ユツは木から落ちたことがある。後は階段。つい最近は橋の上から。これは落ちたのではなく飛び込まされたものだし、木も階段も受け止めてくれた腕があって怪我一つしなかった。それがなかったのは寝惚けてベッドから落ちたときぐらいで、全てまとめても命に関わるようなそんな落ち方はしたことがない。その中に目の眩むほど高い崖の上からの落下が加わったのは、数週間前のことだった。 「ユツ、誓約の言葉は覚えた?やり直しはきくけどなるべく一度で決めてね」 「うん」 慣れない長い裾につまずかないようユツの手を取って階段を降りながら、セゼはユツの姿に微笑みをうかばせる。頭上に小さいが煌びやかな冠を乗せ、腕や耳に飾りをつけたユツは身動きする度に燦然と輝いた。考えたとおりの見栄えの良さに、セゼは満足していた。 徴持ちと王子に与えられた森の文様をあしらった薄い白布を幾重も重ね、羽や花びらのように裾に広げて色とりどりの飾りを身につけたその姿は王子の正装だ。冠などの飾りは代々王子に受け継がれてきたものだが、それらをどう組み合わせるかなどは全て徴持ちに一任されている。用意された衣装の一部を見せられた時点でその華美さに気後れしたユツだったものの、余りに乗り気で楽しげなセゼの様子に何も言わなかった。 手を引かれて階段を降りきり、一休みできるよう用意された二人分の席に並んで座る。自分も白い揃いの布で誂えた奇麗な姿でいるのを全く構わずに甲斐甲斐しい世話を焼くセゼにとって、ここが唯一休める場所だった。ここまで来ると、もうすることもない。代々似たようなことになって心配した王子の一人が用意した休憩場所は、当代の王子にとってもありがたかった。少しは休んで貰いたい。 二人がいるのは王子の間に繋がる道だった。普段は明かりの通らない暗闇の中にある階段だったが、今日だけは他の部屋のよう明るい。水の層を通したような淡い光が中を照らしていた。見慣れないその様子を、ユツはほんの少し感慨深く見やる。ここに来るのは、洗浄を行った日以来だった。 その日は、王子にとっても徴持ちにとっても嫌なことをしなくてはいけない日だった。ユツは連れ帰って貰ったばかりだったし、その内容も知らされていなかった。だが今日は違う。今日はどんなことよりもめでたく、何があるかも詳しく教えられている。 椅子から見上げたすぐ横には扉がある。前は階段を降りきると同時に開けたものは、やはりとても人の手で開けられるようには思えない。じっとそれを見上げるユツの視線を追いながら髪飾りの具合に手を伸ばし、セゼは口を開いた。 「気分は悪くない?」 「うん」 「仰々しいけど、畏まったものではないから。気を楽にして」 「うん」 「誓約するだけだから、それさえ言えればいいから」 「うん、…セゼこそ大丈夫、本当に何ともない」 「…うん?」 セゼは笑んだまま首を傾げる。ユツは真剣な顔でセゼの顔に触れ、確かにあるのを確かめるように体に触れた。 「痛くないの、どこも」 「…ああ、大丈夫。ユツが治してくれたから」 「血がいっぱい出てたんだよ、その血が消えるのと一緒に、セゼが」 言いながらユツは唇を震わせた。 あの日、崖から落ちた日。セゼの機転によって幻草花の助けを借り落下の速度を和らげることが出来たものの、無事に済ませることは出来なかった。ユツはせいぜい擦り傷ぐらいだったが、そのユツを庇って落ちたセゼはそうはいかなかった。足や胸の骨を折り、額も深く切って血塗れのセゼの姿がユツの脳裏にうかぶ。 「血が、土に浸みる前にまるではじめからそんなの、なかったみたいに消えていくし、顔はどんどん青ざめていくし、こわかった」 閉じた目がもう二度と開かないような、そんな気さえした。 あの時覚えた恐怖は、たぶん洗浄を受けた時のものよりも強いものだったろう。すでにロウの術は解けていたが、ユツは一瞬たりともセゼから手を離したくなかった。助けを呼びに行かなくてはいけないことは分かっていたし、崖には狭いが階段があるのも気付いていた。だがユツはセゼを置いてその場を離れることは、決して出来なかった。 セゼがいなくなる。流れた血が消えていくのを見て思ったのはそのことで、そう思った後のことは余り覚えていない。結果的にユツはセゼを抱えて空を駆け、村に辿り着く間に怪我までも治していたが、本来力の使えない禁域での無茶に昏睡状態に陥りユツは逆にセゼを心配させた。 「そういえば、ここで読み上げた古い言葉を覚えていたんだって?荒っぽいけど強い術式が組まれていたって聞いたよ。あれならロウにも適うのではないかって結主が」 「覚えてない、…それにあんなのでロウに適っても嬉しくない」 村に辿り着いたとき、異変に気付いていた結主が迎えに来ていたが、ユツがどうにか思い出せるのはその場面だけで後ははっきりしない。セゼを救うことだけがユツの中にあって他はどうでも良かったのだ。 徴持ちを失うかもしれないという恐怖は王子に狂気を呼んだ。たぶんと付けるまでもなくそれはそういうことでしかない。徴持ちは王子の為なら何でもする。