「鈴鳴るほうへ」



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 目の裏に染みこむような紅い布が、灯りに照らし出されて淡く揺れる。
 ひっそりと静まりかえった屋敷の中で、甘い匂いが薄く広がった。
 唇にあてられたかたさにゆるくひらいて、すず雪はひとさじの蜜を含む。
「どう、分かるかな」
 問いかけに首を傾ける。
 瞼を閉ざしているから、相手の顔は見えない。けれどきっと、いつもどおりやさしい顔をしているのだろう。耳朶を揺らす声はどこかくすぐったい響きを伴って、すず雪を包み込んでいく。
「あの、……ジッヘルさま。わたしにはただ甘いとしか」
「うーん、むずかしいねえ。じゃあ、これはどうだろう」
 もうひとさじ、口もとにあてがわれる。
 すず雪はそれを舐めて、そうっと喉を動かした。
 視界をふさいでいるぶん、匂いや味に少しだけ鋭くなっている気はするものの、どの蜜もあまり違いが分からない。
「すみません。せっかく用意してくださったのに」
「いいんだよ。すず雪ちゃんの好みが知りたかっただけだからね。何か良さそうなのを見つけたら、また手に入れてみよう」
 ファリウス公ジッヘルはもういいよと言って、すず雪の瞼をひらかせて、並べていた蜜を片付けて腕の中に引き寄せた。
 舌の奥に少しだけ甘みを残す金色の雫。それは力を交わしやすくするための蜜で、ものによって栄養を補ったり媚薬のような効果を持つものもある。
 せっかくならその味も楽しめればいいと色々違うものを取りそろえてもらったが、すず雪にはどれも同じように感じて、嫌いではないけれど、もっとと欲しくなるほどでもない。
「ああ、少し背が伸びたね」
「……だと良いのですけれど。久夜のほうがいかにも育ち盛りで」
 父である羽づまはわりと背が高いし、今から伸びはじめる可能性があるとはいえ、しょっちゅう似ていると言われる母が小柄だから、どちらに似るかは微妙なところだろう。
 弟の久夜は食欲も旺盛で、細く見えてもけっこう鍛えているようですず雪ぐらいなら楽々と抱き上げる。おそらくそのうちぐんと背も高くなって、体つきも立派になるのだろう。
 小食だとは言われ続けてきたが、香はるのもとにいる内弟子たちはだいぶ年上だし、それほど大差ないというのが実感だった。それが歳が近い久夜が食べる量を目の当たりにして、よく食べる、というのはこういうものなのだと思ったものである。すず雪の一日分が久夜の一食分ではないかと思うぐらいに違うのだから驚きだった。
「……あの、ジッヘルさま」
 すず雪はためらいがちに眼差しを上向ける。
 わずかに銀色を含んだような灰色の瞳はどこまでもやわらかくて、じっと見つめられると気持ちがなだらかになっていくようだった。
 はじめて会ったときから、すず雪にとってはみつばちの色々なことを教えてくれる先生であり、そばにいるとほっと落ち着いていく。
 うんと年上のこの人に甘えてしまっているのだ、と思う。そしてそれをゆるしてもらっている。
「お願いをきいてくださって……、ありがとうございます」
「ああ、とてもうれしかったよ。かわいいすず雪ちゃんに、あんなお願いをされるとは思わなくてね。むしろこんなのがひとり混ざっていてもいいのかと心配になってしまうぐらいだ」
「教わりたいことがまだ、たくさんあるんです。でもジッヘルさまは特定の方を選んだりはされないと聞いていたから」
 仮の花主にはなるが、正式な花主にはならない。
 少なくともここしばらくはずっとそうであったと教わっていたから、すず雪は断られるだろうと思いながら話を持ちかけた。
 もともとファリウス公との約束は花主が決まるまで、それまで仮花でいてもらうということにはなっていたので、現段階での継続には問題がない。けれども今のすず雪の立場では、それをしてしまうと重ねの花主のひとりという見方をされてしまう。
 周りがそう捉えたからといって気にせず、仮は仮だと割り切ってもいいが、それはお互いにとってもあまり良くないことだった。
 正式な話に移る段階でやめると、すず雪はみつばちとして力不足だと言われかねないし、ファリウス公は若いみつばちをもてあそんだのだという話になるかもしれなかった。それならはじめから花主候補の枠から外れていた方がいい。
