「鈴鳴るほうへ」



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 やわらかな枕の上で寝返りをうち、すず雪はゆっくりと目を覚ました。覚えのある甘いにおいがふわりと漂い、衣擦れの音が重なる。
「おはよう、すず雪」
「……ちち、うえ?」
 父の白い肌が朝陽の中にうかびあがる。
 年を重ねてもつややかさが衰えない長い黒髪が光をはじき、口元には艶やかな笑みがうかぶ。うつくしいひとだ、とすず雪はぼんやり思った。
 頬杖をついて横たわる父の姿はどこか懐かしく、すず雪はここが父の寝室であることに気づく。
 幼い頃のすず雪は父の部屋で暮らしていたので、そこは父の部屋であると同時に懐かしいすず雪の部屋でもあった。
「まだ寝ていたらいい。外は初珠の祝いをするんだってやかましいぐらいだから」
「わたしは、あのまま…?」
「久夜と玖おんがね」
「あんなに…痛むものだとは知りませんでした」
「人によっては、ね。珠守がつけばそんなこともなくなるよ。ねえ、玖おん? そうだよね」
「はい、さようでございます」
 穏やかに微笑む父の珠守を見上げて、すず雪はゆっくりと半身を起こす。
 まだ熱がいくらか残っているのだろう。少しのぼせたようにぼんやりとする意識を取り戻すように、すず雪は自分の体を見下ろした。
「わたしはみつばちになった、のでしょうか」
「正式には城での儀を済ませてからですが、初珠は納めておりますのでそう名乗っていただいて問題ありません」
 うやうやしく一礼する玖おんにすず雪は小さく息を吐いた。
 ちっとも実感がわかないが、珠を孕んで取り出してもらった記憶はある。みつばちはためこんだ力を珠にかえられるようになってはじめて、それと認められるのだ。そのことはすず雪もよく分かっているものの、昨日と、今日とで、何かが目に見えて変わるわけもない。
「師匠に挨拶もしないまま…」
「香はるも分かっていたと思うよ」
 優しい笑みをうかべた羽づまの言葉にすず雪はこぼれかけたため息をのみこんで、ゆるく首を振った。
「もっときちんとした形をとるつもりでした。そのための段取りも、考えねばと…」
 はじめての珠を孕んだばかりのあとは、体も不安定で適切な処置がいる。だから屋敷に戻ることは仕方ないとは思うが、やはり急すぎると思う。すず雪は完全に時期を読み違えてしまったのだ。もっと早くに動くべきだった。
 これでは香はるはすず雪が抜けた座敷の穴をうめるために奔走しなくてはいけないし、内弟子がまるで夜逃げでもするようにひとりいなくなったとなれば外聞も悪い。
 もちろん身内の不幸などいろいろと理由をつけることはできるが、そんなものないほうがいいに決まっている。
「あの、父上…。少しでいいのです。師匠に…」
「すず雪。この部屋から一歩でも出てごらん。みなが振り返り、引き寄せられる。あんまりいい匂いがするものだから」
「…………」
「花主を決めない限り、ずっとだ。それがみつばちだよ」
 羽づまの声はどこまでもやわらかく、そして鋭く胸を貫く。すず雪は口もとを震わせて、続きがつかえた言葉をさがす。何か言わねば、それは重くすず雪を押しつぶしてゆきそうで、すず雪は気持ちを焦らせた。
「父上…」
「すず雪。何もこわいことなどない。踏み出したばかりの歩みは先が見えないが、すず雪はきちんと先へすすんでいる」
 はいと頷く声を枕にうずこんで、すず雪はまだどこか熱っぽさの残るからだを寝台の中にもぐりこませた。
 すず雪の父もまた、みつばちだ。すず雪はそんな羽づまのことが好きだったし、ずっと大事にしてきてもらっているのを知っている。みつばちであることを、いやだとは思わない。
 ただ今は少し、急なことで気持ちをうまく飲み込み切れていなかった。
 それはもしかしたら今どんなに考え込んでも答えは出ず、時間が必要なことかもしれない。
「もう少しお眠り。そうすれば、いくらか気持ちも落ち着くだろうから」
「……はい」
 眠りを促すようにかるく肩を叩く羽づまの手つきから伝わるぬくもりに、すず雪は大人しく瞼を閉じる。
 もし時間が必要というのならそれを待とう。すず雪はそう願うよう思って、小さな眠りへと意識をゆだねた。




