「すず雪ちゃんっ」 「すず雪様…っ」 天井辺りに描かれていた壁画の欠片だろう。中空をうねる蛇の尾がはじき返したらしく、大きなかたまりが目の前に迫ってくるのが見えた。 王国の成り立ちを綴っているのか古風な鎧姿の武官が並び、それがどんどん迫ってくるのだから怖さよりも先に圧倒されてしまって立ちすくむ。 (……ずいぶん大きいなあ) 逃げなければとは思うのだが、これは間に合わないなと感じてしまって動けない。 「……っ」 「みつばちは真っ先に逃げるのが鉄則だってのに、何してんだおまえは」 「……はあ、すみません…」 幅広の長剣を腕の一部のようにあざやかに振り、壁画の欠片を粉々に砕いた青年は腕にかばったすず雪を切れ長の目でにらみつける。 鋭く叱られたすず雪は妙に馴染んだその声音にとっさに詫びを口にしたが、顔を上げてからその口をぽかんとひらいた。 顔立ちの端正さに似合わない口の悪さと、肩を少し過ぎるぐらいの長さでそっけなくまとめられた黒髪に深い水底のような青い目。 鋭利さを帯びた横顔はまるで細く尖った月のようにきれいで、どことなくひっそりとした冷たさがただよう姿にすず雪はそうっと手を伸ばす。 「谷津江(やつえ)にいさん……?」 「ああ、すず。なんだそのまぬけた顔は」 「……だって、にいさん。ずっと連絡もとれなくて」 「音信不通が一番平和でいいだろ」 「そんなこと言って。師匠も心配していたんですよ」 すず雪はため息を吐きながら、それでも少しほっとしてしまう。 谷津江はすず雪の三つ上で、かつては同じ香はるの内弟子だった。門下を離れてから一度も顔を見せに来ない谷津江に、いったいどうしているのやらと話にのぼることはあっても、誰も彼も訪ねていくことはできなかった。 行き先は分かっていたのに縁遠くなってしまったことがさびしく、けれどしかたないことだとも思っていたのだ。 「また会えて嬉しいです」 「相変わらずのんきなもんだな。そんな場合じゃないだろが」 だいたい一生あそこにいりゃいいもんを……と小さく呟いた谷津江の顔にすず雪はふわりと頬をゆるめる。 「ごめんなさい、にいさん」 谷津江はすず雪を見下ろすと、ぐいっとその体を引き寄せた。 大柄ではないが、すみずみまで鍛えられていることが分かる腕にすっぽりと抱きしめられると、どこか馴染みのある香りがすっと胸に広がるのが分かる。それはなんとなく、三絃琴の手入れに使う花あぶらの匂いにも似ていた。 谷津江はわずかに口もとをゆるめてすず雪の頬を摘み、むにりと引っ張る。 「にいさん?」 「……あん?」 「ほっぺた、いたいれすけど」 「そんな頬をしてるのが悪い。こりゃ、つきたての餅か」 「おもちじゃないれす」 めいっぱい頬をいじくった谷津江は指を離し、やわらかさが消えた眼差しを奥へと向ける。 「いるならさっさと出てくればいいだろが。うっとうしい」 「んー。別にのぞき見したいわけじゃなかったんだけどな。君があんまり見慣れない様子を見せているものだから、出損ねて。そういえばもとはあの街にいたんだったね」 柱の影から現れた顔を見て、すず雪ははっと息をのむ。 その表情の変わり方に現れた少年は少しばかり嬉しそうに目を細めた。 「覚えてくれていたんだね、よかった。改めてはじめまして。私は星映」 「あの時は、ありがとうございました。星映殿下とは気づかず、たいへんな失礼を」 「おや、誰かから何か聞かされたのかな。忘れられていなければいいと思っていたから、嬉しいね。とはいえ、今日も君が鳴らす音を聞くのはむずかしそうだねえ」 この場合、誰かというのはひとりしかいない。 王子とはそこそこ縁が深いらしい弟の顔を思い出して、すず雪は曖昧に相づちを打つ。 制服を着ていたし、分かる者であればすぐ何者なのか分かる形ではあったのだろう。 