの今までいた場所と今いる場所を繋ぐことのできる門を司るのが門番だった。彼らなしでは善弘に会いに行けない。会いに行く為に必ず越えなくてはいけない難関がそこにある。 界を渡る、ということは別に門番を通さなくても出来る。ユツが幼い頃、渡ってしまったのがそれで、ごく稀に起こる空間の歪みを通るやり方になる。だがそれではどの界に行くのか分からない。門番は唯一、界を渡る正確な道を門を通して生むことができる能力が備わった者たちだ。 界を繋ぐ門は、門番以外には開けられない。歪みを利用した渡りは危うさからその門番が禁じている。だから界を渡るには門番の許可と協力がいるが門番は容易にはそれをしなかった。会いに行くのを阻む壁はそこにある。門番は普段の生活の殆どを門のある空間で過ごし滅多に外に現れず、また現れれば現れたで全身を黒衣で覆った姿で大抵が無口で容赦なかった。歪みを利用するなどした渡りをすれば瞬く間に現れ捉えられ裁きが下される。それは言葉になどはとても出来ない恐ろしいものだと言われ、門番は畏れられていた。その門番に門を開けて貰うには正当な理由や信用されるだけの態度は勿論、相当の覚悟も必要だと言われている。その難しさは向こうに行きたいと言う度、歯切れの悪くなる周囲の反応でそれを理解していた。 洗浄の後、善弘が記憶を捨てることも、富や名声を望むこともしなかったとユツはセゼから教えて貰っていた。善弘は自分の養い子がいなくなったことを受け入れ、忘れないことを選んだ。それを話したセゼは余り嬉しそうではなかったが、ユツは日ごとに恋しさが募る。いつか行くことを約束はしていても、それが容易でないだけ善弘の様子は伝えたくなかったようだったが、いつまでも黙っていられることではないと思ったのだろう。ユツの呟いた声音に期待が滲むのを感じ取ってかセゼは諫める目を向けた。 「あれでいて彼は門番の中でも高位にある。門番は規律も厳しければ序列も厳しい。王子は丁重に扱われるだろうけど、規律を枉げるようなことはしないと思う。幼なじみだからといって、融通はきかない」 「…きっちゃんは確かに手を抜いたり不真面目をするのを嫌ってたけど…、でもきっちゃんだし。話はしやすくならない?凄く難しいが、ちょっと難しいぐらいにならない」 「ユツが力も目覚めてここにも慣れて落ち着いたら、行かせて貰えるよう交渉する。その後でないと、門番自体界を渡ることに肯かない。生まれたばかりとそう変わらないユツでは、界を渡ることに耐えられないし、洗浄をしなくても良いようにする処理も施せないから。今すぐはとても無理だよ」 「…善弘さんの所に行きたい。顔見たい。力が目覚めるのなんていつか分からないのに、待てないよ」 「王子を危険な目には遭わせられない」 先の見えない話は聞いていて面白くない。ユツは不機嫌になって唇を窄めた。 「王子なんてこと知らない、どうだっていいよ」 「王子は皆の光なんだよ」 「かもしれないけど、僕はそういうの出来ないし。それより善弘さんの所にいたい」 「出来ないなんてことない、少し難しくても僕がいるし、皆も手を貸してくれる」 「やだって言ってるの。生まれ育ったところに帰してもくれない形ばっかりの王子なんて要らない」 「…ユツ」 言い過ぎを咎めるようにセゼの眉が顰められたがユツは見ないふりをした。 「セゼはすぐ小言みたいなこと口にする」 「ユツ、…ユツが彼を恋しく思う気持ちはユツと彼との間に築かれたもので、それは王子と徴持ちの間にあるものとは違うけれど、似たところもあるから僕には分かる。…徴持ちを求める王子の本能が彼を求めるきっかけだったとしても、その後ろめたさに口ばかりで執着を見せることは喜ばないのではない」 ユツはセゼをきつく睨み付けた。震える腕で繋がれた手を離そうとしたが、術に絡み取られた手は僅かにも離れない。それに焦れてユツは大きく左右に頭を振った。 「知ったふうに」 「僕はユツの傍でしか生きていけないし、そうでしか生きていたくない」 「僕は違う」 地団駄を踏んで耳を塞ぐ変わりに言われた声を掻き消すようにユツは暴れる。 「違う、僕はそうじゃない」 「落ち着いて」 暴れるだけでは聞こえなくするのは無理だと悟り、その場にうずくまって不快を表すユツの前にセゼは両膝を付く。怯えた獣にするように、セゼはそっとユツの髪に触れる。俯いたユツにその姿は見えなかったが、セゼは抱き込みたくなる腕を堪えて安心させるように優しく笑ってみせた。 「…これは僕だけのことかもしれない。ユツの言うとおり、徴持ちだからとか王子だからとは全く別のことかもしれない。でもユツは王子なんだよ。大切にされて、誰の上にもある者として扱われる。それがこの世の自然の成り行きだから」 「……知らない」 「王子だとは分かっている、それだけでいいよ」 「…………」 ユツは答えない。だが肯定しているようなものだ。感情の流れるままに知らない、分からないとは口にしても、ユツは王子だ。そのことでどんなに不安に駆られても、役不足だと感じても自分が王子でしかないとは分かっている。 「…ユツが不安になるぐらいだから、本当に王子はこの世で最も力ある者なのかと、なぜそんな者がいると、羨ましく恨めしく、思う者もいる。王子を弑すれば王子に成り代われる、…そう思う者もいる。そんなことをしても僕たちはただの力の集まりから始まり、形と意志を持ってこの世界から生まれた。そういうものだと云われているのだから、最も強い力の集まりから生まれた王子に適うこともそう変わることも出来るはずがないけれど、門番を含め、生まれた後から努力によって操ることが出来るようになる能力がある。例外なのは王子だけだから納得できない気持ちも分かる。王子だけは何をどうしても成ることは出来ない。…あの日、彼と会うことになった日、結果的にではあるけれどユツはそうした者の手によって異なる界に攫われた。例えユツが自分が王子と言えないような者だと思ったとしても、王子はユツしかない」 顔を上げたユツにセゼは微笑んだ。そろそろと伸ばされた手をユツは拒まなかった。黙って髪を撫でられるままじっと動かないでいる。痛いような苦しいようなものが胸を衝き居たたまれない気にさせられる。離ればなれになったその日のことはセゼにとって思い出したくもないことだ。洗浄の苦しみの中で詫びるセゼの姿はうっすらとある。だから分かる。言われて言い返すような軽口は出来なかった。ユツは自分からセゼに体を寄せ、じっと息を詰めて沈黙を守った。 「…彼に会いたいのなら、ユツは自他共に王子としていなくてはいけない。今は虚勢でいい、王子だと胸を張っていて」 「…………」 セゼが手を引いたのにユツは大人しく立ち上がる。 セゼの言うことは多分間違ってなどいない、少なくともユツが口にしたことよりはずっとしっかりしている。返す言葉などなかった。 手を引かれるまま森を進むとやがて二人の前に小さく森の切れ目が顔を覗かせた。 |