 王城で定期的に行われている承認式までは幾らか日があり、すず雪にはみつばち特有の作法などのおさらいを済ませられるよう、何人もの教師たちが呼ばれていた。
 羽ずまの二子、利帆(りほ)はまだ日が高いうちに屋敷の門をくぐることに成功し、いそいそとすず雪の姿を探す。
「お帰りなさいませ、利帆様」
「すずは?」
 この時間ならちょうど舞の稽古をしている頃だろうと思ってのぞいた部屋はしんと静まり返っていて、首を傾げる。
 すぐにも抱きしめてほおずりをして膝の上にのせたいのに、本人がいないのではそれができない。
 稽古のしすぎで疲れ、やすんでしまっただろうかと半ば恐れながら尋ねれば、中庭にいると教えられてほっとする。
 寝顔を見るだけでもじゅうぶん満足はできるが、すず雪は父親と寝室を同じにしているため、そこに戻ってしまっていると利帆にはのぞきにいくことができない。
 香津木家の屋敷はそれは広いものなので、余っている部屋などいくらでもあるのだが、すず雪には私室というものがなかった。
 明確に言えばもちろん、すず雪のための部屋はある。
 けれどそこを使うことは殆どなく、すず雪は父の部屋で過ごすことにあまり疑問を持っていないようだった。幼い頃はそれが当たり前だったし、父の部屋の中に自分のための場所が作られているから余計だろう。
 実際にはそこはみつばちの為の部屋で、そこにはみつばちと珠守、ごく一部の使用人しか立ち入りを許されていない。
 みつばちは体内に魔法力をためこむ。その性質のために、魔法の影響が濃い空間の中では体調を崩しやすかった。
 体調を崩さないよう、また無意識のうちにみつばちの香りに誘われた者から守るために、みつばちの部屋には厳重な守りが施される。以前うっかり立ち入ってしまったことのある者などは入り口を三歩すすむ前に昏倒したほど、つよい術で囲まれているのだ。
 個別に設けたすず雪の部屋にもそういった仕掛けをすることはできるが、羽づまがそれを認めていない。
 生まれたばかりのすず雪を目にしたときから、羽づまはすず雪をそばにおいてはなさなくなったのだ。
 それはひじょうに珍しいことだった。四人の子をもうけた羽づまだが、屋敷にある己の部屋で花主を迎えることは決してなく、子や妻もそれは同じだ。香津木の流れを汲む他のみつばちと会うときも、私室ではなく、別の場所にある公の自室に通す。
 その羽づまが唯一執着したのがすず雪で、そのすず雪を外に出すと決めたときは誰もが驚いたものだが、それは羽づまの愛情の形のひとつだったのだろうとも考えられていた。みつばちの世界はせまく、閉ざされている。羽づま自身、当主とならなればそこから抜け出すのはなかなかむずかしかった。
「すず」
 中庭の池のほとりで目当ての姿を見つけ、利帆はほほえんだ。
 薄絹を何枚もかさねて花びらのように裾をひらかせたみつばち独特の衣を身につけたすず雪は、池の魚から目を離して顔を上げる。
「利帆兄上?」
「どうしたのですか、こんなところで」
 利帆は少し気遣わしげに眉を寄せてすず雪のそばに腰を下ろした。
「稽古が早めに終わったので、散歩を…兄上、そちらは官服ですか?」
 肩に届く髪の一部を結い上げ、深い青色の一本かんざしをさし、同じ色の布で仕立てられた上衣を身に付けた姿が物珍しいのだろう。
 指先に行くほど幅をとられた袖と、ふたつにわかれた下履きの上に巻いた長い裾には小さく波模様が縫いとられてあり、利帆は頷きを返す。
「ああ、祭礼用のです」
「とてもお似合いです。一瞬、父上かと」
「おやおや。そういえばこれは、みつばちの衣と形が似ているかもしれませんね」
 ただ形が似ているだけではなく、身にまとう者を守る術符としての意味や、気の流れをととのえるため特殊な織り方をしているから、そういった点でも近さを感じるのかもしれない。
 みつばちはその性質ゆえに自身ではうまく魔法を使えないが、その気配には聡い。
 すず雪は興味深そうに兄の服を見つめて、ゆっくり立ち上がる。その動きがわずかにおっくうそうで、利帆は思わずその体を抱き上げた。
 初珠を授かったばかりなので、すず雪はまだ自身の力の流れに慣れていない。香津木の屋敷はどこもかしこも魔法の力で満ちているから、すず雪にとってはまるで深い川を泳ぐようなやりづらさがあるだろう。
