「鈴鳴るほうへ」



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 きついおしろいの匂いが鼻につく。
 今にも崩れ落ちそうな屋根を見上げて、男はやや面倒そうにその扉を引いた。
 立て付けが悪くささくれが目立つ木の扉は思ったよりもすんなりとひらき、がらんとした部屋の中に外からの陽射しをこぼさせる。
 ゆるく埃が舞い上がったさまが浮かび上がり、その向こうに窓辺でもたれかかった青年の姿が見えた。
「谷津江」
「ああ、香はるか。遅かったじゃないか」
「師匠を呼びつけてその口の利きよう。ぶんなぐられたいのかい」
 不機嫌な香はるの声に谷津江もまたふんと顔をそむけて、好きにすればいいと呟く。どうせもう師弟の縁は切れているだろうと言いたらいらしい。
 しばらく見ないうちにずいぶんと背が伸びたようだった。
 相変わらず線は細いが、鍛えてもいるのだろう。なんでもかんでもにらみつけておけばいいと言うような目つきの鋭さは相変わらずだが、かつてあったようなひ弱さはどこにもない。
 会ったばかりの頃はそれこそ栄養が足りておらず、体は折れそうに細くて顔色も悪い上に、髪はからまりあってひどいことになっていたが、そうなっていてもどこか華を感じさせる顔立ちが妙に凛と目に映ったものだった。
「すず雪と会った」
 唐突な谷津江の言葉に、香はるはそうかと頷く。
 遅かれ早かれ、再会はするだろうとは思っていた。彼らは今、近い世界にいるのだ。
 草履を脱いであがっても足もとが黒くなることがないのを確かめて、香はるは青年のそばに腰を下ろす。
 定期的に掃除の手を入れていたのだろう。かつて谷津江と母とが暮らしていた家は今はがらんとして物ひとつないが、それでもどこか馴染んだ空気に覆われているような気がする。
「おまえさんも魔法使いだから、あれの旦那様になれるというわけか」
「そんなものじゃない」
 ゆるく首を振りながら、花は渡したけれどと呟く。
「すず雪は重ねをするつもりらしい。父親と同じように花主を複数持つのだと」
「なんだい。それが不満なのかい。自分ひとりだけじゃないのがいやだと?」
「そういうわけじゃない」
 むっとしたように唇を曲げた顔を見やって、香はるは口もとをつりあげる。
 そうしていると幼かった頃の面影がのぞくのがおかしい。赤ん坊の頃から、少し唇を尖らせたようにひき結ぶのが谷津江の癖だった。
 はじめて腕に抱かせてもらったときはすぐに壊れてしまいそうで恐ろしかったが、ちゃんとこうやって育っているのだからすごいものだと思う。
 その幼さで香はるの手を焼かせた谷津江とすず雪が。今は香はるの目の届かないところで手を取り合おうとしているのがなんだかとても楽しみで、不思議でもあった。
 ただその道行きはあんまりすんなり進むものでもないのだろう。うまくいけばいいとは思うが、どんなことだって先は分からない。
「もともと花主のほうは、妻も子も持てるんだろ。ならお互いさまだろうが」
「みつばちだって、妻帯はできる。花主とみつばちはあくまでその魔法の力のためにあるものだから」
 とはいえ、実際にはみつばちが家庭を持つことは少ない。
 その力が弱まるのは人それぞれ時期が違うから、その後に親となるみつばちもいないわけではないが、どちらかと言えば子どもを持つときはみつばちとしての血を受け継がせるため、といった形であることが多かった。
 香はるはすず雪を預かることになって一通りみつばちのことは調べたから、それぐらいのことは知っている。
「すず雪のことだ。花主ひとりにみつばちひとりだと、花主にかかる負担も大きい。重ねならそれが分散されるからとでも思ってるんじゃないかい」
「俺ひとりじゃ、役不足だとでも?」
 そんなことを思われるのは心外だとでも言うような顔に、こりゃあ青いなあと思いはしたが口には出さない。
 本人もそれが勝手な言い分だと分かっているのだろう。返事を待つ素振りはなく、すっと表情を消して押し黙る。
 谷津江の母は遊女だった。年季が明けて外へ出ていたが、体を壊していて新しい借金ばかりがかさみ、客をとって食いつなぐというよくある話のひとり。
『香はる、あたしねえ、この子を風呂にいれんのやめるわ』
 いっそ晴れやかなぐらいそう口にした彼女の顔を香はるはいつだってはっきり思い出せる。