「確かにずっと花主になるのは断ってきた。その方がいいと考えていたことは確かなんだけれどね、そうでなければと思っていたわけでもないんだよ」
 みつばちとしての務めが果たせなくなった時点で花主は他のみつばちが持てるし、みつばちたちはそうと分かれば自ら花主のもとを離れていくのがほとんどだ。
 力を失ったみつばちたちは国の保護からは外れるが、そこからまた務めを終えたみつばちのための様々な取り決めの中に拾い上げられるから、今日からお好きにどうぞと放り出されるわけではない。
 それでも、それをありがたいと思うか窮屈だと思うかは人それぞれだろうし、この先、いったい何をどうすればいいのかと戸惑うみつばちも少なくはなく、ファリウス公はそんなみつばちのひとときの慰めとなってきた。
 ただたんに気楽だからだろうとか、そんなやさしさは為にならないだろうとか、そういうふうに語る者もいる。
 すず雪に分かるのは、そんなふうにして関わりを持ってきたみつばちたちから、お祝いの言葉をもらったこと。それは何よりすず雪の背を押したし、ファリウス公ジッヘルがこれまで仮花として培ってきたものを表しているのではないかと、そう思ったりする。
「ずるくて、ひどいところもあって、わがままなところも大いにあるから、厄介だろうけれど。遠慮せずにつかまえておきなさいと、お手紙をいただきました」
 すず雪の話にジッヘルは目を大きくひらいて、幾度か瞬いたあと、困ったものだというように笑み混じりの息を吐く。
「色々と悪行がつらねられていそうだねえ」
「そんなことは。……何か思い当たる節が?」
「おや、これはしてやられてしまったかな」
 そういうわけでは、と笑みを返して、すず雪は何となく手持ちぶさたな腕を伸ばすとそばにあった枕を膝の上に乗せて軽く抱え込む。
 良かれと思ってのことでも後で思い返してみれば失敗だったと知ることもあるし、すず雪だってやってしまったなあと思うことのひとつやふたつ、どころか、探し出せば切りがないぐらいにはある。
 年上のジッヘルならば、すず雪よりもそれだけ多く過ぎ去った時間があり、ふれてきたことがらがあるだろう。
「あらかじめ伺っておいたほうがいいことならば、ぜひと思いますけれども。わたしは、今こうしてジッヘルさまとご一緒できていることが、何より大切なんです」
「過去よりも現在だと?」
「むかしがなければ、今のジッヘルさまではないでしょう? だから、どちらかと言えば今より少しだけ先がだいじで、……少し刹那的でしょうか」
 年若いすず雪と、父ほどに年齢が離れたジッヘルとではこれから先を語るときの長さや重みが違うかもしれない。
 けれどそもそもみつばちは永遠ではないし、そうではなくても壊れやすくあいまいなものというのは山ほどあるのだから、すず雪としてはせめて今、目に出来るものや手に取れること、そういったことをひとつずつ積み重ねていけたら嬉しかった。
「刹那的か…そうだねえ。そうたとえることもできるかもしれないね」
「そういうのはおいやですか?」
「いいや?」
「ジッヘルさまが、わたしの、その……花主になることで、なにかしら得ることがあればと思いますが、考えれば考えるほど分からなくなって、おこがましいような気にもなって、ぐるぐるとまわって、ともにいたいと思えるならばただそれだけいいとも、思って。それが良いことか悪いことなのか、うまく判断が付けられなくて……すみません」
「おやまあ、そんなことを考えていたのか」
「……はい」
「べつに、いやではないよ。だめだと、言っているわけでもない。そういうところも含めてね、すず雪ちゃんというみつばちの花主になることを、それこそ自分の、少し先のものごとに加えたくなったのだから」
 ジッヘルの言葉に耳を傾けながら、すず雪は舐めとった蜜が体の中でとけてゆるやかに広がっていく感覚に小さな息を吐く。
 みつばちだから、花主を持つ。
 それを当たり前のこととしてとらえてきたものの、ジッヘルの歩むところにみつばちである自分がいるということが、そうしようとお互いに思えることが、当然かと言えば違う。
 それは細い糸を重ねた上に立つようなおぼつかなさとともに、今実際にそばにあるあたたかさとともに、体のどこかに力強さが宿るような気がした。
