「鈴鳴るほうへ」



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「おはようございます、兄さま」
 今日はよいお天気です、と、にこやかに笑む久夜の横顔が朝陽に照らされて、白い頬がやわらかに輝く。
 その姿をぼんやりと追いかけながら、すず雪は真新しい匂いがする枕の上で寝返りを打った。
 父の部屋とはちょうど対角にあって、新しく建てられたばかりの離れとも廊下で繋がった自分の部屋。すず雪はずっと父の部屋で暮らしていたが、今はここで寝起きするようにしていた。
 私室から繋がった離れは、たぶんそのひとつで家族が暮らす家として通用するだろう。それぐらいは大きくて広いし、必要なものは大抵そろっていた。
 ただそこにいたってとりたててすることもないので、母屋の中にある私室を主な居所にしていて、そこまで毎朝のように久夜が起こしに来てくれる。
 窓を薄く開けて風を入れた久夜が、車輪がついた小物台を引いてその上に手際よく用意してきた道具を並べていくのを、すず雪は少しだけ億劫そうな顔で伺う。
「久夜……、また、それ……」
「兄さま。これは大切なお体のことなんですよ」
「でも、久夜、早起きしてここまで来るの…大変だろうし……あんまり、それ好きじゃないし……」
 楽しそうな久夜を見れば、いやいや足を運んでいるわけではないことは分かるが、それにしたってまめすぎると思う。
 久夜は家を継ぐ身でもあるから、けっこう忙しいはずだった。
 けれどその間を縫うようにして、すず雪の身のまわりのことに気を配り、肌を洗う石けんの手配から爪を磨くことまでそれはもう熱心だ。
 珠守というのは健康管理だけでなく、その身のまわりの一切を任されている。
 衣食住すべてにこと細かに目を配り、みつばちがはらんだ珠の管理も彼らにかかっているから、本当にみつばちのすべてを担っているといってもいい。
 みつばちがはらむ蜜珠はかなり貴重な魔法石の一種としても、あるいは飾りにあしらう貴石としても価値があり、珠守たちは蜜珠の取り引きについてはかなり気をつかう。
 その辺りは花果院のしきりにもなるので珠守の担うところは少なくなるとはいえ、時にはたった一粒でも一財産を築いてしまえるほどのものだったから、適当には扱えない。
 すず雪としては自分の中でつくられるものに関してはできるだけ体が楽で負担が少なければいいと思っている程度だったから、良質であることとか見映えだとかはわりとどうだって良く、気にしなくてもいいのでないかと思う。
 ただそれは体調や体質、そういったものがからまずにはいられない。いい蜜珠ができるということはみつばちとして安定しているということだから、珠守である久夜がそれをないがしろにするわけがないのだ。
 促されてややしぶしぶと釦を外していくと、久夜はそんな兄を気づかうように話しかけて笑みをうかばせる。
 薬液にひたされた手がするりと体の中にはいるのを、すず雪は少しだけ眉を寄せて我慢した。
「大丈夫、いい形で育まれています。外殻もやわらかで傷ひとつない」
「……、ッ」
 小さな珠が久夜の手のひらによって包み込まれると、わずかに熱を持つ。
 嫌がって身じろいだ体を久夜はもう片方の手を使ってやんわりと、けれど確実に押さえ込みながら、用意してきた長い針を手際よく珠のそばに通して術円をひらいた。
 体の中で直に魔法の力がうごめくのが分かり、じわりと汗がにじむ。正直言って、今すぐにだってやめてほしいし、早く手を抜いてもらいたくてたまらない。
 痛みと、不快感と。
 胃を揺らされるような少しの吐き気。
 すず雪の表情に気づいた久夜は慰めるように兄の髪を撫でる。
「ごめんなさい、気持ちよくないですよね。でも兄さま、あともうちょっとだけ我慢してくださいね」
「ひ、さ……、はやく……」