現に話を聞いた久夜はとても嫌そうな顔で自分の知っている相手だということは教えてくれたし、王族とはいえ第八王子で継承順位も低めだからそんなふうに勝手ができるのだと言っていた。 久夜は放っておけばいいと言っていたが、彼の魔法の力を少し体の中に取り込んだあとに初珠を迎えることになったのもあって、すず雪としてはどうしても気になってしまう。 どこか楽しげな口ぶりでため息をついてみせた星映を戸惑いがちに見上げたすず雪に、傍らにいた谷津江がふんと鼻を鳴らす。 「お気に入りの後輩の、その兄にまで手を伸ばそうとしてるとはね。王子様ってのも節操がない」 「好きなものには正直でありたいだけだよ。それを言うなら、君がそんな顔をする相手がいるとは思わなかったな。年下は好みじゃないとばかり。教室内ではいつも私たちをお子様呼ばわりしていたのに」 「三つも下の学年に押し込められたんじゃそう思うのは当然だろが」 言い合う二人は知り合いであるらしい。 ずいぶんと気安い様子に驚いていると、わずかに目線が下になる星映を谷津江は薄く笑みを浮かべて見下ろす。 「歓心を買おうとしているとこ悪いがね、これ、あんたのお兄様が原因」 「ああ、深尋兄上の仮花づとめはつつがなく?」 「手を握っただけで騒ぐわ、ぎりぎりまでこらえてるのを見かねてかまえばど下手とぬかすみつばちの仮花に、どうやればつつがないなんて言葉があてはまるのか教えてもらいたいね」 心底そう思っているのだろう谷津江の冷ややかな声に、星映はあっさりさあねえと首を振る。 「でも君がいちばんマシみたいだけどね」 「マシじゃない。星映っ、てきとーに言うなってのっ」 「……っ」 飛び込んできた新しい声は思いのほか近くから響く。驚いて顔を向ければ、天井からあいた穴からひときわ強く風が吹き込んで、すず雪はけほりと咳き込んだ。 そうしている間に、男の腕に抱えられるような形で空中から姿を見せた青年がひょいっと通路に飛び降りてくる。 配慮に欠けるんだからと星映は呟きながら、すず雪のまわりから埃を払い、手布を差し出した。すず雪は礼を言ってそれを受け取る。 「おれは柚木嶋(ゆきしま)さえいればいいってのに、こいつちっともついてこねえんだもん。だから仕方なく仮花つけてるだけで、万が一用。使うつもりなんかないし」 「わたくしが妖獣狩りなんぞについていけるわけがないでしょうが。あなたのお守りなどしていられません」 おそらくつい先ほどまではこの式典に参加していたのだろう。いかにも文官らしい身支度をした男が眉間のしわを深めながら青年の隣でため息を吐く。 すず雪はその様子に圧倒されながら、交互に二人の顔を見た。 「お守りなんかいらねえし。仮花が余分だって言ってんの」 「深尋(みひろ)。自分がみつばちだと忘れてはいけません。仮花をつけないなら遠出は認められませんよ」 「うるさい。ったく、忘れてねえよ」 鋭く返した言葉は少しだけ沈んだ空気を響かせ、青年は面倒くさそうに唇を尖らせる。 このままひょいっと下町へ出かけてもすんなり馴染みそうな、くだけた空気の持ち主だった。 かんざし職人の若いにいさんが確かこんな雰囲気をしていたようなとぼんやり思うすず雪に青年の視線が向けられて、ああと気づく。 よくよく手入れして使っているのだろう革の胸当てや小物入れはどれも実用一点張りの素っ気なさで、腰に下げた短剣も長年の使用のあとが伺える。 おそらくそれらは彼の手を加えたものなのだろう。自分が使うものを自身でじっくり合わせていくこだわりとその器用さは、職人の気質をどこか感じさせる。 彼のことは、すず雪も知っていた。会ったことはなかったが、彼が深尋だというのなら何度か話題にのぼっていて、いつか会うかも知れないと言われていたのだ。