 まだ三つになったばかりの谷津江を見て、こりゃいくらになるかと話しはじめるような者たちから、少しでも離したいと。
 内弟子として預かって欲しいと言われたときは、あんたが元気になって、暮らしを建て直してくほうが先だろうし、その方が谷津江にもいいとすぐに話はうけなかったが、それがむずかしいことだと分かって考えを変えた。
 どんなに薄汚れてやせっぽちでも、その手のことには目が肥えた人間をごまかすことはできず、稼ぎ頭になると見込まれていた谷津江を引き取るのは借金のこともあってかなり手こずることだったが、ぎりぎり、少なくとも彼女が生きている間にそれができて良かったと香はるは思っている。
(谷津江自身はもうだいぶ、その水に足をつっこんじまってはいたけど)
 無邪気とはほど遠い目をしていた。
 香はるの内弟子になり、少しずつ鳴り方としての足場をかためていっても、谷津江の中にあったのは人にいいように使われることへの憎しみに近い感情だったのかもしれない。
 そうされるぐらいなら先に利用するまで。
 その何が悪いのだと、文句を言うなら伸ばしてくる手の持ち主に言えとそう告げて、みずから相手を引き寄せるものだから、誰とでも寝るだとか、体ひとつで大金を稼ぐのだとささやかれてますます良くない手合いが目を付け出す。
 すず雪を預かることになったとき谷津江に任せたのは、頭が痛くなる種がふたつあるならまとめておけという、やや投げやりな意図があったりもしたのだが、どうやらそれは、あまりうまい手ではなかったらしい。
 すず雪がみつばちだと気づいたときの谷津江の反応を見たとき、さすがの香はるも少しまずったと思った。
 かつてはみつばちを商品として扱っていたから、色里にはただびとを一時期的にみつばちめいたものを変える薬が術が残されていて、谷津江ははじめっからみつばちがどういうものかを知っていたのだ。
 本物のみつばちはお貴族様の家で大切に扱われて、豪華な服や食べものに囲まれて。そうやってやわらかに飼いごろされていくのは色里と変わらないかもしれないが、やはりどうしたってそこに差はある。
 ずっとくすぶり続けていた過去がどっと押し寄せてきたかのように、谷津江はすず雪にあたりはじめた。
 子どものけんかと言うにはあまりに一方的すぎて、兄弟子たちは今すぐにでも二人を引き離すべきだとさえ言った。
 たぶん、谷津江にしてみれば。
 みつばちというのは嫌な思い出のかたまりで、それをあっさりと、自分はそうだと認めてしまっているすず雪が、受け入れられなかったに違いない。
「引き合わせたばかりの頃は、おまえがすず雪を殺しちまうんじゃとさえ思ったもんだけどねえ」
「あ、あれは、……すず雪があんまりにも間抜けでものを知らなくていっつもふにゃふにゃ笑ってやがるから。でもすず雪はぜんぜん、平気な顔して」
「だからたいしたことじゃなかったなんて言うんじゃないよ。それを舌にのぼらせたおまえを嫌いになっちまう」
「…………」
 すず雪はいつもにこにこしていて穏やかだから、御しやすそうだと思われたりもするのだが、あっさりと他人の思い通りになるような性格ならばひとり鳴り方の世界に飛び込んできたりはしないだろう。
 その辺りのことを谷津江は勘違いしていたし、見くびってもいたに違いない。
「……すず雪は、やわらかすぎるから」
「ありゃあね、柳みたいなもんだよ。おまえよりずっとしたたかだし、丈夫だ。やわらかいもんのほうが、ここぞと言うときはつよいからね」
 大風吹いてる中でもすごい風だとのんびり過ぎ去るのを待てる。そうしたところがあるから、自分で自分を抱えきれなくなったような谷津江相手でも、折れたりねじれたりせずに、いつもどおりでいられるのだろう。
 ただそれでも、傷つかないわけがない。
 それを致命傷にしづらいというだけで、谷津江が振り上げた刃は間違いなくすず雪に傷を負わせていたのだ。たとえそれが目には見えなくても。
「まあ、おまえのへそまがりぶりよりも、すず雪のがんこさの方が上だったかということだろけど」
「へそなんか曲げてない。俺はただ、すず雪がああだから。変に気を張ってもしかたないって分かって」
「変にねえ、そりゃどうだか」
 香はるは鼻ではん、と、こばかにしたように笑う。
「おまえの面倒くさいところはねえ、味方だろうが何だろうが一度牙をむかなきゃ気が済まないとこだよ。そりゃあ世の中敵も多いが、きいきい威嚇してる間に好きなもんを取りこぼしているんじゃとんだお笑いものだろ」