「きれいにとけて、しみ込んでいくのを待ちましょう。ね、兄さま」
 言うことを聞いてくれないのはいつもで、そういうときは、たとえ弟であっても紛れもなく珠守なんだと思う。
 みつばちを誰よりも大切にしてくれて守ってくれても、必要だと思えば苦痛を与えるようなことでもためらわない。そうであるからこそ珠守は珠守たり得た。
 ただそうは分かっていても弟相手だから、すず雪は文句も言いたいし、兄らしく見栄も張りたい。
 すず雪のそうした気持ちの揺れをどこか見透かしながら、久夜は予定していたことを終えると満足げに息を吐く。
「はい、おしまいです」
「……まだ抜かないの」
「ええ、まだだめです。少し大きくすることを覚えないと、体力だってけずられてしまいます」
 すず雪にしてみればこの施術を終わりにしてもらえた方がずっとありがたい。
 痛みがなくて小さなものなら体の中に置いたままのほうが結果的には楽だと聞くものの、あるのとないのとではやっぱり感覚的にも違うし、まだなんとなくすず雪は珠そのものの存在に慣れていないから、それをかまわれることにためらいがある。
 ため息を吐きながらも、久夜がそうしたほうがいいと判断したことだったし、一応同意したことではあるから、それ以上の文句は飲みこむ。
 久夜はどこかしょんぼりしている兄を抱き起こして、今日はおでかけされるんでしょうと口をひらきながら着替えを差し出す。
「何を着ていかれますか?」
「特には考えてないけれど……」
 手早く残っていた夜着を脱いで、部屋着に袖を通す。
「これじゃ、だめ……なんだろうね」
「まあ、そうですね。そちらもお似合いではありますけれど」
 すず雪の衣服はどれも真新しいものばかりだ。
 別にそのまま外に出かけても何ら問題はないが、これから赴く場にはそぐわないだろうことはすず雪にも判断がつく。
「それなら、朱色に陽射し色の糸で新しい帯をあつらえましたでしょう? 今日はあれを主に合わせてもかまいませんか」
「かまわないけれど、少し派手じゃないのかな」
 羽づまにはもともと着道楽なところがあるが、近頃はすず雪の身につけるものを色々とそろえるのが楽しいようで日に日に手持ちの服が増えていく。久夜が言う帯はそのひとつだ。
 うっすらと黄色みを帯びた陽射し色は金よりやわらかだが、丹念に糸を重ねているから光を束ねたみたいに明るく輝く。
 伝統模様のひとつで渦を巻いた風を模しており、晴れ着とまではいかないとはいえちょっとしたおでかけに使うには華やかすぎるような気がしてすず雪はためらう。
「みつばちの集まりに行くだけだもの。もっと落ち着いた身支度でいい気がするけれど」
「そんなことはありません。よくお似合いですし、やや華美なぐらいの装いのほうが、ああいったところではすんなりはまると思います」
 そういうものなのかなと首を傾げながら、はじめて行く場所だから誰かの意見を聞いておいた方が間違いがないかもしれないと思い直す。
 すず雪が今日行くことにしているのは、みつばちたちが定期的に行っている集まりのひとつで、承認式を終えたみつばちなら誰だって参加していいことになっているものだ。
 今回はすず雪が承認式を終えてからはじめて行われる集まりだから是非にと呼ばれていて、取り立てて断る理由もないから行くと返している。
 もちろん、みつばちとして生まれ育ち、全員が顔見知りで幼馴染みのようなところに幼い頃に数回顔を見せただけのすず雪が行っても、まるきりよそ者扱いだろう。
 おまけに仮とはいえ誰もが花主になってほしいと思っていた相手を何の断りもなく、たとえそんな断りは必要なくとも、横から持っていってしまったのだと感じているなら、あんまり居心地は良くないかもしれなかったが、どんなところなんだろうという興味はあった。
