通りに灯りがともりだすと、街はにわかに活気づきだす。 豪奢な衣装に身を包んだ華妓たちが道を行き交い、贔屓客を歓迎する声が幾つも重なればどこもかしこも慌ただしい。 表通りから一本脇にそれたところにある峰屋はこの辺りでも老舗の料亭で、ひっそりとした佇まいながらも軒にさげられた灯りや柱に落ちた葉陰にもどことなく品と優美さがあった。 今日のすず雪は師匠のおともで、はじめにすず雪と新米華妓で短い曲を披露したあと、師匠の香はるとねえさん華妓のしげ乃が組んで曲をやることになっていた。 「すず雪ちゃん、どうしよ。すごく胸がどきどきする。うまくやれるやろか」 「だいじょうぶ、さち乃の舞はきれいだもの。思い切り舞えばよろこんでもらえる」 「う、うん…」 座敷にあがるようになって日の浅いさち乃は、やわらかそうな頬が愛らしい新米華妓で、香はるのもとに唄をならいに来ているのもあり、すず雪とは親しいほうだった。 安心させるようにほほえみかけると、さち乃は少しほっとした様子でうなずき、髪を直してくるといって席を立つ。 それを見るとはなしに見送って、すず雪は胸に抱いていた弦琴を傍らに置いた。 「あれ、すず雪あんただけか。さち乃は?」 「しげ乃ねえさん」 すず雪はさっと立ち上がって座っていた座布団を返してゆずったが、しげ乃はすぐゆくから、と渡された席には腰を下ろさず、立ったまますず雪を見下ろす。 「さち乃さんなら、いま鏡さん見にいかれましたけど」 「ふうん。まあそんならすぐ戻ってくるか」 年若のさち乃は赤い地に金糸をまぜた小花と鞠模様のあでやかな着物だったが、しげ乃は灰色の格子が入った草色の着物に帯も落ち着いた無地のものだ。 それでもしゃんと伸びた背と切れ長のまなざしはしげ乃に似合い、地味や大人しいといったたとえにはほど遠い。それどころか、ほんの一瞬目を合わせただけでもその雰囲気にのまれてしまいそうな気づよさが感じられて、すず雪はさすがだなあと思う。 しげ乃はすず雪の師匠とむかしからの付き合いで、お互いの見習い時代を知っているぐらいだから相当前からだというのは確かなのだが、顔を会わせればそういう約束でもしていたのかと思うほど決まって口げんかをはじめてしまう。 言わばけんか仲間のような間柄だったので、すず雪にとってはそれなりに付き合いも深く、もうひとりの師匠のようなものだった。香はるを前にしたときのようにしぜんと背筋が伸びる。 「すず雪、あんた香はるに言われて色仕えしてるんやって?」 「ねえさん…」 「王城まわりのお大尽んとこに出入りしてるんやろ」 直にその話を持ち出してきたのはしげ乃がはじめてだが、あらかじめ師匠の香はるから聞かされていたから、落ち着いて相手に向き直る。 なにも真っ正直に語らなくてもいい、だからといって、嘘をつかねばと思う必要もないだろうと、香はるは言う。 出入りしているのも本当、色仕掛けで何ぞ仕事を得ようとしているわけでないことも本当、ならば堂々としていろというのが言い分で、すず雪はそれに、はい、と、頷いた。 すず雪にその手の噂がついたのははじめてだが、そういった類の噂はめずらしいものではなく、師匠の香はるであればやまほどつく。 何せ下手な華妓よりずっと顔がいい香はるだ。鳴り方としての腕前は誰もが認めるところでも、色で客を釣って築いた地位だとささやく者は後を絶たない。 「で、どうなん」 「ねえさん。わたしが言うのもなんですけど、師匠がちょっと流し目でも投げた方が手っとり早いと思います」 「確かに顔がいいのは香はるだが、あんたは若い」 「わたしにはそれぐらいしか取り柄がありませんけど、師匠にはかないません。本気になればいちころです。めんどうがってそんなこと大金つまれてもされないでしょうが」 「まあな。あのへんくつは自分の使いどころをよく分かってるやろうし」 いつものくだらん噂かとつぶやいて、しげ乃はすず雪から視線を外す。 彼女にとってはすず雪が実際に大尽のもとへ通っているかどうかよりも、香はるをやりこめる話かどうか確かめたかっただけなのだろう。 仲がいいのか悪いのかいまいち判然としないふたりだが、お互いのことを分かりすぎるほど分かっているふしもある。