弟とつかのまの時間を過ごし、ばらばらに店をあとにしてから、すず雪は仕上がったばかりの帯を手に帰路についた。 あつらえられた帯は香津木(こうづき)家から師匠への挨拶がわりの贈答品だ。それを持って帰るのはいくらか気が重かったが、父と師匠との間で取り交わされた約束も決まりも詳しくは知らないままだから、かるがるしくそんなものはなくてもいいのではなどと口には出来ない。 すず雪の母は有り体に言ってしまえば父の愛人のひとりだった。どういう経緯があったのかごく当たり前のように本家の屋敷に迎え入れられていたし、愛人の子だとそしられた覚えもない。 なにしろ幼いときのことだから詳しい事情は分からないものの、すず雪はあたりまえのように父の子のひとりとして過ごしていたし、大切にされてもいた。 そんなすず雪が街へ出て鳴り方になる、そう決めたときにはたいそう反対されたものの、たとえ期限つきになっても、なりたいと思った道を歩めることがとてもありがたさを、すず雪は良く分かっていた。 「ただいま戻りました」 「すず雪、ちょうどよかった。これを奥に運んでくれないかい」 玄関で行き会った兄弟子のひとりがほっとした様子で湯呑みがのった盆を渡してくる。 ぼんやりとした気持ちから我に返って、すず雪は兄弟子を見上げた。 「お師匠…、機嫌悪いんですか」 「まあ、ちょいとね」 師匠も年若なすず雪にはいくぶん甘いと思われているらしく、こういうときに頼みにされることが多い。 帰宅の挨拶もしなくてはいけないので、すず雪はふたつ返事で盆を受け取った。 師匠の部屋は稽古場からいちばん遠い奥まったところにあり、唄も弦琴の音も届かない。 しんと静まり返った廊下にうるさく足音をたてないよう気をつけながら、部屋の前で足を止めた。 「すず雪です。ただいま戻りました」 「…はいりな」 引き戸の向こうから、ひやりとした空気が肌をさす。 上座に据えた火鉢の前で眉間にしわを寄せた師匠の剣呑さに、入りづらいと言った兄弟子の気持ちが分かる。 すず雪はできるだけうるさくならないよう動きをおさえて近づき湯飲みを置いた。 四十を少しばかり過ぎた師匠の香はる(こうはる)は贅肉などかけらもない細い体つきだが、その体から響く声も音もいったいどこからと思うほどの深みと艶がある。 若い頃は花街一の華妓でさえ裸足で逃げると言われた美貌の持ち主で、流し目ひとつで腰砕けになった客もいるとさえ言われていた。 さすがにその頃と同じようなみずみずしさはないとはいえ、今もふとした瞬間にどきりとするような色香がたちのぼる。 ここはさっさと用を済ませて去るに限ると見極めて、すず雪は盆を脇に置いて頭をさげた。 「お手伝い休ませてもらってすみませんでした。預かりものは…」 「おまえ、見られたね」 「見られ…?」 思わぬ返しに素の声をあげたすず雪に師匠の黒いまなざしがささる。すず雪はまるで胸に重石を乗せられたようにびくりと体をこわばらせた。 「あたしが客をとらせてるんじゃないかってね。お節介もたいがいにしてほしいもんだ。よその弟子がどこの誰と会おうがかまわんだろうに」 ため息混じりの声はどこか疲れを帯びて、いらだちよりもあきれめいたものがにじむ。 言われた言葉がすぐにはのみこめず、すず雪は顔からしずかに血の気が引くのを感じとった。 少しずつ事情を理解していくものの言葉がでない。 「……お大尽のところから朝帰りしたからって、安直に身売りしていたんだと繋げるのもどうかと思うがね。おまえの場合、あながち間違いでもないだろ」 師匠の言葉に、視線を落とす。 じっとこぶしをにぎり、すず雪は頷くことも首を横にふることもできずに体をかたくさせる。 身売りなどはしていない。 けれども何もなかったわけじゃない。何も知らないものからすれば、すず雪が枕営業をしてきたんだと勘ぐられてもおかしくないだろう。 すず雪がみつばちだから仮の花主と体を重ねきたのだなどと、おいそれと口に出来ることではないし、たとえ言ったとしても理解を得られるとも思えない。 この通りに住む誰ひとりとして、ほんもののみつばちを目にしたことはないはずだからだ。 「抱かれなくちゃもたない体なんぞ、男にとっちゃたまらない据え膳だろうね。