 すず雪がやりやすいように周りの力の流れを整えながら、利帆は真下から弟の顔を見上げてほほえむ。
「兄上?」
「秀護兄さんや久夜が戻る前にすずと遊んでおきたいなあと思うんですが」
「あの、兄上。わたしはまだ他のおさらいが」
 いいかけた唇の上に指をのせてふさぎ、利帆はほほえむ。
「たまにはいいでしょう? 仕事仕事となかなか屋敷に帰れないこの兄をあわれと思って、息抜きさせてください」
 目尻を思い切り下げたとびきりの情けない顔に、すず雪は口もとを思わずといった様子でほどけせる。どうやら懐柔は成功したらしいとほっとして、利帆はすず雪ごと弾むような足取りでその場を後にした。





 中庭の池をのぞきにくる前、珍しくすず雪は客を迎えることになっていた。
「みつばちの方が?」
「ええ、分家の。挨拶をしたいそうで」
 玖おんに教わりながら、着付けに癖があるみつばちの衣装をひとつずつ身につけ直していたすず雪は、淡い若葉色の帯飾りを手に父の珠守を振り返った。
「挨拶…ですか?」
「ええ。今までもそういった話はあったのですが、初珠を迎えるまではと断ってまいりましたので」
 すず雪が外に出て鳴り方をしていたのを知られるわけにはいかないため、断るしかなかったのだろう。
 みつばち同士が会うことはそれほど珍しいことではないようで、すず雪はそういうことなら会ってみたいと答えた。
「みつばちについて色々教わってきましたが、わたしは父上以外を知らないので。どなたか他のみつばちの方に会ってみたいと思っていたんです」
「羽づま様は例外のかたまりのような方ですからね」
 教師たちにも父君はとても特別なみつばちなのだと考えてくれるよう、平たく言えば参考にはしないでほしいと言われていた。けれどそう言われても、すず雪にはいまいち、どのあたりが羽づまのかわったところで、ふつうではないのかが分からない。他のみつばちと会えばそういったことも分かるようになるかもしれないと、すず雪は考えていた。
 羽づまは確かに、例外のかたまりではある。
 みつばちひとりに対して花主もひとり、そうした場合が殆どにも関わらず、羽づまには花主が七人いる。
 花主を放って遠出することや、花主に話を通さないまま違う相手と力を交わしあうことも度々で、そういった羽づまの振る舞いに眉をひそめるみつばちも少なからずいるらしい。そもそもみつばちが家督を継いでいることも珍しいことだった。
 そんな羽づまが苦言を呈されながらも、好きに動き続けられているのは香津木家の当主であることはもちろんのこと、みつばちの中でも抜きんでて力がつよく、相手の魔法力を高めることに優れているからだった。
 そういったみつばちは、位階付きと呼ばれている。位階付きのみつばちは国の重要人物として数えられており、ある程度の発言力もあった。
 玖おんは小さく苦笑いをうかべると、すず雪の締めた帯を軽く直し、耳筋で切りそろえた黒髪にてぐしを通す。
 顔立ちから言えば羽づまには弟の久夜の方がずっと似ているのだが、この髪だけは兄弟の中でいちばん羽づま似ていた。光の加減で青く輝いてもみえる黒髪は、ここしばらくで艶を増し、青みがつよまってみえる。
「父上の花主方は、わたしを父上似だと言いますけど、…」
「そうですねえ。まあ、今の時代、外で暮らした経験のあるみつばちは少ないですし、すず雪様にとってはむしろ、他のみつばちの方のほうが、驚きのかたまりのようなものかもしれませんね」
 すず雪はみつばちの衣装を身につけた自分の姿を鏡ごしに眺めて、わずかに襟を引く。
 鳴り方として過ごしたことはすず雪にとっての財産だし、まだまだこれから精進していかなくてはいけないことが山ほどある。そのためには、みつばちとしての足場をきちんと組んでいくことも大切だと思うし、他のみつばちと会える機会はなかなか得難いものだろう。
 そう思えばいっそう気持ちが引き締まるようで、すず雪は意識して姿勢を伸ばす。
 けれどそうしてはじめて会うことになった父以外のみつばちは、すず雪にとっては玖おんの言ったとおり驚きのかたまりのような相手だった。



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