だからこそ、ぶつかり合わずにはいられないのかもしれないが、そういう付き合い方ができるふたりに少し憧れてしまう。 期待してたのにと残念そうにつぶやいたしげ乃に座布団を向ければ、気持ちを変えたらしく、すとりと腰を下ろす。 控えの部屋にはちょっとしたお茶の用意があるので、それを引き出してしげ乃のために熱いお茶をいれた。そんなすず雪の手もとを見ながら、しげ乃は脇息にだらしなく頬杖をつく。 「あんたも顔はわるくないからなあ。香はるが派手すぎて目立たんけど、ちょっとそそるっていうもんもいるし」 「はあ…」 「はあ、じゃないやろ。あんたはほんとうに、むかしっからぼんやりしてるから。こなかけても気づかんもんだから、いじわるしてやろて思われるんやろが」 「ねえさんたちに気にかけてもらえるのはありがたいことで」 「つまらん。なんやそのお見本みたいなこたえは。師匠の毒っけがあんたにあればな。まあ、あれに付き合えてるんだから、あんたもええ性格してると思うけど」 あけすけに胸の内をかたりあえるのがいいというわけではないが、最低限言いたいことが言えるようにならないと、舞と音も合わないし座敷の雰囲気も悪くなりがちだった。 それを思えば駆け出しの鳴り方など、からかいの種になれるだけ運がいいといえるのかもしれない。それをきっかけに話題が弾めばもうけものだろう。 ただそれを言ったらしげ乃はますますつまらなそうな顔になることは簡単に想像できたので、すず雪は言葉を飲みこむ。 少なくとも顔や名前を覚えてもらえなければ、華妓に乞われて座敷にあがることもできなくなるから、うわさ話にのぼることは何も悪いばかりの話でないのも確かだった。 「それにしても、さち乃はずいぶん遅いな」 「ちょっと見てきましょうか」 立ちあがろうとしたところで急いだ様子の足音が近づいてくる。さち乃にしてはたてる音が大きいといぶかしみながら音の方をみやると、焦った様子で飛び込んできたのは料亭づとめの仲居だ。 「たいへんや、さち乃ちゃんが」 もたらされた話にそろって顔色が変わる。先に動いたのはしげ乃のほうだ。 話を聞くなり飛び出していくしげ乃のあとを、すず雪は急いで追いかけた。 さち乃はお手洗いを済ませて廊下に戻りながら、今日のお座敷のことを思って小さな息をついた。 自分たちだけでなく、しげ乃と香はるを呼べるのだから、今日のお大尽はずいぶんといいご贔屓さんだ。しげ乃たちの座敷舞はちょっと見てみたいといった軽い気持ちで呼べるものではないし、高値がついた花代をだせるのはもちろんのこと、それだけ目も肥えているということにもなる。 さち乃は新米としては筋がいいといわれているほうだし、しげ乃の妹華妓であるからには舞の良さで呼ばれる華妓になりたいと、稽古に精を出してきたからそれなりに自信もある。 けれどやはりまだ慣れない座敷だから不安はつのった。せめてのすくいがあるとしたら、一緒にでる鳴り方がすず雪であることかもしれない。 すず雪の音はやわらかで、あわせやすいのだ。ねえさん華妓のしげ乃は本人そっくりなぼんやりした音だ、とか、どうもつかみどころがない、などと言うが、ちょっと音がほしいといったときにすず雪を使ったりするから、それなりに評価はしているのだろう。嫌いな音にはしげ乃はまったく見向きもしない。 師匠の香はるはそれこそ凄みとしかいいようがない音を出すが、そんな香はるに寄り添える音をだせるすず雪もたいしたものだとさち乃は思う。 近頃ふたりにはおかしな噂がでまわっていることはさち乃も知ってはいたものの、正直言って鳴り方にはそういった噂がつきやすく、どこそこの鳴り方と華妓がいい仲らしいとか、師匠と弟子のただれた関係だとか、そういったものと比べればおとなしい部類だと言えた。 花街づとめの中で恋することもあればお大尽といい仲になることもある。大事なのは話の良さや芸のよさをかわれてご贔屓さんをつくることであって、そこを忘れれば色里の遊女たちと同じように見られても文句は言えないだろう。 華妓はなにより遊女扱いされるのを嫌う。 花街は華やかさや芸の巧みさを売る。はなから色目当てでくるような相手はお断りだし、それを認めるような者も許さない。