 屋敷の中にいてもやることはたくさんあるし、飽きることはあまりない。ただ、そうは言っても閉じこもっていてばかりでは息も詰まるし、行くことも行かないことも好き選んでいいなら一度ぐらいは行ってみたい気持ちが勝る。
「ああいうところはあんまり兄さまの好みに合うとは思えませんが、お止めすることのほどではないですし。僕は兄さま以外のみつばちなんてわりとどうでもいいですから、他のみつばちがどういったつもりであっても兄さまさえ良ければ良いですし」
「それは……珠守として…どうだろう…」
 外では言わない方がいいんじゃないかなあそれは、と心配を覚えたが、おそらくは平気なのだろう。
 もともと久夜が珠守であるのを認められているのは、すず雪のみを相手にしているからといった面もある。その技能を誰か別のみつばち相手にはふるわないから、珠守でいられた。
 そうしたことが条件で、たとえみつばち側から望まれてもすず雪以外の珠守になるつもりは久夜にはまったくなく、花果院側も認めていない。
「わたしはこういったことには疎いし、久夜に任せるよ」
「はい、ありがとうございます。兄さま」
 もう少し髪が伸びたら、色々とためしたい飾りもあるんですとにこやかに告げられて、その辺りは要相談だなあとなかなか切ってもらえない髪をすず雪は少しだけ気にする。
 みつばちは髪が長い者も多いが、すず雪は結えるほど伸ばしたことはなく、あんまりうまく想像もできなかった。




 みつばちたちが集まりに使うのは花庭近くにある小さな建物で、冬灯りの宮と呼ばれているらしい。
 冬空を思わせるような薄い青色の屋根に丸くて白い壁がなんとも可愛らしい見映えで、雪でつくられたような清んだ空気にあたたかみがただよう。
 花果院の敷地内にあるとはいえ、みつばちたちが息抜きに使えるようにと花師たちが姿を見せることはなく、みつばちが招くことによって花主やそうでない者も招き入れることができるようだった。
 そんな冬灯りの宮は今は遠く、屋根の端しかのぞかない。いったいどこをどう歩いたか、あんまりうまく思い出せないのが悩ましかった。
(これは、置き去りにされたなあ……)
 そこにいてくださいねと告げたみつばちたちの楽しそうな顔を思い出して、すず雪はすぐそばに広がる小さな中庭へと視線を向ける。
 もう半時ぐらいここにいるのだが、彼らが戻ってくる気配は全くない。
 ぽつんと取り残された渡り廊下の真ん中で、すず雪は小さく息を吐く。
 そばには小川と池があり、大きな木が豊かな葉を生い茂らせて日陰をつくっていた。
 薄い布を重ねた長い裾が風をはらんでふくらむのが心地いい。もしここで昼寝をしたら、ぐっすり眠れそうな気がする。
 すず雪が集まりに顔をのぞかせると、その到着を待ちかねたように取り囲んできたみつばちたちは、にこやかに笑みを浮かべあった。
「ようこそおいでくださいました」
「ずっとお待ちしておりましたのよ」
「わたくしたちは、ここでよくお茶会をするんですの」
「花庭で過ごす幼い子たちを招いたり、魔法使いのたまごたちに来ていただくこともあるんですよ」
 ここは慣れない場所でしょうからと案内役を引き受けてくれたみつばちたちは、しきりに話しかけながらすず雪を囲んで愛想のいい顔をうかべあう。
「すず雪様はあの羽づま様のお子様でいらっしゃるから、こんなところにはご興味ないかも知れませんけれど」
「ずっとお屋敷の中で閉じこもっておいでだったんですものね。なんにも知らないでいてもそれはしかたのないこと」
「わたくしたちだって、それを咎めるつもりはないんですよ」
「すず雪様のために、色んなことを教えてさしあげます」
 すず雪は彼らと同じようににこにこと笑って、はあ、とのんびりとした相づちを返す。