 少しくたりと体から力を抜いたすず雪の髪を撫でて、ジッヘルは目を細める。
 わずかな劣情をにおわせたような眼差しにからめとられるように瞼を伏せると、唇がやわらかく濡れそぼって、ためこんでいた蜜をすくいあげるように魔法の流れがうねりだす。
「……、ん、っ」
「少しだけに、してみようか」
「……?」
 意味が分からなくて首を傾げてから、綿に含ませた水を指先で押し出されるような、ゆるやかな形で体の奥にふれられたのが分かる。
 あふれだしたものをぬぐい取られるだけのような物足りなさと、ほんのわずかであるがために、こらえきれずもらしてしまったような恥ずかしさがこみあげて、かあっと頬が火照った。
「あの……、あの、そ、そういうのは」
「足りなすぎたかな?」
 聞き返す顔はいつもどおりの優しさで満ちていて、恥ずかしいことをされていると思うのは錯覚で、おかしなことを口走ってしまっているのではないかという気がかりさが声を細らせる。
「みつばちにとっては余分なものなのだから、外に出さなくてはいけない。そこに気持ちよさが伴うのは、自然なことだよ」
 すず雪の不安を言い当てて、心配することはないとそえながらも、望み通りのはっきりとした流れはもたらされない。
「いつもされてばかりじゃ、つまらなくなってしまうだろうからねえ。遊びを混ぜ込むのも、なかなかいいものだと思うよ」
「遊び……、ですか?」
「そう。すず雪ちゃんなら、そういうことができるからね」
 感じやすいところにたらされた糸を引くように、奥からしみだしていくものをすっと抜かれた体がびくっと跳ね上がる。
 苦しいというほどではないとはいえ、疼いているところをくすぐられたようなこそばゆさがどうにも慣れなくて、すず雪はとっさに流れを塞ぐ。
 たくわえたものを、渡さないとでも言うように。
 そんなふうにして立てられた邪魔者をまるでそれを待っていたかのような大きな力が包む。
「あ、う…ぅ…」
「息は止めないように、そう……上手だよ」
 すず雪は手のひらをかぶせて懸命に奪われまいとする。そこを一枚ずつ指をはがされるような強さと、爪先で愛撫されるようなやんわりとした甘さが行き交って、広がり、のたうつような力の流れにかわっていく。
 高まって抜き取ってもらえればそれでおしまいのはずなのに、そうしたあっさりとした喜びとは違う陶酔感が全身を満たすようだった。
 実際に肌を触れ合わせたわけでもないのに、体のどこかがむきだしにされたようだ。
 あんまり長くせめぎ合わせると疲れてしまうからと、途中で手を緩めてもらえたが、ふだんでは感じたことがないようなふわふわとした気持ちですず雪はジッヘルの腕に体を預ける。
「なんだか、その……するよりも、すごいことを、してしまったような」
「そのうち慣れるとも。もうちょっと上手になってきたら、その先もためしてみたらいい」
「その、先……」
 色々教わりたいとは思っているのだが、それはとても気が遠くなることのような気がしてうまく想像ができない。
「……が、がんばれると、良いのですが」
「気負わなくていいんだよ。楽しいことをしようだけなのだからね」
 ジッヘルはそう言って淡く楽しそうに唇をつりあげると、すず雪の真っ直ぐな黒髪を撫でて額に口づけた。




 重たく雲が流れていく空を見上げながら口もとに運んだ盃に、細く灯りが差し込む。
 ひとり愉んでいたファリウス公ジッヘルに老執事はそっと声をかける。
「旦那様」
「……ああ、もうそんな時間かい」
 ひらかれた扉の先から、二人分の影が映る。
 薄暗い室内は客を迎えるのにあまり向かないが、そのままでいいと頷いて中へ入ってきてもらうと、彼らは真っ直ぐに部屋を横切ってきた。足もとの暗さに文句を言うわけでもなければ、つまづいたりもしない。
 それをかわいげないと見るか頼もしいと思うかは様々だろうが、彼にしてみれば予想通りすぎてつまらないの半分、まあそんなものだろうという納得半分だった。
「ファリウス公」
「人を呼びつける時間じゃないな。こんな夜中に」
「酒を愉しむにはいい夜だよ」
 年若い二人にはまだ早い愉しみ方かもしれないが。そう匂わされたことに気づいた谷津江の眉がぐっと寄る。気短な谷津江にちらりと眼差しを向けながら、その傍らに立った星映がものなれたふうに頷きを返す。