それがこんな形になるとは思いもしなかったが、予想していたよりずっと素敵そうなひとだなと思う。 「星映がいるってことは、あんたが…すず雪? 羽づまの子どもの?」 「……あ、はい。そうです」 あまり足音をたてない歩き方でするりと近づいた深尋は、すず雪に顔を寄せて眉をひそめた。 「あんま羽づまとは似てねえな。まあ、似てなさっぷりはうちもだもんな。おれは深尋。一応、あんたと同じみつばちな。星映とは母違いでさあ。というか、うちの母さん城づとめの下働きで、おれはずっと下町で育ったの。みつばちだって分かるまでは、自分が王族なんぞ思いもしなかったぐらい」 王を父に持つみつばち。それが深尋だった。 羽づまを慕っていて、ときどき屋敷にも遊びに来るのだと。なかなか面白いみつばちだから、すず雪と仲良くなれるといいねと羽づまが笑っていたことを思い出す。 人によっては言いためらうようなことを半ば笑いながらざっくりと話した深尋は、後ろからついてきた男を視線で示した。 「で、こいつがおれの花主。親父の副官とかしちゃってるんだよこれが」 「はじめてお目にかかります、すず雪様。柚木嶋と申します」 「は、はじめまして、柚木嶋さま。すず雪と申します」 すず雪は戸惑いながらも、丁寧に頭を下げ返す。 王家のみつばちに王の近くで働く花主がそろっていれば、もっとかしこまった席での顔合わせになるものだろうが、二人ともあんまりそういったことは気にしていないらしい。 そもそものんびり挨拶ができるような状況でもなかったようなとすず雪が我に返るのと合わせたように獣の鳴き声が耳を震わせ、やんわりと声がかけられる。 「これはこれは。にぎやかな顔ぶれがそろったねえ。それで深尋くん、あれは君が連れてきたのかな?」 「おー、ファリウスじゃん。相変わらず笑ってんのにコワい顔してんな。そーそー、羽づまの息子が出るっていうからさ、承認式に間に合うようにと思ってたんだけど、あいつがどうも厄介で。面倒だから持ってくかと思ったら、いやあ、うっかり手が滑って」 「うっかりで王城まわりの結界を破っちゃいけないよ。直すのはすごく大変なんだからね」 「悪ぃな。おれ、魔法使えねえから力業で破るしかなくて」 どうやら深尋はその王族の血を使って城を覆っていた守りをほどいたのだが、うっかり加減を誤って大穴を開けたらしかった。 すず雪にはどこをどうしたらそうなるかは分からないのだが、まあやっちゃったもんはしかたないわけで、と笑った深尋にその花主である男は眉間にぐっとしわを寄せる。 「放ってひとり逃げれば済む話でしょう」 「えー」 「谷津江もです。このあんぽんたんに従ってやたら大きな魔法を使いましたね。いくら力が強かろうが、使い方がこうでは先が思いやられます」 「自分のみつばちぐらい、自分で面倒みたらいい。それともなんだ、あんたのみつばちは、あんたの代用品が世話するぐらいがちょうどいいってわけ」 いかにも小馬鹿にしたように唇を持ち上げた谷津江に、柚木嶋の冷ややかな視線が突き刺さる。 谷津江がむやみにけんかを売り出すのは昔からで、すず雪は思わず谷津江をじっと見据えた。 「谷津江にいさん。そんなふうに返されては……。立場的に柚木嶋さまのほうが、目上ということになるのでしょう?」 「ああなるとも。いったいどうしてそうなったのか理解に苦しむが、俺の上司さ」 「それではいったん頷いて、その後にゆっくり意見を述べてみてはどうでしょうか。そのほうが少しやわらかくなって、いいと思うのですけれど」 ばかにされたからって、ばかにしかえす必要はないし、顔立ちが整っている谷津江がそれをすると、たとえば同じことをすず雪が言うよりもずっときつく響いてしまう。 尖りあった言葉をやりとりし続けていればそのうち谷津江自身も傷つけてしまいそうで、どうにかならないだろうかと心配するすず雪に谷津江は片眉をひそめる。 