それが華妓の誇りであり守るべき筋だ。 少なくともさち乃はそうありたいし、そうやっていい華妓になっていきたい。 つらつら考えごとをしながら歩いて少し気が散漫になっていたのだろう。 廊下の角をまがったところで向こうから来た相手とぶつかりかけ、さち乃ははっと我に返った。 「すみまへん、うちがぼんやりして…」 頭を下げた首筋に息がもわりとかかる。その酒臭さにさち乃は少し驚いて、ぎくりと肩を揺らした。 峰屋のような老舗の料亭で深酒するものは珍しい。そういったふるまいは無粋だといって好まない者が多いから、すぐにたちの良くない客に行き合ったと気づく。 「あぁ? すみませんで片付くなんぞ、…。……お? よく見りゃいい女じゃないか」 言うなりいやらしい手つきで腰を撫でられ、さち乃はひそめそうになる眉をぐっとこらえて笑みをつくった。 「いややわ、いたずらしいのお手て」 「それそれ、かわいがってやるからなあ」 何とか離れようとするさち乃にすっかり酔いがまわっているらしい男はせり出した腹をぐいぐいとおしつけてくる。 さすがにこのままではまずいと思いかけたとこで、近くを通った仲居が気づいたらしい。あわてたように割ってはいってきてくれて、少しだけ腕の力がゆるむ。 「お大尽さん、ここにきていらしゃったん。お手水からなかなか戻られんで心配してたんですよ」 仲居が伸ばした手を男はむっとした様子で振り払う。酔いのせいかそのまま足もとをふらつかせたが、にやついた顔にははっきりとした苛立ちがにじんだ。 「おまえ、華妓はみんな出払ってるって言ったが、いいのがいるじゃないか。こいつを部屋によんで酌させろ」 「あれまあ、この妓は別のお大尽さんに呼ばれてるんですよ」 どうやら華妓はいないまま仲居に酌をさせていたらしい。 早く行きなさいと促されて仲居にお礼を小さく返しながら足早に立ち去ろうとしたさち乃は、数歩もいかないところで足をもつれさせた。 「な、…っ」 「いってもらっちゃこまる、あんたの客よりおれのが上だ」 「あれまあまあ、ここで魔法は困ります。どうぞおさめくださいまし」 足に絡みつく縄をはがそうと手をかけるも、それは指をすりぬけて外すことができない。 仲居がとりなして魔法をおさめさせようとするが、おびえた顔をうかべたさち乃を男は舌なめずりするような笑みで見下ろした。 「魔法も使えないやつが指図するな。おお、見れば見るほどいい女だよ」 絡みついていた縄が不意に動き始め、ずりあがってくるのをさち乃はなんとか防ごうとあがくが、魔法の力などかけらももっていないさち乃はそれを外すことも、とどめることもできない。 公衆の面前ではずかしめられる恐怖に青ざめ、さち乃はかたかたと体をふるわせた。 このあたりでは魔法を使える者などほとんどいない。実際に目にすることも少なく、ましてや花街では魔法は御法度だった。それは華妓を守るためでもあるが、魔法力の高低はそのまま身分につながりやすいので、客をお大尽さんと呼んで素性を伏せることが多い花街では魔法は隠すのがつねだった。 「どうか…かんにん…」 こんなときに泣くだけなんてみっともないと思うのに、手も足もうまく動いてくれないのがくやしかった。もっとうまく、……たとえばしげ乃であれば、切り抜けられるはず。そう思って、なんとか気持ちをおさめようとしたときだった。おびえでつぶれそうになるさち乃の気持ちを叱咤するように、鋭い声がわってはいる。 「うちの妓になにしてんだい、手ぇ離し!」 「っ、おねえはん…」 「泣くな。顔くずれるだろ」 しげ乃はほほえんでから、そっとさち乃を引き起こす。裾の乱れを手早く直してやってから、男を見てふんと鼻を鳴らした。 「うちの妓に手をだそうなんて百年早いわ」 しげ乃の言葉に男が怒りで顔を赤く染める。鋭い啖呵に辺りがざわりと揺れるのが分かったが、その程度で引き下がるようなしげ乃ではなかった。 飛び出したしげ乃を追いかけてきたすず雪は、さち乃が無事なのを確かめてほっとしたものの、魔法の気配を感じ取って慌ててしげ乃と男の間に割って入った。 「お大尽さんかんにん。ねえさんにとっちゃ、妹華妓は目に入れても痛くないぐらいかわいいもんなんで、つい言葉が過ぎてしまいましたんで」 頭を下げるすず雪に男は、目障りだというように顎をしゃくる。 