「今日はたいへんだったそうだねえ、さち乃ちゃんもさぞびっくりしたろう」 ねぎらう兄弟子の言葉に頷きながら、すず雪は、あいまいに相づちを打った。座敷を終えたあとはそれなりに夜も遅いし、体も疲れている。兄弟子もそのあたりはよく分かっているので長くは引き留めず、すず雪はかるく頭を下げて挨拶を済ませてから、湯をあびて与えてもらっているひとり部屋に入った。 あのあと、すず雪たちは予定通り座敷に上がって舞を披露し、話を聞き及んでいたらしい相手に同じようにねぎらわれながら食事や話を楽しんだ。 さすがなのは師匠たちで、すず雪たちがつい途切れさせがちな会話の流れも朗らかにつなぎ止め、見事な座敷舞で客の心をつかんでゆくさまに背筋が伸びる思いだった。 ああいうことはあまり歓迎したいことではないが、座敷を重ねていけばまま起こりうることでもある。もっとうまくとりなし、華妓を守れてこそ一人前の鳴り方と言えるだろう。 (まだまだ先は遠いなあ) そんなことを口にしたら、兄弟子たちには何を言っていると頭を小突かれるに違いない。 すず雪はまだほんのかけ出しに過ぎないし、師匠の背中は遥か遠くの高みにある。追いつきたいとは思うけれど、その前に乗り越えていかないといけないことが山積みだ。 のろのろと服を着替えて、すず雪は小さくため息をはく。 座敷にいたときは気持ちが高ぶっているせいか気づかなかったものの、幾らか熱っぽいようで体がだるかった。いろんなことを考えなくてはいけないと思うのに、端からほろほろと意識が崩れていくような気がしてまとまらない。 「すず雪、はいるよ」 「お師匠…?」 ぼうっと視線を揺らしているすず雪にやっぱりという顔をうかべて、香はるは立ち尽くしているすず雪を寝台の中に放り込んだ。 「やたらふにゃふにゃした笑みを見せるから、熱があるとすぐ分かったよ。まったく、ちいさいころからかわらんやつだ」 「もう小さくはないです…」 少し冷たい師匠の手が額に乗せられるのが気持ちよくて、すず雪はふわりとほほえむ。 「いまもむかしも、おまえはこどもだよ。すぐ熱を出す」 「もうすぐ十六です、お師匠。ここらじゃ、おとなとして扱われます」 まるでとても大事なことのように訂正するすず雪にはいはいとおざなりに頷き、香はるは抱えてきた水枕をすず雪の頭の下に挟む。 「とりあえず寝な」 はいと頷いてすず雪は大人しく瞼を閉ざした。 足を運んでくれた師匠の気づかいがうれしく、そして少しばかり気恥ずかしい。もっと師匠に頼られるような弟子になりたいと思うけれども、香はるは師匠であり、もうひとりの親のような気持ちもする。 それを言葉にはしないが、香はるも分かっているのだろう。少しだけ眉間のしわをゆるめて、すず雪を見下ろす。 「……、ようく休んでおきな。唄うにも、弦琴鳴らすにも。なにより体が資本なんだから」 香はるはすず雪の体を布団越しにぽんぽんと軽くたたいて、来たときと同じように静かな足取りで部屋を後にする。まるで風みたいに素早くて、けれどぬくもりがほわりと胸に残る。 そんな香はるにほんのり懐かしさを覚えて、すず雪は小さく頬をゆるめた。 すず雪が香はるのもとに来た日。緊張と興奮で熱を出したすず雪を、香はるは少しだけあらっぽく、でもあたたかに看病してくれたものだ。 ああ、この人のもとで、鳴り方としての生き方を学んでいけるのだなあと思うと、すず雪は胸が小さくふくらんで、明日からが楽しみで仕方なかったことを覚えている。 すず雪が鳴り方になりたいと思ったのは、弟の王立学院への進学が決まった頃だ。 貴族の子どもは七歳から学院に通う。 ひとつ違いの弟である久夜のために入学の品々が集められていくのを、すず雪は少しだけうらやましい気持ちで見ていた。兄たちも通う学院にすず雪も行ってみたいのに、すず雪にはそういった話は全くなく、見送りについていっても車の外には出られない。 「父上、わたしも学院に行きたいです」 「んー、学院ねえ?」 思いあまって父親にそう打ち明けたのは、弟が真新しい制服を見せに着てくれた夜だった。 寝台に寝そべった父の羽づま(うづま)は眠そうな顔で幼いすず雪を布団に招き入れ、困ったように眉を寄せた。 「すず雪はみつばちだからなあ」 「でも父上は通われたと聞きました」 「少しだけね。うちはみつばちだろうと何だろうと末子が家督を継ぐから」 香津木家の当主ともなれば護衛がたんまりつくので、みつばちだろうが次期当主だろうが扱いのむずかしさは変わらないだろうというのが先の当主の言い分だったらしい。 