 年上でよくは知らないみつばちたちに囲まれれば、身内しか知らないだろうすず雪であればすぐ怯えるに違いないと思っていた彼らは、いっそのんきとも言えるような反応に少しだけ拍子抜けしたようだったが、これはたやすい、と感じもしたらしい。
 楽しげな顔ですず雪にちくりちくりと釘を刺す。
 みつばちたちには色々決まり事があるとか、良い振る舞いというものが何かとか、振られる話はそういったものがほとんどだ。
 彼らの言葉の端々に散りばめられたいやみを感じ取れないわけではなかったが、顔色を変えて応じなければいけないほどあからさまでもない。
 すず雪はどうしたものかと思いながらも右から左へ聞き流し、様子を伺っていた。
 そのうちに彼らが連れてきてくれた木製のテーブルを見て、ああこれは魔法がかかっているんだなあと見て取る。
 花が盛りの頃ならよいいっそう映えるに違いない。磨き抜かれたあめ色のテーブルは雨風の中にさらされてきたはずなのにささくれひとつないし、簡単に水拭きすればすぐにだって使えるように整えられている。
 内弟子として過ごしている間ずっと、廊下の水拭きから柱や窓の桟にいたるまできっちり清めることを日課にしていたものだから、ついつい掃除のことに気がまわってしまうのはすず雪のくせだ。
 あちらこちら連れ回す形で案内を済ませた彼らは、お茶の支度を教えてくれるつもりらしかった。
「すず雪様はなんにもご存じでないから。それではちょっと恥ずかしい思いもされるでしょう?」
「こんな手間、本当はとらないんですよ。だってみなさん、できることなんですもの」
「でも安心なさって。わたくしたちの言うとおりにすればいいのですから」
 見下したような眼差しをちらちらと浮かべ合う彼らを見やり、はいと頷く。
 すず雪がこの集まりのことや冬灯りの宮のことを何にも知らないのは事実だから、他のみつばちなら当たり前のようにできることができないのは彼らの言うとおりである。
 だからといって恥ずかしいとは感じるかと言えば別だが、すず雪としては単純にお茶の支度に興味があった。それはどうも華妓が身につけるようなものとは違う作法に基づいているから、すず雪には見慣れない。
「よく見ていてくださいな」
 彼らの一人が必要な道具がすべてそろった台をそばまで押してきて、鍵をひらく。
 どうやらここにいる中ではいちばん立場が強いらしいひとりがやわらかに口もとをほころばせて手を振ると、彼の取り巻きたちがテーブルクロスをふんわりと広げ、あらかじめ並べておくのだろう食器や中央に据える飾りまであっという間にすべてを用意し終えてしまう。
 よく見るもない。
 複数人がかりで、おまけに手元はすず雪からは見えないようにしながらの早業である。
 すず雪もさすがに目を丸くした。
「あんまり早くて、とても追いきれませんでした」
「あらまあ、ご冗談を」
「すぐ目の前でごらんになっていたでしょう?」
「さあ、次はすず雪様の番です。同じことをしてくださいませ」
 すず雪が手順をひとつも確認できなかったことは分かっているはずだ。
 彼らは目を見合わせて、動かないすず雪をいかにも心配そうにのぞきこむ。
「どうされましたの。これくらいもこなせないなんていうことはありませんよね」
「そうそう、殿下のみつばちになろうというような方なんですもの」
「いくら力がすべての東絃家の方だって、おもてなしひとつできないみつばちでは困るでしょう」
 何を言われても、見えていたのは動く背中だけである。
 もう一度見本を見せて欲しいと告げれば、彼らはあなたであればできるでしょうと言ってとりあわない。
 しかたなく、すず雪はすべて片付けられてしまったテーブルを見下ろして、ひとつずつそれっぽく並べてみたが、角度が違うだとか、順序が違うだとか、繰り返しやり直しを求められてしまう。
 その度にひそひそと目配せされて小さな笑い声が広がるのはどう見たって好意的なものではなかったが、すず雪は大人しく食器を並べ続けた。