「どけ、あんな女おれが魔法を使えば泣きわめいてすぐに股を開く」 「ここを色里と間違えてもらっちゃ困る。あたしらは華妓や」 「それがどうした。かわらんだろが」 「なにぃ」 いきり立つしげ乃を仲居が後ろから羽交い締めにする。それを目の端にとめながら、すず雪はやわらかにほほえんだ。 「お大尽さんは魔法を使われるんですねえ。いっつも魔法使ってうちらを守ってくだすって、ありがたいかぎりです」 すず雪は男からもれだす力に気づいてとっさにその体に軽く手を寄せた。 にこにことしたすず雪の言葉に男は少しばかり毒気を抜かれたような顔になったが、肌をちりちりとさすような魔法の気配はかわらない。 男が魔法を使えば華妓たちが怪我をするかもしれないし、自慢するだけはあってそれなりに強い力の持ち主のようだった。 みつばちは体内に気をとりこめるので、それを応用すれば、相手に魔法を使わせないよう力を吸い取ることもできないわけではない。 酔っている分、自制心がだいぶ弱まっているらしい男は、さち乃だけでなく、しげ乃をやりこめようと思いはじめたらしく、舌なめずりするような顔で二人を見やる。 すず雪は男の意識を引きつけるように少し大きめの声を出して体を寄せた。 「お大尽さん、わたしは一度、音に合わせて光の輪っかがはねるような魔法を見せていただいたことがあるんですけれど。なにしろ学がないからよくは知らなくて。あれはなんていうんですか、治癒? の応用らしいですねえ」 「ああ…、あれはな。ほんの子ども遊びよ」 「そうなんですか。わたしは、ただきらきらしているなあと眺めてたんですけどねえ。きっとお大尽さんにとっては、何気ないことなのでしょうけども、本当にすごくて。魔法を使われるかたはなんてご立派なんだろうと思った覚えがあるんですよ」 話しかけながら、すず雪が深く息をすいこむように意識を集めた。力を奪うことを気づかれてはことなので、あいまあいまに声をかけて男の注意をそらしていく。 本来であれば抜いたものを戻していくものの、それをしてしまっては男の魔法力を高めるだけになってしまうので、半分息をとめているような形で飲みこんでいくしかない。それは思ったよりもずっと手間がかかることのようだった。 「ん、んん? おまえ、ずいぶんいい匂いを…」 ふだんはつとめて表にださないようにしているが、とりこんでいくのを隠すのがせいいっぱいで、香りまでは手が回らない。 少しばかり焦りながら、すず雪はほほえみをうかべる。 「……どこぞで移り香でも、もらいましたでしょうかねえ。夜咲く花も、このあたりは多く植わっておりますし」 少し体を離そうとした動きを、男が腕をつかんでとらえる。 「いい香りだ…たまらんぞ、そそる匂いだ…」 「おやまあ、お大尽さん。いけません、…ずいぶんたくさんお酒を召されたんでしょう。少し向こうでやすまれたほうが」 「おまえも来い…、おまえがいい」 男の腕はますます強くすず雪をとらえる。 どこかぼんやりとした顔ですず雪をつかむ男の様子に、仲居たちは戸惑いがちに顔を見合わせるのが見てとれた。さっきまであんなに華妓たちに執着していたのに、急にすず雪に興味を示しだしたのが理解できないのだろう。 すず雪は一気に男の魔法力を取り込んで昏倒させようと意識を巡らせたが、まるで差しすぎた油で空回りしてしまうように、うまくこなすことができない。みつばちとしては未成熟なすず雪には、なかなか思った通りに力の流れをつかめないのだ。 「……、っ」 「おや、そこにいらっしゃるのは小州の旦那様じゃあないですか」 唄うような響きのよい声がすっと通り、すず雪ははっと後ろを振り返った。 「…ん? き、きさまは香はる!?」 「奇遇ですねえ。ついこのあいだも大旦那様にはご挨拶させてもらいまして」 香はるはいかにもそらぞらしい笑みをうかべて男に近づくと、すず雪の腕を引いてぽいっと廊下の端に落とす。 師匠、とあわてて声をかけようとしたすず雪はそのままそばの部屋から伸びてきた手にとられて中に引きづりこまれ、その声をのみこむはめになった。 小さな灯りがひとつだけともされた部屋は薄暗く、肌寒い。 