逆も勿論有り得て、融通など利きようがない。昏睡から快復した後ユツはセゼの手を離そうとせずにだいぶ周囲を困らせたが、当人たちはまるで構わなかった。一度起きてしまった狂気を静める為には必要なことだった。大げさでもなく本当に王子は徴持ちがなくては生きてゆけず、その逆もある。そのことを身をもって知ることになったのだった。 その時のことを思い出し、怯えた顔を見せるユツにセゼは髪を壊さないよう気を付けながら優しく頭を撫でた。 「…大丈夫だから、もう傷跡もないのは見せたよね」 「そうだけど」 「力の集まりから生まれるものたちは、力に還る。僕たちもそう。僕もユツも、ロウも結主も皆、命が費えれば消えてしまう。亡骸は残らない。…流れた血が消えたのも、だからでしかない。別に逝こうとして血が消えるわけじゃなくて、当たり前のことでしかなかったけれど、ユツを怖がらせてしまう気がして、後回しにしてしまった。それが余計、良くなかったね」 「うん、怖かったんだ」 消滅と死が本能的に結びついて、この世界の理を知らないユツは動揺してしまった。ただ、向こう育ちにとっては余りに異常なその終え方を前もって教えられていたとしてもどう受け止められたか分からない。もしかすれば目の前にあるわけでもないことを教えて怖がらせるとセゼを詰った可能性もある。もう過ぎたことだが、結果的にユツはこれで良かったのだと思っていた。 「禁域は、死期を感じた者が入る森でもある」 重たく、ゆっくりとセゼは口を開く。ユツは大人しく耳を傾ける。 「前の王子と徴持ちも最期は禁域だった。二人で逝ったと」 セゼはユツの手を取り、両手でそっと包む。怯えさせていないことを確かめるように目を覗き込んでから、セゼは口元を小さく笑ませ、何の揺らぎもなく返される眼差しを受け止める。 「不幸な別れでさえなければ、それが通例だから。…そうする気持ちもそうなる気持ちも全く分からないけど、実を言うとね、ユツが傍にいない間はそうなることが憧れだった」 「……うん」 「せめて最期だけは一緒にいたいと願っていた。そう思うことしかなくて」 「……、今は?」 「今は当然、禁域のお世話になんて絶対になりたくないよ」 「…………」 「王子がいない日々を後どれだけと思うと…明日が早く来て欲しいのに、自分一人しかいない明日なんてと思ってしまって、でも、もうそんなことは思わない。ユツは傍にいるから」 静かに吐き出される声をユツは黙って聞く。ユツは終わりのことなど考えたことがない。善弘といるときも明日のことさえ余り気にしたことがない。 こちらの何もかもをないことにしていたせいか、もともとの性格か、善弘の言うことなら何でも鵜呑みにして疑いもせずいた。だから嫌なことも嬉しいこともぼんやりしていて、どうでも良かった。それは徴持ちが傍にいない王子の歪みだったとも考えられるが、それだけでもなかっただろう。大切な誰かがいない寂しさを、せめて終わりだけは一緒でありたいと願って紛らわすような気持ちは、徴持ちを得た今のユツにも分からない。だが今は、つよくお互いの存在を感じている今はそれがどんなに辛いものか、聞かなくても分かった。 離れていた時間もその空白もある。ただそうでも、ほんの少し足を踏み出すだけで埋まる距離をお互いの手で繋げた今が、ユツにとっての全てだ。僅かに見上げたその角度さえも変わったり無くなったりするようには思えない。手を包んでくれている温もりや、息づかい、目の前にあるものの他は知らないし、彼でなければいけない。もしもも、他もない。セゼのいない日々などまるで想像がつかなかった。 「セゼ」 「…うん?」 「…もう、忘れない。たとえ僕が王子でなくなるようなことはあっても、忘れることなんてもうないよ。そんなの考えられない」 「ユツは王子だよ、そうでなくなることなんてない」 首を横に振るセゼに、ユツも首を横に振る。 「実際なんて知らないよ。僕の中では、ということを言ってるんだよ。こんなふうに見上げた向こうにセゼの姿があるの当たり前だから。そうでなくなるなんて思い浮かばないし、そうしようとは思わない」 「……うん、」 「僕は今ここにいるし、セゼもいるし、それがいい。そうしていたい。ずっと一緒だよ」 「…うん」 「最期までずっと一緒だよ」 「僕の王子がユツで、嬉しい」 泣き崩れるように笑って、セゼはユツをぎゅっと抱き込みそろりと離す。その抱擁をユツは何となく懐かしい気持ちで受け入れた。 「…時間だね、行こう」 「うん」 扉がゆっくりと外向きに開いていく。二人は立ち上がって、一度お互いの方を向く。 扉の向こうは人で溢れている。特別な日だけに通る通路を使って王子の間に入った者たちとの誓約を、ユツはこれからしなければならない。それが王子に課せられたいちばん始めの役目であり、王子として認められる為の儀式だ。彼らに忠誠を誓われてこそ、正式に王子として成り立つ。 肯き合って二人は扉の向こうに足を踏み入れる。その先は光に満ちあふれていた。 |