「おまえ……、結局意見言ったら同じだろうが」 「……え、そうでしょうか?」 首を傾げたすず雪に谷津江はいくらか毒気が抜けた顔でため息を吐く。 香はると並んでも引けを取らないととのった顔立ちの良さだったために、鳴り方なんぞは建て前で客をとるつもりなのだろうと皮肉を言う者もだいぶいたのだが、お望み通りしてやろうじゃないかと遊ばれて醜聞をまきちらすはめになった顔ぶれも多い。 谷津江の父は貴族だが、母は色里の遊女だ。 はじめは父親が誰かなど分かってなかったし、そうした生まれの谷津江にからんでくる相手はいくらでもいて、どこか繊細さのある顔立ちにも関わらず血の気が多い谷津江はしょっちゅう誰かともめていた。 すず雪が内弟子として入ったときにその世話を香はるから押しつけられたのが谷津江だったのだが、不慣れな上に手間がかかるすず雪に谷津江はだいぶいらだっていたのだろう。 谷津江には魔法の力がありそれもずいぶんと強めだったから、すず雪もみつばちであることを隠しきれず、それが余計に気にくわなかったというのもあるに違いない。何度みつばちのくせにと言われたか分からないし、ひどいこともされた。 けれどそれでも何ごとがあれば助けてくれていたのだ。 その谷津江を父親の家が引き取りたいと言い出して、人の口にのぼるほどになっていた魔法の力の使い方を学ぶ必要があったとはいえ、話を受けたと知ったときにはずいぶん驚いたものだった。 たとえ香はると言い合いになっても、稽古をさぼって他の内弟子たちからいやみを言われようとも、谷津江には確かに鳴り方としての才能があったし、それを生かしていくつもりが本人にだってあったように思う。 今こうして王のそばで働いている者のすぐ下につけるのなら、その力はだいぶ高く評価されているのかもしれなかったが、それでもこんな日が来るとは思ってもみなかった。 (いずれにいさんが鳴り方として独り立ちするのは、当たり前のことだと思っていたけれど) どこかさびしいような、でも決して谷津江が嫌々日々を過ごしているわけではないと知ってほっとするような、不思議な気持ちになる。 そんなすず雪の気持ちを知ってか知らずか、谷津江は少し困ったような顔を浮かべた。 「しかしせっかくの晴れの日に、こんなことになるなんて。おまえは相変わらず手がかかる」 「ごめんね、すず雪。うちの考えなしの兄のせいで」 「なんだよ、星映までー。ちょっと狩りそこねただけじゃん。冠つけてるし、もうだいたいは終わったところだろ」 気づかう谷津江と星映に笑みを返しながら、すず雪は深尋に頷き返す。 「あ、ええ…そうです。ですがこのような大きな妖獣に立ち向かわれるなんて、深尋さまはすごいですね」 「さまなんて付けなくていいよ、同じみつばちなんだし。探さなくても向こうからやってきてくれるから、けっこう便利だぜ。囮体質みたいな感じ? まあちっとやりすぎたよな、ごめんな」 少ししゅんとした深尋を見上げて、すず雪はゆるやかに首を振る。 「いえ、ここにいるのは魔法使いばかりですから、きっと下手に街中にもつれこむよりはずっと良かったと思います」 すず雪は心の底からそう思う。これが華妓たちのいる花街やあるいは大勢のひとであふれかえった下町の通りだとしたら、とてもではないがこんなふうにのんびり話してなどはいられない。 すず雪たちが話している間にも何人かの武官や式典に参加していた魔法使いたちが、それぞれことをおさめるために動いているのが分かるし、王から冠をつけてもらった時点で儀式としては完了している。 「うーん、しかしだいぶ苦戦しているようだねえ。さすがにこうまで大きいのはなかなか行き合わないものだから」 「のんきに言ってくれるなよ。