ふすま越しに香はるの人を食ったような声が響くのがどこか遠くて、すず雪はせまめに区切られた部屋を見まわす。さぐるまでもなく、すず雪をこの部屋に引きずり込んだ腕の持ち主はすぐ近くにいた。 「あんなおじさんになっても、父親はこわいものらしい。あれの父親が君の師匠をかわいがってるらしくてねえ。まあ、香はる相手じゃ、端から敵うはずもない」 見れば、すず雪より幾らか年上か同い年ぐらいの少年だ。 香はるのことも酔客のことも知っているらしく、災難だったねと笑みをうかべてから、すず雪を部屋の奥に手招く。 この部屋は控えの間のひとつだろう。華妓たちが出番を待つのに使ったり、あるいは付き人が通されて主人の用が済むのを待つ。接した部屋は静かなので今日は使われていなかったらしい。 すず雪は居住まいを正すと、少年に向けて頭をさげた。 「せっかくお越しいただきましたところを、お騒がせすることになって申し訳ありません」 弟と同じ王立学院の制服を身につけた少年の襟には小さな七枚葉をかたどった記章がとめられている。それを目ざとく見つけて、すず雪は幾らかの警戒心を覚えた。 それは学院の中でもひとにぎりの生徒にだけ与えられる記章だ。弟の襟元にもあるそれは、少年の家柄の良さも教えてくれる。弟からはその印を見つけたら近づかないほうがいいと言われていた。 どうしてここにこの少年がいるのかは分からなかったが、身分ある相手であることは確かだったし、香はるのこともある程度知っているのだろう。どのみち鳴り方の装いをしているすず雪はひと目見ればどこの誰とわかる出で立ちだから、相手が誰であろうとぞんざいには振る舞えない。 「おかげさまで外はだいぶ落ち着いたようです。今、様子を…」 「んー、まだ出ない方がいいと思うけどなあ」 少年は上品なほほえみをうかべると、立ち上がりかけたすず雪にすっと体を寄せてくる。 「思ってた以上に香るねえ。蜜のかおりだけでこれほどうずくのはじめてだよ」 「……っ」 「でも、さすがというべきかな。あれだけの量を一気に飲み込めるみつばちは、なかなかいない」 すず雪はにじり寄られたぶんを後ずさって距離を持ち、もれだしているらしい香りに意識を集めた。気のせいでしょうと取り繕うには、その香りをかぎとれないすず雪でもむりがあると分かる。 今までにないほどの気の量をとりこんだせいか、ふくらんだ風船をそれよりも小さな入れ物に押し込むような感覚にすず雪は焦った。 体の奥が灼けるように熱くて苦しい。 けれどそれをどうにかしなければ、外へ出られないのも確かだった。 せっかく師匠がおさめてくれようとしてくれた場に、みつばちですと看板をつけたような状態で赴けば男はまた騒ぎだすかもしれない。 「がんばるねえ」 「…っ、ん」 あ、と思ったときにはいつのまにかすぐそばまできていた少年に見下ろされ、そのまま深く唇を合わせられる。 こばもうとした手のひらは少年の胸元にそえたまま動かすことができず、すず雪はあふれそうになっていた分を拭われる心地よさにくたりと腰を崩した。 少年のものらしい気が体の奥へ流れ込んで、どこかすがすがしいような感覚が広がっていく。そうなればもう、みつばちとしての気のやりとりにはまだ不慣れなすず雪は、相手に任せるしかない。 「ごちそうさまでした」 「…っ、…」 少年は崩れ落ちかけたすず雪を抱きとめると、乱れた息が整うのをじっと待って、瞳を濡らしたすず雪の頬を名残惜しそうにひとなでする。 「いい感じにしあがってる。本当は夜までそばにいたいけど、そこは嫉妬ぶかい後輩くんにゆずらないとね」 「あ、の…」 「立てる? 香りはだいぶおさまったから、外へでられると思うよ。君の鳴らす音を聴いてみたかったんだけど、それは次の楽しみにしておこうかな」 とっさに動けないすず雪をおいて、少年は座敷の奥へと立ち去る。その迷いない足取りをぼんやりと見送って、すず雪ははっとした。 しばらくすると外からすず雪を探す声が響き、あわてて立ちあがって部屋の外へ出る。一瞬後ろを振り返ってみても、やはりもうそこには誰もおらず、すず雪は半ば狐につままれたような気持ちでその場を後にすることになった。 |