学院側はそれでもしぶり、どうにか限られた期間だけ学院に通った羽づまだが、期待を裏切らないさわがしい学院生活だったらしく、次に香津木のみつばちが通いたいと言い出しても受け付けないと言われていたのだった。 すず雪はそのあたりの事情までは知らなかったものの、みつばちが魔法力の高い子どもたちの中で当たり前の学院生活を送るのはなかなかむずかしいのだとは気づいていた。 兄にねだって連れていってもらったお茶会でも、お店でも、みつばちだと誰も知らないはずなのにいつのまにか騒ぎになっていることがたびたびで、その原因が自分にあることは感じ取っていた。 「おとなになったら、みつばちじゃなくなりますか?」 「他の子ならともかく、すず雪にそれはないと思うなあ」 「でもかあさまはなってほしくないって言っていました」 去年の春に体調を崩した母は、夏を待たずに逝ってしまった。病床でもずっと気にしていたのはすず雪のことで、みつばちなんて…と繰り返し言っていたのが、すず雪はずっと気になっている。 生まれたその日から、すず雪はみつばちだった。香津木家のみつばちは力がつよいことが多く、また周りも魔法力が高い者が多いので、見分けはつきやすいらしい。 だからすず雪は当たり前のように自分がみつばちであると思っていたのだが、母だけは別のものになってほしいという。どういうことだろうと周りに訊ねれば、気にされなくてもいいんですよと慰められる。 けれどすず雪には、どうしてもそれを言う母の顔が浮かんで離れず、このことを話そうとすると、ときおり言葉がからまって、うまく出てこなくなるのだ。そうなると兄たちがたいそう心配して騒ぎになってしまうから、すず雪はいつも困ってしまう。 「父上」 「うん?」 「かあさまは別のものって言ったけれど、わたしはみつばちで、それは変えられない、です」 「そうだねえ。なに、みつばちもそう悪いものじゃない。うまい付き合い方を少しずつ、知っていけばいい」 「はい。…でも父上、わたしはみつばち以外のことも知りたいです」 母の何を言いたかったのかすず雪には分からない。 すず雪の母は、みつばちを知らずに育った人だ。すず雪は、母がどんなふうなところで、どんなふうに育ったかを知らない。 「みつばち、以外…かい?」 「わたしはこの家の外を知らないけれど、先生がいます。先生は、みつばちのことについて、いろいろ、教えてくれます。みつばちの、世界を広げてくれます。でも、かあさまのいた、花街のことは、あんまり知らないそうです」 「…………」 「はじめは、かあさまと同じになったら、かあさまの、考えてたことが分かるかなあって、思ったのですが、女の人しかなれないそうなので、いちばん近い、鳴り方になりたいです」 「うんん?」 「鳴り方になって、かあさまの言っていたことを知りたい」 羽づまはほうけたように我が子をじっと見つめた。 それはもう驚いただろうと、すず雪は思う。 みつばちは総じて智恵づくのがはやいと言われている。自我の芽生えがはやく、大人びた考え方を幼いうちから身に付ける。ある程度歳を重ねればあまり差はないが、子どものうちはそれが顕著だ。 それはみつばちとしての特性のひとつだとは考えられているものの、すず雪はあまり口数が多い方ではなかったので、それほど目立ってはいなかった。そんなすず雪がいきなりこんなことを言い出したのである。 当時のことをさして、香はるは小さいのに賢しいやつだと思った、など言ってからかうものの、幼いみつばちがかつてどれほど"不幸な事故"に見舞われてきたのか。また香はる自身、その美貌によってだいぶ苦労してきたせいか、そういった賢さを持たなければやっていけなかったのだろうと思うと、不憫にも感じるらしい。 今は平々凡々に過ごせていいことだよ、などとのんきなすず雪の振る舞いを嘆いて見せながら、ほっとした様子も見せたりもする。 「鳴り方…ねえ。まあ、確かにサガは捨てられなくても別の道にはすすめるか」 うちの子は頭がいいなとすず雪の頭を撫でながら、羽づまは思案するように目を細めた。 たいていの親ならここはなんとか言いくるめようとしただろう。 みつばちは国にとって大切な存在であり、家の宝でもある。 大貴族のひとつである香津木家は、実のところ、むかしから変わり者が多いと言われていた。よく言えば頭がやわらかく、まわりから言わせれば非常識のかたまりのようなところがある。 羽づまは中でも折り紙付きで、我が子の言葉にも無理な話だとなげたりはしなかった。 