「いずれご相伴にあずかれればと」
「そうだねえ。まあ、今日はいい発泡水が手に入ったから、それでね」
 ジッヘルの手前に二人が腰を下ろすのにあわせて、盃が片付けられ、硝子でつくられた繊細な見映えの水差しが運ばれる。
 酔い覚ましにちょうどよいだろうと思って手に入れたものだが、思いのほか味が良く、ただの水とは言ってもなかなか侮れない。
 無言で支度が終わるのを待つ二人をちらりと見て、対照的だなと彼はうっそりと目を細めた。
 明るさのとぼしい中であっても、それこそ星を映しこんだような姿はどこか眩く、その傍らにある谷津江は夜そのもののような深く静かなつよさを匂わせる。
 譲り合うということを知らない二人だ。
 そんなことは必要とされず、本人たちも気に留めていない。
 そんな彼らが重ねでの花主を受け入れているのだから、おもしろい話だと思う。少なくとも彼にとっては、ひどく興味深かった。
「いったいなんだ。すずの花主になるからって、馴れ合うつもりはない」
 使用人が下がったのに合わせて谷津江が口をひらく。
 向けられたきつい視線に笑みをうかべ、ジッヘルはまずは乾杯でもしようと軽くいなす。
「着いて早々、そういらだつものじゃない。とりあえずはこの顔ぶれで、すず雪ちゃんの幸いを願おうじゃないかい」
「そうすることに特に異論はありませんね。心が狭い誰かは、そんなもの願うことじゃないとでも言うかもしれませんけど」
「その程度の挑発に乗ると思うなよ。……さっさとすればいい」
 いかにも気乗りしない様子で小さなグラスを手にした谷津江に、二人は苦笑いを浮かべてそれを手にする。
 乾杯、という声だけを合わせて水に口を付けた。
 程よく冷やされた透明な水が喉をすうっとすべり落ちて、涼やかさが広がる。
「どうだい、花主としての日々は。仮といえ、幾らか驚くこともあったんじゃないかい」
「ええ。想像以上のことも多くて。魔法の力に関しては特に」
 その言葉にゆったりと頷きを返す。
 みつばちと力を交わしあえば魔法使いたちはより多くのことができるようになる。
 ぎりぎりまで使ってもその枯渇を恐れる必要はないし、これまで力がうまく安定しなかったような者でも落ち着きを得られる。
 そういったものは話で聞いていたよりもずっと、大きなものごととして感じられるだろう。
「それは、みつばちがもたらす恩恵の最たるものと言えるだろうね」
「それが欲しくて、すずの花主になったわけでもなし。別にどうだっていい」
「谷津江はそう言うけど、たとえそうでも、ないこととしては扱えないよ」
 星映は谷津江の言葉をやんわりと否定する。
 個々人によってその効果に違いがあるとはいえ、みつばちを持つということは、その力を手にするということに他ならない。
「そうだねえ、特にすず雪ちゃんは位階候補のみつばちだし、軽んじることはできないだろう」
 にこやかに頷きを返しながら、ジッヘルはやわらかに言葉を挟む。
 その内容にひゅっと息を飲んだような沈黙が降りた。
「そんなに驚くとはねえ。まるきり考えてみなかった、わけではないだろうに」
 多くの魔法使いが、そしてみつばちたち自身も、位階付きになることをただの名誉なことだと思っている節があり、その実際を良く分かっていない。
 だが王族として、そして国の重要な守りを担う東絃家のひとりとして、位階付きのみつばちの影響力を知っている二人にはその重みもまた感じ取れるのだろう。
 谷津江はファリウス公の顔をにらみつけるようにしながら、ふんと鼻を鳴らしてこばわりを脱ぎ捨てる。
「すずは確かにみつばちとしちゃ出来がいいほうかもしれないが、そこまでのものとは思えない」
「ファリウス公はどこでその話を? 位階付きにまつわる話は花果院の重要事項でしょう」
 それぞれ違う形ではありながらも信じられないといった顔を見せる二人に、穏やかな眼差しを返す。
 それは賢明な判断であり、ここですぐに納得してしまえるような立場に彼らがいないということでもある。
「羽づまからだよ。もちろん先の話になるだろうということだったけど、いずれ、彼のあとはすず雪が受け継ぐ」
「そんなうまくいくものか。親の欲目とかじゃないだろな」
 谷津江は厄介そうに眉を寄せる。