 何にも分からないままはじめた謎解きだって、構い続けていれば少しだけ道筋が見えてきたりする。繰り返しているうちに当たりを踏むこともあるだろうし、すず雪が覚えている作法とまったくかすりもしないほど違うとも思えない。
 すず雪がまじめにそれをこなして顔色も変えないものだから彼らはつまらなくなってきたらしい。
 そんなふうに誰ももてなすことがないお茶の支度を続けたあと、ひと目がつかないところまで連れ出してそこに置き去りにすることにしたらしいのだが、さすがにこれには戸惑ってしまった。
 すず雪は残念ながら、ひとりきりにされることに不安を覚えるようなみつばちではなかったなかったので、取り残されてもただぼんやり佇むだけである。
(他の方だったら居たたまれなくなるものなのかもしれないなあ。いつも誰かがそばにいるものだもの)
 安全のためということもあるし、みつばちというのは大切にされるのが当たり前だから、声が届くところに誰ひとりないといったことなどあまりないだろう。
 珠守もいないし、召使いたちも通らない。
 いくら周りに人がいたって、自分とは関わりがない相手であればいてもいなくても同じだが、こんなふうにあからさまにのけ者扱いされれば心細くなるものだろう。
(冬灯りの宮は、みつばちがひとりきりを知る、数少ない場所なのかも)
 すず雪は少しだけ笑みをこぼす。
 華妓たちが聞けばなんて他愛ないと言うかもしれないが、彼らの気持ちをたどればわずかずつでも身近なものに変わる気がする。
 そもそもが意外だった。ここはただ羽を伸ばせる場所なのだと思っていたが、考えていたよりも奥が深い。
 客を招いてもみつばちたちはただ座っているだけかと思っていた。
 貴族の主人が召使いたちにすべてを任せて何もしないのはよくあることだし、それが礼儀にかなったふるまいだと考られているから、同じように考えていた。
 けれどそうではないらしい。
 さすがに使い終わった茶器を洗って片付ける、まではさすがにしないようだが、少なくともこのみつばちたちだけが主人となり得る場所では、彼らは自分たちの手や足を使ってできることをしたいと考えていて、ここであればそれができる。
 それはなんとなく好ましく感じられることだった。
 まあ、寄ってたかってすず雪ひとりにいじわるをしようというのは、あんまり性格がいいことでもなかったが、そういうのはみつばちだからという話ではないだろうし、彼らとすず雪は変わらないし、華妓たちとも同じ、そういうものだという思いがする。
 庭を眺めていたすず雪は強く吹き付けてきた風に目を細めて、大きくもったりした雲が陽射しを遮るのを眩げに見上げた。
(明日辺りから、天気が崩れるかもしれないなあ……)
 雨がひとしきり続く季節があって、ちょうど今がその頃だ。最近は晴れた日も多かったが、風が妙に湿気っているし、そのうち雨雲が顔をのぞかせるだろう。
 ずっとここにいてもしかたないので、見上げていた眼差しを戻したすず雪は適当に歩きだす。
 もしかすれば後でなぜ待っていなかったと言われるかもしれないが、そのときはそのときだった。
 すず雪は廊下を進みながら、思ったよりもずっと入り組んだ建物にため息を吐く。
 実のところすず雪はあんまり方向感覚が良い方ではなくて、見慣れない似た廊下が続くとどこから来たのだかさっぱり分からなくなってきてしまう。
 この辺り一帯は花果院だけではなく国の重要な建物が繋がっているから、あんまりむやみに動きまわると別の管轄下にある場所へと出かねない。そう分かってはいるのだが、すず雪としては冬灯りの宮があるだろう方向へ信じて進むほかなく、けれど窓もないような屋内に入ってしまうとまったく場所がつかめなかった。
 少しだけ困りだしたところで向こうから誰かが歩いてくるのが見えて、すず雪は胸を撫で下ろす。