「人のことを言えるくちか。けんかっぱやいのはあんたもだろうが」
「だいじなもんまで傷つけてべそつくのが、おばかだって言ってんだよ」
 鋭く言葉を切ってから香はるは、少し遠くへと視線を流す。
 色恋沙汰はあきるぐらいに繰り返してきたし、歳を重ねた今でもからみついてくるのだから、もうこういうものだと思うしかない。
 谷津江がその顔かたちの良さで値踏みされてきたように、香はるもその辺りのことはまるで平坦じゃなかった。
 香はるや谷津江がその見てくれだけに惹かれて近づいてくる相手は、そんな色香を匂わせているからいけないのだと言う。けれどそんなもの取り合うことさえ無意味な、身勝手な言い分だ。
 そっちの下半身がゆるいだけのことを、押しつけがましく人のせいにしてもらっては困る。
 けれどその言い分はいつだって相手には聞き入れられず、おまけにみつばちともなれば、それで命を繋いでいるんならお互いさまだと言う者だっているだろう。
「谷津江、おまえのその体は、ずっと昔にその辺のどぶに沈んでたっておかしくはないんだ。自分が勝ち取った手柄みたいに、ゆるされたことを大きな口で話すようになったら、すぐに同じことをしでかしまう」
 さんざん、みつばちだからいけないのだと、それそのものがおぞましいのだと、いくつもひどい言葉を投げつけてきた谷津江を、なぜすず雪がゆるしたのかは分からない。
 あらかじめすず雪が谷津江との間に起こるすべてのことにかまうなと先手を打っていなければ、香津木家は谷津江一人葬ることをためらいはしなかっただろう。
 すず雪は、谷津江を守った。八つ当たりなんて可愛い言葉じゃ言い表せないようなことも、何てこともないことのように受け流して。そのせいで、たとえいっとき体を危うくすることになっても。
 おそらく谷津江にとってはとても不本意で、そうして同じだけ恐ろしかったのだろう。
 怒りをのぞかせた目もとのきつさとは裏腹に笑い飛ばそうとしてうまくいかなかった口もとを目にして、まだあの時のことを忘れたわけじゃないらしいと見て取る。
(まあ、忘れようとしてもできっこないか。髪の毛一本だって傷つけたくないもんだと気づいたときには、自分でこっぴどい目に遭わせたあとだってんだから)
 苦い思い出であることには違いはないが、その時のことがあるからこそ気づきもしたのだろう。
 このなんでもやわらかに飲んでしまうような相手が、だいじなんだと。
 だいじにしていい、ものなんだと。
 溜め込んでいた毒気をすっと抜かれてしまったように、あれから谷津江は少しずつ優しい顔をのぞかせるようになった。
 相変わらずの勝手な真似やら牙をむきたがる性格はそのままだが、それでもいくらか人あたりはやわらかになったし、言われたことに耳を貸すようにもなった。
 同じようなことでもすず雪以外に言われるのはがまんならないらしいが、それでも進歩だと言える。
「で? 旦那になりたいって伝えて、ふられでもしたか」
「だから、旦那じゃないって言ってるだろが。それにふられてもない。すず雪のことだから、仕事の相方さがしぐらいの気ぃでいるだろしな」
「はーん。じゃあなんだい。お望み通りの都合がいい相手になろうとでも言うのか。見守れるだけで満足だと、本当ににいさんみたいに思えばいいとでも? 嘘をつけ」
 そんなふうには見えないと、香はるはにやにやと口もとを歪ませた。
「欲しがらせたいってずっと思ってるんだろが。あたしに連絡入れて、すず雪の望みを叶えてやろうするのはいじましいっちゃそうだが、そんなことをしてるようじゃ早晩、すず雪から見限られちまうだろうよ」
「誰もそんなこと言ってないし、頼んでもない。分かったふりで自分の考えを押しつけたがって。あんたが年寄りになって頭が固くなるのは勝手だが、こっちはいつまでも小さなガキじゃないってことを忘れないでもらいたいね」
「そりゃどうだかねえ。ああ情けない。この家の隅で震えてた頃となーんも変わりゃしないんだから」
「……香はる」
 きつく怒りを含んだ谷津江の眼差しを香はるは真っ向から見つめ返す。
 そのどこか暗く燃え上がるような目は馴染みのものだ。