 羽づまの影響力は侮れない。彼の思いを遂げさせようと周りが手回ししているというなら、それはとても面倒なことだった。
 ただでさえ色々と言われている彼が我が子をあからさまに身びいきしたと分かれば、みつばち全体を揺らがしかねない事態になるだろう。
「それならそれで、やりようもあるんだけどねえ。羽づまは今でもしぶい顔だし、その話がでたのはずっと前、それこそすず雪ちゃんが家を出た頃だよ」
「まさか、位階付きにさせないために外へ出したと?」
「さあねえ。まあ、多少の駆け引きはあったのだろうね。外で暮らすことを現状、黙認されたわけだから」
 みつばちたちがいったいどんなふうに過ごしているか、何かしらの問題は起きていないか、珠守の報告やたまに顔を見せに来る本人の話だけで花師たちは納得したりはしない。
 彼らはみつばちたちさえ良ければいいのだと言われたりもするが、真実、みつばちのことしか考えていなかった。
「今この段階で、君たちを呼んだわけが分かるかい」
 幾分鋭さを増した眼差しを向けてきながらも、じっと口をつぐませた谷津江の隣で、小さなため息がこぼれる。
「私たちは仮なんですね、花師にとっても」
 星映は察しがいい。すぐにそこに気がついたらしい。
「たとえどういうつもりであろうが、自分からおりたりなんぞするものか」
「そうは言っても、すず雪が花師から言い含められたら? 位階付きの花主は制限が増える。それに巻き込みたくないって思いそうだけど」
 星映は年上の谷津江をいさめるように口をひらく。
 その態度にむっとした顔を浮かべながらも、谷津江はいやそうに頷きを返した。それはいかにもすず雪が考えそうなことだった。
「すず雪ちゃんは花師たちに可愛がられているし、他のみつばちとの付き合いがないからね。位階候補の教育を受けてるんだなんて気づかないまま、もうけっこうそれをこなしているふしがあるから。我々が花主に適さないとされても、すず雪ちゃんの先行きにはあんまり障りがない」
 谷津江はいらいらとした様子で舌を打つ。
 ぼんやりしてっからだ、とすず雪のうかつさを罵りながらも、こうなってしまったからにはとあっさり飲みこんでしまう姿が思い浮かぶらしい。その辺りは幼い頃のすず雪と付き合いがあるからだろう。見極めに容赦がない。
「外部顧問たちは、すず雪ちゃんが君たちを引き受けることはむずかしい、と考えているようだけどねえ。花師たちにとっては逆なのさ」
「俺では、すず雪を持てあますと?」
「見くびられたものですね。そんなふうに思われるのは心外です」
 声音は大人しいが、ぴんと張り詰めた空気が辺りに広がる。
 それをおそろしいことだと笑みをうかべて呟きながら、ジッヘルは目を細めて透きとおって夜の中に沈み込んだ水をたぷんと揺らした。
 花師に試されているのは、彼もまた同じである。
 元みつばちたちの近くにいたのもあって、二人に比べれば花師たちの心証は良いし、羽づまが話をもらすことを認めるぐらいには信用もされていたが、それほど先を行っているわけではない。
「君たちは優れた魔法使いだし、花主としての評価も高いだろう。何よりすず雪ちゃんを大切にも思っている。けれどね、花主とみつばちというのは永遠ではない。花師たちは、感情で物事を決めようとする花主にあんまり良い顔をしないんだよ」
 たとえみつばちがその力を失っても、ずっとともに居続ける花主だっている。
 互いの役割に何かしら変化が起きても、つながりを途切れさせることを望まない。そういった元花主や元みつばちがいるいっぽうで、そうしたことに追いついていけず、なぜこんなことになってしまったのだと嘆いて、お互いにだめになっていくこともあった。
 けれどだからこそ、みつばちのそばにいる、ということを冷静に考えて選び取れる花主のほうがいい、というのが花師たちの考えだ。
 こんなに好きなのに、大事にしてきたのに、適わない。思っていたことや願っていたことと少しでも違ったときにそれがゆるせなくなって、どうしてもっとみつばちとして力を保たせられないのかと、いきどおって、あたる。
 たとえそれが恋い慕う心のままにわきおこった当たり前のことでも、もともとみつばちというのは、花主のためにあるものではない。利害関係の一致、そのひと言に尽きる部分がどうしたって含まれている。それを忘れてしまってはいけなかった。