「しかし鳴り方ねえ、ありゃ弟子入りとかしないとなれないんじゃないの」 「はい、弟子入りしたいです。先生に習いたいです」 「先生というより、師匠だろうねえ。師匠かあ、うーん」 そこで矢が立ったのが香はるだが、さすがの香はるもこの話にはすぐに頷かなかったし、遊び半分で鳴り方の芸を学ばれても困るというのが正直なところだった。 それでも何とかとねばるすず雪に、香はるが出した条件はふたつ。弟子になりたいのなら内弟子のみであること、そして一般の子どもと同じだけの常識が身に付いていること。 それまでみつばちとして育ってきたすず雪はひとりで服を着たこともなければ伴なしに出かけたこともなく、ただの貴族の子として考えてもあまりにものを知らなすぎたのだ。 さすがにそういった身の回りのことはすぐにはできるようにならないし、香はるもすぐに音を上げると思ったのだろう。一年後に気持ちがかわらず、身の回りのこともひとりでこなせるようになっていたら、考えてもよい、という話になんとかこぎ着けたときには、すず雪はたいそう喜んだ。 だが、これには周りの者たちが難色を示した。 香津木家の子どもが他の家で下働き同然の内弟子に入るなど考えられなかったし、ましてすず雪はみつばちだ。何かあってからでは遅い。 しかしそこは当主である羽づまの決定のもと、まずは一年で一般の子どものようになれなければ話にもならないと、家庭教師が増やされることになった。 たいへんなのは家庭教師達だったろう。みつばちの子どもを教えていたつもりなのに、そこに街の子どもと同じ立ち居振る舞いも教えなくてはいけなくなって、特に礼儀作法の教師などは丁寧に美しい所作で、でもそこはもっと乱暴に、という何とも悩ましいことになってしまった。 試行錯誤のままはじめられた日々だったが、ひと月たち、ふた月たち、それでも辛抱強く内弟子を目指すすず雪を見るうちに、周囲もあきらめるほかなくなってきたらしい。 すず雪が内弟子になるには書類上の問題もいくつか片づけておかなくてはならなかったし、そのためには時間はいくらあっても足りない。 いちばんねばったのは、すず雪のふたりの兄たちだ。彼らはすず雪に嫌われたくない一心で表立ってはだめだと言わなかったものの、心変わりを期待してすず雪に一生懸命興味を覚えそうなものを見せたり、時には泣き落としにかかった。 「さびしくなるなあ、すずくん、弟子になったらここのみんなや俺にもしばらく会えなくなるんだぞ」 「すずが誰かにいじめられたらどうしましょうか。ほっぺをふにふにしてなぐさめることも、ぎゅうっと抱きしめることもできないなんて。わたしはそれを思うと夜も眠れなくなります」 兄たちと離れることは、すず雪にとってもさびしい。 すず雪が何をしようとしているかよく分かっていなく、そうと知らせなかったというのもあるが、ただただ無邪気に甘えてくる弟と会えなくなるのもつらい。 けれども、すず雪は気持ちをかえることはなかった。外へ行く、新しい世界へでていく、その喜びにすず雪の胸は躍り、そしてどこかで今を逃したら、そこへ向かうことは出来ないことも気づいていた。 そうしてはじめて香はるに出会った一年後に家を出ることになったのだ。 いつのまにかうつらうつらとしていたらしい。 灯りを落とした部屋の中で目を覚ましたすず雪は、ずきりと走った痛みに眉を寄せた。 熱を持った体が重くて、腕ひとつ動かすのもつらい。 みつばちはまわりの気をとりこむぶん、体調を崩しやすい。 だからこんなふうに熱を出すことははじめてではなかったものの、ふだんとは少し違うようで、すず雪はじわじわと痛みが増していく下腹に手をあてた。 ときおりやわらぎながらも続く痛みに肌が汗ばみ、寒気が走る。何とか痛みをやり過ごそうと無意識に体内の気の流れを追おうとした瞬間、すず雪は体の中を針で貫かれたような痛みにうめいた。 「い、た…い」 どうしてこんなに痛むのか分からない。 何か痛みどめがあったはずだと起きあがらせた体は、半分もおこしきらないうちにふらつく。 けれど体は倒れ込みかけた半ばふわりと抱き止められて、すず雪はうるんだ眼差しをいぶかしげに揺らした。 「兄さま」 見慣れた部屋の中に響く声と、その姿にすず雪は戸惑う。 「…ひさ…や?」 「来るのが遅くなってごめんなさい。すぐ、楽にしてあげますね」 弟の姿を夢か幻だろうかという気持ちで追いかけたが、その幻は汗で濡れたすず雪の髪を撫で、すず雪の体を腕の中にそっと抱き寄せる。