 これでやっとここがどこか尋ねることができると思ったが、相手が花師でもみつばちでもないと気づいた。何となくいけない、と感じて身が強ばり、すず雪は意識して相手の姿をとらえる。下手に見ないふりをしてしまうとその後にうまく動けなくなってしまうから、それは避けた。
「おやまあ、こんなところにみつばちが。珍しいなあ」
 そう声をあげたひとりは胸もとに幾つも飾りを付けたごてごてしい格好で、透きとおった釦のひとつひとつが宝石の粒らしい。
 あんまり眩すぎてすず雪は言葉を失う。こんな格好ではすぐに目を眩んでしまいそうなものだったし、たいそう重そうだ。
 二十代半ばぐらいだろう男はぶしつけなぐらいすず雪をじろじろと見て、ひょろりと高い背をかがめながら小さく唇をとがらせる。
「どうかなさいましたか、……おや」
 彼よりもだいぶ年上だろう男たち四、五人がそろってはすず雪のほうに目をとめて、ひとりがどうしたんだい、と一歩先にでる。
「道に迷ったのかな。ここは花果院の領域からは外れてるんだが」
「花師はどうしたんだ。みつばちをひとりにするなど怠慢ではないのか」
「ん、君は香津木家のみつばちだろう。風一紋の帯なんて使って、たいそうだねえ。これだけのものを織れる職人はもう数が少ないってのに、羽づまばかりがいい思いをして」
 幼い子どもに接するように腰をかがめようとしたひとりを押しのけ、痩せぎすの男が上から下までねばつく視線をはりつかせる。
 そのまま帯に触れようとした男から、すず雪はやわらかに身を引く。
 どうやら花果院の敷地からはみだして、隣接している別の建物まで出てきてしまったらしいと知る。花果院にみつばちでない者が勝手に足を踏み入れることは出来ないが、逆はあり得てしまう。
 巡らされた守りから抜け出すと花師たちがすぐに気づいて飛んでくるものだが、昔からすず雪は花果院に張られた守りとは相性が悪いから、うまく働かなかったのかもしれない。
 そうしたことに思い至りはしたものの、ここがどこで、彼らがどういった相手なのかまだ分からないうちはうかつな真似が出来ない。
 じっと口を閉ざしたままのすず雪に、宝石まみれの男が小さく眉をあげる。
「これ、いい帯なの? 光る石を何ひとつつけてないのに」
「ええ、確かにそうなんですが。この、糸の重なりがむずかしいんですよ」
「織り方が珍しいぐらいだろうが。価値などたかが知れている」
 得意げに織物の歴史から語ろうとした男を、はじめに押しのけられた男がどうでもいいことのように鼻で笑う。
 丸い顔にこぢんまりと目鼻が並んだような男で、どことなく小芋をつなげたようなころころとした体つきだ。
 男はひとしきり彼が身につけている宝石をつけた服の方がずっと素晴らしいものだと褒めちぎってから、改めてというようにすず雪に目に向ける。
「美しい石と言えば、このみつばちがはらんだ初珠もなかなかなものでしたよ。星透珠でしてね、あれほどのものここ最近、なかなか見ません」
「へえ、そうなんだ。きれいな珠なんだろうね」
「それはもう、しばらく話題になったほどです。初珠でなければぜひ手に入れたいと思うほどで」
「初珠は冠につけないといけないもんね。じゃあ、次のをいっぱいはらんでもらわなくちゃ。ねえ、花主は誰? 君の珠、買い取りたいんだけど」
 楽しそうに顔をのぞきこまれて、すず雪はゆるく首を振る。
 花主に言えば渡してもらえると、そう彼が考えられるのならば相当高い役職にあるか資産があるかだろう。蜜珠はそうそう簡単に手に入るものではないからだ。
 彼の言葉に男たちは顔を見合わせる。
「香津木家のみつばちに花主はいませんよ。まだ仮だったはずです」
「それも重ねをしようとね。良質の珠をはらんで我々に提供してもらうためには、あんまりいい選択とは言えません。重ねやら巡りやらは珠が安定しない」