 そうは言っても、それでみつばちを都合良く使いたがる花主なら、花主とは呼べないが。
 ジッヘルの話に二人はしんと静かな眼差しをうかべて沈黙と通す。
 先に口をひらいたのは谷津江で、ふんと鼻を鳴らすと、大きな息を吐いた。
「頭んなかで、何をどう思ってようが口をはさまれる筋合いはないね。がんじがらめにしてぐずぐずにしてやりたくっても、やれ珠守だなんだとお目付役がいて、こらえてんだ。だいたい、ごたいそうな理屈をつけても、どのみち、花主とみつばちがすることことなんかひとつだろが」
「谷津江、気持ちは分かるけど少しは言葉を飾ってくれないかな。私もすず雪もまだ夢見がちな多感なお年頃なんだよ。ここはせめて、想いを抱きあうことの何が悪いというぐらいにとどめてほしいなあ」
 あきれたように眉を寄せた星映に谷津江はおかしそうな顔で、ついっと唇を引く。
「飾りすぎて意味をはきちがえるなよ、王子サマよ。ま、すずはその辺のことは望み薄だが。華妓たちのけんかの仲裁にも入らないといけないからな。えげつない言葉には慣れてるだろ」
「だからこそあえて、言葉を選んで恥ずかしがらせるのがいいんだよ」
「知るか。どうせ使う口なら、指のひとつでも舐めるほうがいいね、俺は」
 この場にすず雪がいたら、真っ赤になるぐらいではおさまらないだろうことを言い合いはじめた二人をのんびり眺めながら、なかなかすず雪も充実した日々を送っているらしいと思う。
 本人に言わせればもう少し加減をしてもらって、いっそ適当に手を抜いてもらっても良いと言うかもしれないが、みつばちを喜ばせられない花主などという気持ちは彼にもあった。
 腕の中でみつばちが高まっていくのを眺めるのは、何とも言えない満足感がある。それ でついついいっそうかまいたくなってしまうのだから、彼ら二人のことはあまり強く言えないが、お互いに巡り会ってしまったのだからしかたない。
「花師が望む花主のありようはともかくね。だいじなのは、すず雪ちゃんとのこれからだよ。かなしませるようなことはね、なるたけしたくないからねえ」
「位階付きになってもいいような心構えでいるように、ということでしたら、そんなものとうに持ち合わせています。本人はわりとあっさりしてますけど、ひとくせも、ふたくせもあるような身内に囲まれても、まるっきり平気な上にこの顔ぶれで重ねなんです。当たり前の境目はずれっぱなしでしょう」
「この王子サマに同意するようでつまらないが、それ以上にその問いかけは面白くもなんともない。すずとともに行くと決めた。そのひとつでじゅうぶんだろが。三人いりゃ、どんなときだって、ひとりぐらいはついていけるだろしな。それよりもあのぼんやりさで、気づいたら羽づま以上の重ねになっていた、とかにならないかと、そのほうが気がかりだ」
「花主が増えたら、立場があやうくなるって? 意外に小心だね、谷津江」
「まだ誰も正式に花主にもなってない段階で、増えるもなにもないがな。星映、あの来るもの拒まずさを甘くみて、ただすずと会うにもくじ引きとかになったらどうする。笑えないだろが」
「それは笑えないね。……うん、すごく笑えない」
 なにやら深刻な顔になった二人は、とてもいやいやではあるが、花主同士、ある程度の協力は必要ではないかと話し出す。
 おそらくすず雪自身も、他の魔法使いたちもまったく視野に入れていないだろうことを真面目に検討しあう様子にファリウス公ジッヘルは目を丸くした後、肩を震わせた。
 たまらず笑みが声になってこぼれる。
「高笑いをしやがって。言っておくが、立場は変わらないからな。仮だ、仮。そろってまどろっこしいはめに陥ってんだ」
「ファリウス公。いかにも人が悪そうな顔が全面に出ています。それはどうかと思います」
 二人はいやな顔をしたが、かまいはしない。
 とりあえずはこの三人がすず雪の仮の花主として、ともに行く。
 そのことがいったいどういう道をつくるのかは分からないが、楽しそうではある。ただそれだけでも問題なく、じゅうにぶんに事足りる気がして、彼はひととき笑みを抑えきれる気がしなかった。



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