丘と言われればそう見えるかもしれない。背丈の低い草が一面に生えた広がりにこんもり丸みを帯びた場所がある。森の切れ目から出たセゼの足はそこへ向かい、緩い傾斜を上がっていった。手が繋がったままのユツはしぜんそれについて行くことになる。 森の薄暗さに慣れた目に草の緑は鮮やかだった。広大な森に紛れてしまうぐらいのほんの僅かな切れ目なのだろうが、草原にある丘をぽんと置いたようなそれぐらいの広さは優にある。遮るものの何もない草むらは風が良く通り、涼しい。時折強い風が吹いて髪が乱されるのも、森の静けさの中から出てきた身にとっては楽しかった。足下に咲く見慣れない小さな花から銀や金の粉が散るのや、石鹸の泡のような透明な球を綿毛のように飛ばしていく草の実を見るのも面白い。それらに気を取られて勝手に歩き出すユツの手をしっかり握り、セゼは丘の上に立った。術で繋がれているので離れるわけもないが、決して離すまいとするような手の力の強さだった。それに驚いて顔をあげたユツの先で、セゼは前を指す。その先にあるものを見て、ユツは息を呑んだ。そこは確かに木々見の丘という名が付けられた通りの場所だった。 木々の海。一面の緑が前に広がっていた。丘の先は崖になっており、下を覗けば気の遠くなるほど遠くに土色の岩を覗かせた地面がある。その向こうは見渡す限り森だった。セゼはユツに崖の向こうを見せると、すぐに後退って崖の先が見えないところまで戻る。興奮した顔でユツは口を開いた。 「すごい、あんな広い森はじめて見たよ。今通ってきた森もあんなふうなの?あんなふうにずっと緑?」 「…もう少しこっちに」 「ずっと先まで緑だった、地平線まで緑色だったよ」 「村の近くには川があるからこうは見えないと思うけど、ここ一帯緑だよ」 「ここ一帯が?すごい」 大仰な身振りを見せて驚きながらユツは背伸びをする。どんなに目を凝らしても、緑の切れ目は見えなかった。 「結主が見せたかったのってこれかな。空から見られればすぐだけど、僕はまだそんなの出来ないから」 「ユツ、崖に近付きすぎないで。危ない」 崖の先に行こうとするユツをセゼは手を引いて遮る。はっきり見たいユツは抗った。 「もう少しだけ」 「いざとなっても飛べないから、あんまり近寄らないで」 「僕はこんな緑の中にいたんだ、こっち側だけでなくて村の方も見られたら楽しいのに。…飛べない?」 思いもかけなかった台詞にユツは動きを止める。飛べないということは、落ちればそのままだ。当たり前だが、当たり前ではない。ユツは怪訝な顔でセゼを見た。 「ここは、そういう場所だから危険なんだよ。なぜか全ての力が無に還る。崖から先はこの、手にかけられたロウの術も解けてしまうし、飛ぶことも出来ない。崖下の森は禁域で何者の手も及ばないところだから、余計危ない。…この木々見の丘は唯一禁域の森を見下ろせる場所なんだよ。結主は禁域を含めての結主だから、ここも見回りしていて慣れていると思うけど、ユツはここが限界」 森の見えるぎりぎりの場所で止められる。ユツはセゼの顔と繋がった手を交互に見てから、逆らうのを止めた。セゼの指示に従うことは結主に言われたことでもあったし、血の気の引いたセゼの指先に冗談ではすまされないことを知る。崖は目が眩むほど高い、落ちれば無事では済まないことは確かだ。 「…もっと下がる?」 「このぐらいで大丈夫だよ」 緊張しすぎる方が逆に危ない。強張った体を動かし損ねてつまづきでもしないよう、セゼはユツに微笑みかけ、足下に咲いていた小さな花を摘んでそれを揺らした。花からは黄金のような粉がふわりと散ってすぐに見えなくなる。花を持ったセゼの指先がうっすら金色に染まるのをユツはじっと見つめた。 「なに?花粉?」 「花粉ではないよ、これは良くお菓子に使う。なめてみて」 金色の指先を口元に寄せられて、ユツはおそるおそる含む。口いっぱいにはっきりとした甘みが広がり、嬉しそうに口元を緩めた。 「おいしい」 「花糖というんだよ、色によって少しずつ味が違う」 「もしかして泡も?泡も甘い?」 「天泡だね、いいやただの泡」 風の加減で実から出た泡が体を掠めていく。そのくすぐったさに身を捩って足下の実を揺らし、ユツはますます泡に囲まれる。だが実を摘むとその実はたちまち凍ったように硬くなり透き通って砕けてしまう。泡には甘みがないと教えられて肩を落としたが、儚い様にユツは目を奪われた。 「…、あ」 「泡を出すだけの実だからそのうち生る」 「実?」 「そう、この草の終わりが近付いた頃に生る実なんだよ。生り終えると、いつのまにか草はない」 「種は?」 「そういうのはないよ、ただ還る、僕らのように」 「…分からないけど」 意味が分からずユツは首を傾げる。セゼは手にしていた花を風の中に離し、淡く笑んだ。言いたくないのか言いづらいのか一旦口を閉ざしたセゼをユツはぼんやり見やった。花を失い空になった指先の爪の上に今はもう目に馴染んだ文様がある。徴持ちの証であるそれはいつもうかんでいるものではないらしかったが、ユツは目にする機会が多かった。それと同じものが自分にもある。ただそうと分かっていてもそれはセゼそのものを表しているようようだ。鏡に映されて見せられた背の文様よりもずっと奇麗で厳かでユツはセゼの指にあるその文様を見るのが好きだった。 「…ユツ、上を」 文様に目を奪われていたユツはセゼの上擦った声に不思議な顔で空を見上げた。何と訊ねた声は途中で詰まる。ユツはぽかんと口を開けて、それに見入った。空いっぱいに見たこともない花園が広がっていた。 |