いったいどういう訓練してんだ。ありゃ魔法を吸い込むもんだってのに、ばかすか放ちやがって」 深尋は少しいらだったように唇を噛み、腰の剣を引き抜く。 「谷津江、手伝え」 「断る」 「はぁあ?」 なんで、と聞き返した深尋に谷津江は冷ややかな笑みを返す。 「なんでもなにも、もう本来の花主のもとに戻ったのだから仮花は不要のはず」 「あんたの仕事はおれを助けることだろうが…っ」 「引き受けたのは旅のあいだだけ。もうここはおまえの家だろが」 「……ああいえばこういうっ。じゃ、じゃあ、星映。おにいちゃんに力をかしてくれないっかなーとか、思うわけで」 「兄上、ここの修繕代、いくらかかるとお思いですか? そろそろご自重いただきませんと」 「だーっ。ゆ、柚木嶋っ、なら」 「つねづね言っていることですが、わたくしはあなたの振る舞いを歓迎しているわけでありません。これを契機に妖獣狩りはおやめになってみてはいかがです」 三人から首を振られた深尋が顔を真っ赤にして地団駄を踏む。 どいつもこいつも役に立たねえと叫んだ深尋は、ぎっとそのきつい眼差しをすず雪に向けた。 「すず雪、行こうっ」 「えっ…」 「もうこんなやつら見限ろう。みつばちだけでやっていくんだ。魔法使いなんか、おれらのほうから見捨てる」 力強く言い切った深尋はすず雪の手をとると、わずかに涙ぐんだような目で鼻をすする。 感情の起伏の激しい方だなあと思いながらすず雪は少しだけ困って、けれどその手を振り払う気持ちにもなれずに言葉に迷う。 そんなすず雪の肩にファリウス公はにこやかな顔で手を置いた。 「すず雪ちゃん、あれをしてみたら」 「……ええと、あれ…ですか?」 「ほら、教えてあげていただろう。高鼠蛇(こうそうだ)は確かに魔法の力を飲みこんでしまうんだけどね、いっぺんに強い力を向けられれば話は別だ。唄を使えばそこそこ有効範囲は広がるだろう。三弦琴はないから、あまりうまく音はとれないかもしれないが」 「三弦琴がほしいなら」 谷津江は軽く腕をふると、長細い包みを何もない場所から取り出してみせる。 見覚えのある形にすず雪は胸をふくらませて、それを受け取った。 「すごい、谷津江にいさん。魔法で取り出したのですか?」 「……これでも魔法使いだから」 素直に驚くすず雪に谷津江は少しばかりあきれるような、けれどどこか照れたような素っ気ない口を利く。受け取った包みをひらいて、軽くつま弾いたすず雪は笑みをうかべた。 「にいさんは相変わらず、しめがきつい。わたしには重いぐらいです」 「調弦は任せる。合わせはすず雪のがうまいだろ」 「いい音だね。すず雪はもしかして、【つつみ】が使えるの?」 星映の問いかけにすず雪はほんの少しだけと頷く。 直接触れることなく、みつばちの力を向ける技のひとつだ。ファリウス公はみつばちが用いることが出来る様々な技にも精通していて、すず雪ができそうなものを少しずつ手ほどきしてくれていた。 「ただ、しるしがない相手にはそれほど強くは作用しなくて……」 「しるしね。それ、つけてもらいたいな」 すず雪は少し驚いたように、星映の顔を見上げた。 「あの、でも…。しるしをつけると、わたしと少し…つながってしまいます」 それは仮花の契約を交わすのと少し似ている。 今、彼が誰の花主でもないとしても、後々みつばちを決める際に障りになってしまうかもしれない。そう思っての言葉に、星映は首を振って笑みをうかべた。 「それは願ったりかなったり。このばたばたですっかり申し込み損ねていたけれど、私はすず雪に花を渡したかったんだよ。すず雪の花主候補としてこの花を受け取って欲しいな」 胸もとに挿しっぱなしになっていた花を手にして、星映はその場に片膝をつくとうやうやしくそれを差し出す。 