保護が徹底されるまでは色里に流れてくるものも多かったというのもうなずける」 「師匠…」 「なにも、ばかにしてるんじゃないよ。なんぎなことだとは思うがね」 みつばちは、王侯貴族などの中でたもたれてきた血の力のひとつだった。 高い魔法力を維持していくことに重きを置いてきた彼らにとって、その枯渇はなによりおそれることである。時にそれは生死に関わることもあり、大きな力を使いすぎたために命を失うことも決して珍しいことではない。 みつばちは本来であればやりとりすることがむずかしい気の力を受け入れ、それを別の相手へと与えることができる。 ただふれあうだけでも力のやりとりはできるが、なによりみつばちの本領が発揮されるのは、体を重ねたときだった。みつばちはそうすることによって蓄えた力を相手に与えられるだけでなく、相手の力そのものを高めることができる。 もちろんそれは一時的なものに過ぎないものの、時には倍以上の力が使えることさえあると言われていた。そのため、みつばちたちは国の財産のひとつとして守られ、大切に扱われている。 国の保護を受けているみつばちが表に姿を見せることは殆どない。 そうと分かったときから護衛がつくし、血筋で受け継がれることが多いみつばちが一般家庭に生まれることは殆どないから、たいていは血を守り続けてきた王族や貴族の中からあらわれるものだった。 体の中に気がたまりやすく、それを抜き取ってもらわなければ体がもたない、そういった体質を持つみつばちは、それができる魔法資質をもった者には、とてもかぐわしい香りを放つ存在だった。 それは本人たちの意志に関係なく、情欲を誘い、惑わすことがある。 香はるの言うとおり国の保護が行き渡らないころは、みつばちと言えばていのいい抱き人形のような扱いで、色里の人気商品だった。 すず雪はその時代の頃をきちんと教わったことはないものの、なにしろこういう体質を持って生まれたから、なんとなく察しているところもある。 余分な力を蜜珠と呼ばれる珠にかえられるようになれば、幾らか体内の力を調節できるようになるものの、そこにいたるまでにはある程度、みつばちとして成熟しなくてはいけない。 今のすず雪は成熟前の不安定なころに入っていて、常日頃からうっかりその香りで誰かを惑わしてしまわないよう気をつけていたものの、今がいちばん香りを抑えるのがむずかしいとも言われている。 蜜珠をはらんだことはなく、正式にみつばちとしても認められていないのに、体は力をためこみ出口を求めてしまう。 正式なみつばちには珠守と呼ばれる守り手がつき、蜜珠をはらんだり、それを生み出したりする手伝いをしてくれるし、花主を持てばよりいっそう気を安定させることができるが、今のすず雪にそういった相手はいないし、家もでているため、みつばちのために用意されるあらゆる保護から外れていた。 家から紹介してもらった仮花のもとに通うことでなんとか日常生活を送れているものの、ひと目をしのんでそういった相手のもとへ足を運ぶことそのものが、誰の目にもあまり好ましくうつらないのはまちがいない。 「おまえが男と寝るのが好きでたまらないんだと言って通るようなたちならいいんだが、火に油だろうな。あたしがそそのかしたんだろと華妓たちが目くじらたてるに違いない」 「……みつばちの体質が理解しづらいものなのはよく、分かっています。ねえさんたちの道理から外れていることも」 鳴り方はこの街いちばんの華やぎに音をそえ、よりいっそう艶やかに彩るために苦心する。 鳴り方はそうやって華妓たちに寄り添い、ともに生きる。だから華妓たちのことなら誰よりも詳しいとも言えて、そんな彼女たちが色で客をつかまえることを何より嫌うことは、当たり前に理解していた。 「うわさはわずらわしいが、そのうち消える。華妓に情けなくうつるような鳴り方になりなくなけりゃ、とりあえず胸をはってな」 師の言葉にすず雪は頷き、ゆるやかに頭を下げた。 うわさが消えるのをただ待たなくてはいけないのがつらかったが、かといって仮花のもとへ通うのをやめることは、みつばちであるすず雪にはできるはずもない。 香はるもそのことがよく分かっているからこそ、やりきれないいらだちがつのるのかもしれなかったが、それこそすず雪には口を出せることではなかった。 |