それは体温のある生身の人のもので、すず雪にこれが現実のことだと突きつけてくる。 なぜ、と尋ねようとするすず雪にほほえみかけて、久夜は部屋に入ってきた別の人影に視線を向けた。 「久夜様」 「ここは本職に任そう。痛みがつよいみたいだから、香を焚いてもらえるだろうか」 「かしこまりました」 あがりはじめた熱と痛みにもうろうとしたすず雪は、夜着のあわせを素早くほどいていく久夜にのろのろと従う。 その久夜について手伝いながら、持ち込んだ道具を器用にあやつり小瓶の中からとりだした中身を椀の中でまぜる男の姿を、すず雪はなんとはなしに目で追う。 すらりとした立ち姿にこざっぱりとした上衣を身につけ、灰色混じりの黒髪を後ろに撫でつけた姿には見覚えがあった。 「覚えてる? 父さまの珠守だよ」 「…玖おん(くおん)」 「覚えてくださっていたのですね。さようです、玖おんでございますよ。今から痛みのもとを抜きますが、大丈夫、すぐ済みますからね」 袖をまくりあげた玖おんの腕が薬液にひたされる。 その腕の行く先を涙でぼやけた眼差しで追いかけるすず雪に、久夜は焚きあげた香の吸い込み口をあてがった。 鼻と口を覆われて、すず雪はそれを吸い込んだ。 すぐにとろりとした眠気が訪れ、意識が薄まっていく。 それを待って、玖おんはすず雪の腹部に手のひらをあてがい、中へと沈み込ませた。素早く目当てのものをさがしあてると、それを摘んで引き抜く。 今まですず雪が苦しんでいた時間がなんだったのかと思うほどにそれはあっさり済まされた。 こうまであざやかに珠を抜くには熟練の技が必要で、玖おんはその点からすれば経験も多ければもともとの腕もいい。珠守には縁がないすず雪でもそのことが分かるぐらいには、玖おんは巧みだった。 「……っ」 「はい、おわりです。がんばりましたね、すず雪さま」 「おめでとう、兄さま。ほら、これが初珠。すごくきれいな珠だよ。星透珠かな?」 「はい、初珠としてはめずらしいですね。しかし濁りもありませんし、香津木の血がよくでておいでです」 久夜は兄の中から取り出されたばかりの珠を受け取って、手のひらでにぎりこめる程度の小さな珠を灯りにすかす。 みつばちのはらむ珠は人それぞれ違う。 おおむね透き通った珠の方がみつばちの力がつよいと言われているが、いろいろ変種もあるので一概にはできない。 星透珠は透明な珠の中に星を思わせる小さな粒がまざりこんだ変わり珠のひとつで、見栄えがするため鑑賞品として手に入れたがる者も多かった。 「ひさ…、わたし、…は…」 初珠だという、透きとおる珠を見つめても頭が白くぼやけて言葉が出ない。 あまりに急すぎて、すず雪はぶるりと体を震わせた。 「何も心配はいりません。すべてはこの久夜に任せて、兄さまはお休みください」 何か話さなくてはいけないと思うのに、あてがい直された香を吸い込んで完全に眠りへと落ちる。 崩れ落ちたすず雪の体をしっかりと抱きとめてから、久夜はその額に口づけた。 「可愛い兄さま。ようやくそばに帰ってきてくれる。……あいつの助言通りになったっていうのがいまいち腹立たしいけど、しかたない」 「久夜様。外にお車がまいりました」 久夜は手にしていた珠を丁寧に箱に片づけてから、兄の体を持ってきた毛布で包み込み、抱き上げた。 体格はそれほどかわらないものの、みつばちは基本的に細身で体も軽いため、難なく運べる。 外まで出たところで、久夜は戸口に立つ人影を振り返った。 「香はる師匠」 「まったくあわただしい。あんたたちはいつも急だ」 「申し訳ありません。ですが、こればかりは先の読めることではありませんので」 「……どうだか」 ふんと鼻を鳴らしてから、香はるは小さな包みをぬっと押しつけた。 「これも持ってきな」 「三弦琴…ですか?」 「腕をなまらせたら承知しないと言っといてくれ。あたしの弟子なら、それぐらいやれるとね」 包みを受け取るよう傍らの控えに頷きを向け、久夜は外に待たせていた車に兄を乗せてから、じっとにらむような顔で佇む香はるに、ゆっくりと深く頭を下げる。 意識を取り戻した後にすず雪は帰りたいと言い出すかもしれなかったが、初珠を迎えたばかりのみつばちがそのまま居座っては迷惑がかかるのも分かっているだろう。 長く兄と暮らしたいと願ってきた久夜だが、兄がここにどれだけ愛着を持っているかも知っている。 久夜が兄の隣に戻ると車はそろりと走り出し、香はるをひとりその場に置いて花街を後にした。 |