 谷津江は鳴り方として腕を磨くことに魅力は感じていたが、あまりおもしろいものだとも思っていなかったのに違いない。内弟子となったことでそれを香はるから押しつけられたと感じ、嫌がっていたふしがある。
 稽古にも出ないでほっつき歩く谷津江を呼び出せば、聞くに堪えないような言葉で罵られることもあった。その度に香はるもいったいそこまでしてこの子どもを手もとに置いておく必要があるのかと感じもしたが、それでも。
「あたしはねえ、あんたもすず雪も、内弟子にとれて良かった」
「……はあ? なんだよ、急に」
「黙ってお聞きよ。どうせ鳴り方としてのすず雪の場所を作ってやれたらとでも思ってるんだろが。それがおまえのやさしさかい? ゆるしてくれた、すず雪に対する自分なりの誠意だとでも」
「俺を花主にする利点なんて、すず雪にはそれぐらいしかない」
「ああもう、あきれてものが言えないよ」
 ひらきなおってと言うよりは、それ以外はないだろうと当たり前の顔をした谷津江を見て、香はるはぎゅっと眉を寄せた。
 悪知恵なら相当働かせられたりもするのに、まったくもって、なっちゃいない。
 人知れず香はるを呼び出し、話を付けて、すず雪がおそらく恋しがっているだろう鳴り方としての暮らしへの段取りを組む。
 人によってはそういった先回りの好意を微笑ましく受け取るかもしれないが、そんなもの余計なお世話と少なくとも香はるだったら言う。おそらく同じ事をされたら谷津江もそう言うに違いないのに。
(好きなやつを喜ばせてやりたいってだけなんだろけどねえ。目ん玉曇らせてまあ)
 不出来な弟子を持つと苦労するねえと思いながら、香はるは苦笑を浮かべる。
 そういうことならしかたない。すぐ目の前のことも分からないまま闇雲にずぶずぶ足を踏み出しているのを目にしてしまったら、少しだけ手助けしてやるのが師匠というものだろう。
「谷津江、それ、すず雪がひとっことでも言ってたかい。鳴り方に戻りたい、それを手伝って欲しいと?」
「そんなの見てれば分かる」
「見てればねえ。谷津江、おまえは人の心が読めるような魔法も使えるようになったのか。それをすず雪相手に使ってみたと」
「そんな魔法は持ってないし、必要ないね」
「そうかい。そりゃ良かった」
 香はるは息を吐いて、本当にそんな魔法が使えるようになっていたらますます難儀なことになるに違いないなと思う。必要ないと感じているようなら幸いだ。
「たとえあたしが邪魔っけだ出ていけと言ったとして、すんなり言うこと聞くんならいいが、それでもっていうときは気持ちが続く限り居座るだろ。ありゃそういう子だよ。戻りたくなりゃ自分でどうにかしだすだろが」
 そうは思わないかいと水を向ければ、かつての日々を思いだしたのだろう。
 すず雪は自分の望みを叶えるために他人を振り回すことをよしとする性格ではないが、それで黙って願わずじまいにするようなこともしない。
 ちゃんと欲しいものは欲しいと言うし、したいこともする。
「……確かに、なんども根負けしてきた」
 それがとても嬉しいことのように、谷津江はふんわりと頬を笑みにとかす。
 かつてだったら考えられないような優しい顔をうかべられるようになったものだと香はるは感心しながら、少しだけまなじりを細めた。
「何か望むことがあるなら、すず雪はちゃあんと言ってくるだろ。余計な世話してる暇があんなら、少しでもそばにいてやりな」
「香はるは、すず雪の近くに俺がいてもいいって…そう、思うわけ」
「あたしはおまえさんとすず雪の師匠だ。……たとえ名目は弟子じゃなくなったとしても、それは変わりゃしない。師匠としてなんでもかんでも導いてやるほど親切じゃあないが、かといっていちいち口を挟むような野暮もしたくないね」
 まあ話っくらいなら、いつだって聞いてやるけどさ、と続けた香はるに、谷津江は小さく頷く。
 だいぶほっとしたのだろう。らしくない気づかいをしようとしたものだから、珍しく緊張していたに違いない。
 だらりと床に体を転がして、谷津江はそれにしてもと呟く。
「あんたって、ちっとも老けねえな。若い男でも喰ってんの」
 足りないってんなら良い相手を紹介してやろうかとえらそうに唇をつり上げた顔を香はるはあでやかな微笑みで見下ろす。
 久しぶりに香はるはもと内弟子の頭を扇子ではたき、いい音を鳴らしてやったのだった。



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