「王子と温かい森の花」



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「…幻草花の群れだよ、初めて見た…」
 仄かな光を放つ薄桃の花びらが降り注ぐ。風が吹く度に花は色を変え、形を変え、花々で形作られた雲は無数の花を抱いたままゆっくり空を行く。花の周りには硝子で出来たような羽を持つ魚や見たこともない美しい獣が伴い、楽しげに宙を舞っていた。
「信じられない、禁域でも力を失わないなんて…」
 体にかかる前に形を失うが、降り散る花は尽きない。
 見つめる二人に気付いたように、幾らかの花や獣が傍に降りて薄明るい光を蒔く。魚や獣は触れられるぐらいでは消えないのか、伸ばしたユツの指先に擦り寄ってくるりと回る。王子だと分かっているのかもしれない。競ってユツに集まろうとするので、あっという間に彼らの放つ光に覆われてしまう。
「眩しい」
「…そういえば聞いたことがある」
「なに?」
「禁域に迷った者が禁域に棲むものに救われることがある、って。幻草花はか細くても殆ど素の力のままだから彼らによって命を繋いだり、あるいは森の出口へと導いて貰うことができたんだよ。選り好みの激しい彼らを目に出来る機会は少ないからはっきりと言い伝えられはしなかったんだろうけど、たぶん」
「王子の間のあそこは仮住まいでここが本拠地?」
「そうとも言えるのかもしれない、それか彼らが幻草花たちの全ての祖なのかもしれないけど」
「おまえたちも遊びにおいでよ、その方が楽しそう」
 じゃれつくものたちに声をかけユツは擽ったそうに首を竦めて笑う。
 結主が見せようとしたのは間違いなくこれだろう。彼は歴代の森の結主の中でも森の中を見て回る時間の多い結主だ。禁域の中にさえ臆することなく入り、森全てを常に把握しているといっても過言ではない。花に囲まれたユツを見やり、セゼは徐々に空の高みへと過ぎ去ろうとしている花の群れを見る。
「…結主はユツが生まれた日、幻草花を見たと言っていた」
「僕が生まれた日?」
「たぶん、こういう群れを見たんじゃないかな。花にあれだけ祝福される王子なら…良い王子になるでしょうと言って、とても嬉しそうで…」
「…セゼ?」
 セゼが泣いているような気がして振り返ったユツを、セゼは微笑みで迎える。
「もう、終わったんだと思って」
「セゼ」
 獣を構う手を止めて、ユツはセゼを見上げた。かける言葉を見つけられず戸惑いがちに視線を彷徨わせる。
 全く異なる世界に離れてしまった上に記憶を封じてしまった王子を、セゼは待った。そうすることしかできなかった。傍にいない。もう自分のことを覚えてもいない。ユツが二度とセゼのことを思い出さない可能性もあった。長じてしまった王子と、歴代の王子と徴持ちが築いてきたような関係を作るのは無理かもしれないという思いもあった。何しろ前例がない。異なる界に記憶を封じた王子と残された徴持ち。有り得ないその状況に生み出される歪みは計り知れなかった。
「…彼の、善弘氏のもとへは必ず会いに行けるようするよ。ユツを突然連れて行った僕を彼は好ましくは思っていないだろうけど、あの辛さを彼に味合わせてしまうのは僕の本望じゃない」
「…………」
「本当に、彼には感謝している…」
「……、うん」
 少しずつ止んでいく花びらの雪が風に流されて眼下の森に散り広がる。それは降り積もることなく途中で掻き消え、森は永遠と続く緑の海を覗かせる。花と共にまばらになっていく魚や獣に名残惜しく視線を寄せて、ユツは力無く首を肯かせた。セゼの中にある後悔や懺悔は、既に起こってしまったその過去がある限り、決して消えないものだ。少なくともそうユツは知る。
 悔しいのか悲しいのか寂しいのか、苦しさが喉に詰まる。何も言えない。ただユツはしっかりとセゼの手を握った。風に流れる花びらを通しても温もりが伝わっていくような、不思議な感覚に包まれる。しばらくそうして、やがてセゼはつぼみが綻ぶように笑った。
「……そろそろ戻ろうか、いいかげんロウに術を解かせないとね」
「……うん」
 肯いたところでユツは崖下に目を留めた。
「魚」
「うん?」
「ひれが引っかかってる」
 風に流れたときにだろう、すぐ下の岩が崩れて出来たような壁の突起に花の群れにいたのと同じ魚が一匹、光で編んだような薄いひれを引っかけて離れられなくなってしまっていた。魚はもう弱りかけているのか、放つ光が頼りない。
「群れが行くよ。…早く」
 ユツはその場に膝を折って魚に手を伸ばす。王子の手が助けに伸びていることに気付いてか魚は嬉しそうに体を震わせるが、ひれは外れない。
「そんな長いひれしてるから…、う、ん…届かない」
「ユツ、代わって。そんな縁から…危ない」
 危ぶむセゼに促されながらも懸命に手を伸ばしてみる。どうやってみても後少しが届かないのは腕が限界だからだ。
「代わるから」
「…後、少し」
「無理をしないで代わって」
「…もうちょっとなんだよ」
 背に差のあるセゼなら腕も幾分長い筈だ。微妙な体重移動でユツの姿勢が崩れてはいけないと身動きとれないでいるセゼの焦れた声にユツは伸ばしていた手を引いた。
「じゃあ…」
 体を起こしかけた瞬間だった。目に入った砂埃に瞼を閉じたユツの体が傾いだ。崖の縁が崩れたのが先か、強風が吹いたのが先かは分からない。少なくともそれはほぼ同時に起こり、崖の先へとユツの体を押し流した。あげられた叫び声はセゼの声だった。ユツは訳も分からず、ただ目を見開いていた。体を包んだ腕と下から上へと吹き上げる凄まじい風を数瞬の内に感じた後に来た衝撃に、もう何もかもが分からなくなっていた。



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