少々芝居がかっているふるまいとはいえ、いかにも優雅な動きでそれをされるとすず雪はどきりとしてしまって、そんな自分に戸惑う。 「……え、ええと…」 少し前までは当たり前に口にしていた受け取りの言葉が出てこない。ファリウス公はやわらかく微笑みながら、ほらと促す。それではっとして頷くと、いつのまにか盆を手にしていたらしい与代がかわりに花を預かってくれた。 その光景をそばで見ていた谷津江が中空で小さく手を振る。 にいさん? と怪訝な顔を向けたすず雪に、どこからともなく姿を見せた花を手にした谷津江が片膝をつく。 「すず。花主をどうしても選ばないといけないというなら、俺にしておけばいい。おまえのことはちっこいころから見てるから、たいていのことならついていける」 「あ、その花、さっき森で摘んでたやつ。薬草集めだとか言っちゃってやっぱあげたいみつばちがいたんじゃ」 「……深尋、少し黙ってなさい」 柚木嶋から冷ややかな眼差しを向けられた深尋は不満げな顔になりながらも口をつぐむ。 すず雪はその姿に少しだけ気持ちが和らいで、ゆっくりと頷きを返した。与代が谷津江からも花を預かる。 「お二人とも、よろしいのですか。わたしがしるしをつけても?」 「もちろん」 「するなら、さっさとしな」 「分かりました。これはあくまでこの場限りのもの。正式なものではありません」 そう断りを入れてからすず雪はわずかに体をかがめて、はじめは星映に、次は谷津江の額に唇をふれさせた。 そうしてからファリウス公が預かってくれていた三弦琴を手にして、促されるままその膝の上に乗る。 仮花としての道筋がとうにできているファリウス公とは、そうしているとゆるやかに力が行き交いはじめて、すず雪のみつばちとしての力を高めてくれるのが分かった。 軽く弦を弾き、息を吸う。 はじめの音はやわらかく、そして包むように。鳴り方として鍛えられたすず雪の唄は広い空間の中でもかききえることなく、心地よいぐらいの大きさでそれぞれのもとへ届きはじめ、魔法の力に融け込んでいく。 「わ……、すげえの」 深尋は敏感に周囲の力の高まりを感じ取って息をのみ、そうしてからにいと唇の端を引き上げた。 「おもしろいじゃん。こりゃおれもがんばらないとな」 「……仕方のない」 ため息を吐いた柚木嶋は深尋を抱き寄せると、その体ごと宙へ飛んだ。 その後に続くように星映と谷津江が咆哮をあげる獣に向かって一気に距離をつめ、それぞれどこからか引き寄せたらしい剣を手にする。 すず雪のしるしがつけられた二人には集中的に音が降り注ぎ、その力の効果が現れていた。信じられないぐらいの力の高まりが体のすみずみまで行き渡り、普段感じたことがないほどの清みきった感覚が彼らに宿る。 深尋はその姿を目の端に捉えながら柚木嶋の腕から飛び降りて細い組紐を素早く放ち、一度首にかけた紐をぐうんと弾みをつけて引っ張ると、体の軽さを利用してふたたび中空へと跳ね上がった。 深尋の持ち味はその身軽さと巧みな紐さばきだ。致命的な一撃を加えるには向かないが、足止めや引きつけ役には適していると言えるだろう。 長い胴体に紐がからまり動きが鈍るのに合わせ、ナイフに結びつけた先端を床に蹴り込ませる。紐から手を離した深尋が柚木嶋の腕に戻るのを見届けて、星映は足もとから、谷津江は頭上からありったけの魔法の力とともに鋭い刃を獣の体に貫き通した。 「若いねえ」 細かな作戦を立てているというよりも力頼みの荒っぽいやり方だが、そろって持ち合わせている魔法力はとびきりの上、今はすず雪の影響によって大きくふくらんだそれは獣の体に取り込まれても尚、余りある。 どおんと音をあげて真っ二つに引き裂かれた胴体はふたたび繋がることはなく、巻き上げられた砂埃が静まる頃には辺りを歓声が包んだ。 |