「そうなの。蜜珠は繊細だもんねえ。花主なんて面倒なこといちいち引き受けてられないけど、ぼくはみつばち好きだよ。あんなに素敵な珠をつくれるんだもの」
「君、良きみつばちでありたいなら花主は慎重に選ばないと。せっかくいい珠をはらめるんだからね」
「……っ」
 とっさに返そうとした言葉が喉にからんだようにうまくでてこない。
 彼らがどこか楽しげに話すのをすず雪はややぼうぜん目にしながら、唇を噛んだ。
 珠をはらむためだけのものに気づかいはいらないと言われているようだった。
 みつばち本人の前でみつばちがはらむ珠をより良いものにできる花主を選べと、そういう話をするのだから、彼らにとって大事なのは蜜珠であってそれ以外のことはどうだっていいと分かる。
 彼らにとっては、すず雪がどういうみつばちなのだとか何を考えているかとかそういったことはまるで気にする必要がない。
 すず雪は羽づまの花主たちに大切にされてきたし、みつばちでありながらも、みつばちであることとは遠かった。
 とっさにわきおこったのは恐れで、床に吸い付けられたように足が動かなくなる。
 軽く受け流せばいいと分かっているのにできない。それは何よりひどくすず雪を焦らせ、打ちのめした。
 蜜珠などどうだっていい、ただ体を保たせるためにできる副産物に過ぎない。
 けれどそれを彼らに差し出すことは何かひどく自分を傷つけるようなことではないかという思いが過ぎる。そんなことはないはずだと思うのに、うまく言葉が出てこなかった。
「もしかして今、はらんでない? それ、ほしいな」
「……い、」
 いやだと告げかけた言葉をすず雪は飲んだ。
 それを口にしたら、逆に今、体の中に持っているものがあると彼に教えてしまう。
 迷ったのは一瞬だったが言い直す必要はなくなった。すず雪の前を明るい金色がふさいだからだ。
「花を渡しに来もしないくせに、困ったひと。もう他のみつばちに目移りしてるの?」
「ナナセル…っ、かわいい、ナーナ。そんなこと言わないでよ。楽しみにしてるんだよ。ぼく」
「ボクのなんて、たいしたものじゃない。蜜珠よりも宝石がいいって、あなたなら言うんじゃないのかな」
「ナーナのは素敵だよ。きらきらしているじゃないか」
 淡い金色の髪がふんわりと揺れて、華やかな笑みが広がる。
 それは男が身につけた宝石よりずっとささやかなもののはずなのに、周りの目を惹きつけ、眩さをはじけさせるようだった。
「そう? ボクのが好き?」
「もちろんだよ」
「あなたさまの蜜珠はどんなものよりも美しいですとも」
「本当に、どんな宝石もかすんでしまいます」
「それにしても今日もたいへん可愛らしいですなあ」
 男たちはそろってやに下がったように少年を見つめ、口々に機嫌をとろうと言葉を重ねたが、それを彼は笑顔でかわす。
 すず雪は不意にあらわれた少年を伺うように見つめたが、彼からは視線が返ることはない。ただ後ろ姿だけがはっきりと目の前にある。
「来い。ここはナナセルに任せとけばいいから」
 周りからもすっかり忘れ去られたような形になったすず雪の腕を、深い緑色の衣服を身につけた青年が引く。
 つくりはすず雪が身につけているものと変わらないが、裾があまり広がらないようにしているらしい。どことなくすっきりとして、まるでかたいつぼみのような印象を抱かせた。
 左目の目もとにぽつんとひとつ黒子があるのが目にとまる。理知的な顔立ちはどこかあきれを含んでナナセルを見やり、彼はすず雪が頷く前にさっさと歩き出してしまう。
 すず雪は取り残される少年と歩き出した青年とを交互に見てから、ここに残っていてもどうしようもないと気づいて、遠ざかっていく背中を追いかけた。



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