「鈴鳴るほうへ」



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 硝子の縁に指をあてたような冷たさが染みこんでくる。
 門と呼ばれる移動用の膜を抜けると、乾いた空気が肌をさらった。
「大丈夫ですか、すず雪さま」
「はい。特におかしなところはないようです」
 すず雪の首筋に手をあてて、あらかじめつけておいた魔法具を外した玖おんは笑みを浮かばせる。
 違うところにある場所を繋いで、場合によっては一瞬で長い距離を移動することが出来る門はとても便利な反面、体質によってはとても酔う。
 幸いそういったことにはならず、すんなりくぐり抜けることが出来たすず雪は改めて出てきたばかりの部屋を見渡した。
 羽づまは個人で移動用の門を幾つか所有していて、ここはそのひとつになる。
 艶やかなあめ色の木を薄く削ってはめこんでいるらしい壁はひとつひとつの木の色の違いで、ふたたび大木の姿を描き出しているらしい。真向かいにつくられた窓から丸くゆらいだ光が木洩れ日のようにさしこんでいるのが、やわらかな思いを抱かせた。
 何だか面白いだろう? と羽づまがいかにも言いそうだと思う。
 母が暮らしていたところを見てみたいと思っていて、ちょうどよく都合がついた今日、すず雪ははじめてその街に足を踏み入れることになった。
 家の管理をしている者があらかじめ窓をあけて、風を通してくれていたのかしばらく使っていなかったわりに埃っぽくもなく、傷みも目立たない。
 王都から東に向かい山を三つほど越えた先にある土地で、それほど大きくはないが、雪解け水が流れる清んだ川があり、それを伝って人も物もよく行き交う。
 玖おんに促されて廊下に出たすず雪は、通りかかった窓からなんとなく外をのぞいてみた。
 高くても三階建て、おおむね二階建ての家が立ち並んでいるのが見てとれる。
 黒くいぶされた木を組んでつくられた家はどこも平らな屋根がついていて、そこに洗い立ての布がひるがえるのがのどかだった。その足もとを幼い子どもたちが騒ぎながら走っていくと、部屋の中がわっとにぎやかになる。
「手習いどころに向かうのでしょう。この辺りは学校にあがる子はまれで、みな近くにある小さな塾に通うんです」
 玖おんの説明にすず雪は頷きを返す。
 織物に刺繍を重ねたり、鉱石を縫い付けて魔法を通しやすくしたりするような、そうした技を多くもつ者が多くいて、遠くからわざわざここまで買い付けに来る商人も少なくないのだと教わっていた。
 着るものについてはこだわりがある羽づまがこの街に門を置いたのは自然の流れなのだろうし、そうして足を運ぶようになった先で母と知り合ったのだと思えばとても不思議な気持ちもする。
「今日のお着物も、この街の職人が織ったものですよ」
「すごく着心地が良いです」
 窓硝子に映った自分の影を見て、すず雪は少しだけ頬をゆるめた。
 みつばちのためのものとは違う、肌に慣れたざらつきと軽さが心地いい。草色にほんの少し茶色がかった糸が交ぜられていて、それがいい具合に明るさをにじませる。
 ここのところ家でも外でもずっとみつばちの身支度でいたから、街行くひとともさほど変わらない姿になるのが妙に真新しく感じられて、つい足取りが軽くなるようだった。
 すず雪は弾んだ気持ちを抑えるように背筋を伸ばし、薄くひらいた窓から入り込んできた風をすっと吸い込む。胸に満ちたわずかな冷たさがちょうどよく体に重みを与えてくれて、わずかに視界が晴れるようだ。
 そんな気持ちに合わせるように、ちりんと軽やかな鈴の音が鳴り響く。
「俥引きが到着したようですね」
 促されて外へ出て、玄関先に横付けされた二人乗りの俥に目をとめた。俥引きの男はすず雪たちの姿をとらえると軽く頭を下げ、客のための踏み台をさっと出す。
 幌をかけた俥を人が引く乗りもので、街中の入り組んだところでもすいすい走るから重宝されていて、晴れ着を身につけている客が多いからその辺りの気づかいも行き届いている。
「段が高めになってますんで」
「ありがとうございます」
 手を貸してくれた俥引きに礼を言いながらあがり、すず雪は思ったより見晴らしが良いのに目を丸くした。
 華妓たちを乗せるために呼ぶことはあっても、実際使ったことはなかったから、こんなに高くなるのかと驚く。そんなすず雪の様子に俥引きは目もとを和らげながら、玖おんがあがるのも同じように手伝って、風よけの幌を少しだけ下げた。
 かけ声とともに軽やかに俥が走り出す。
 つい物珍しさにきょろきょろと首をまわすと、軒先に下げられた糸の束のあざやかさが眩く映った。
「糸を下げているおうちが多いですけど、あれは商いのものですか」
「ああ、いえ。あれは祭り支度なんです。軒に家族で紡いだ糸をさけげおくと、幸運がかかると言われていまして」
 言われてみればどこも同じ色合いの糸で、赤青黄色に白の濃い色が並ぶ。
 視線を巡らせば祭りの品を扱っているらしい店の前で、ひとりの青年が糸の束を真剣な顔で選んでいるのが見てとれた。
 大きさや使っている糸そのものの違いなど、色々あるらしい。俥引きの話に頷きながら、すず雪は馴染んだ空気を道先に感じ取って顔を上げた。
 昼の陽射しの中にある灯籠のうすぼんやりとした佇まいの中に、稽古事に向かうのだろう若い娘たちが通りすぎていく。
(……見習いのねえさん)
 華妓見習いたちは髪型も着付けも少し違うから、知っていればすぐにそれと分かる。ただここはすず雪のいたところからは離れているから、見慣れない支度をしているのも幾つか目についた。
 似ているようで、似ていない。近いようで遠い、けれど根っこは同じところに伸びている場所。
 そうした街の中にいると、緊張に似たこわばりとともに、どこかがふっと楽になるような、そんな思いにかられて、すず雪はその掴まえにくい気持ちをぼんやりと追う。
 それはどこか息のしやすさというような、とてもやすらかなもののようで、不思議とただいまと言いたくなるような、そんな気持ちにもかられた。




「遠いところをようくなあ。ああ、ほんとうによう似てるわあ。とにもかくにも、座っておくんなさいよう」
「おかあさん、そんなふうに手ぇをにぎってたら座れませんて」
 すず雪の手をぎゅっと包んでいた少しかさついたかたい手のひらが、そりゃそうだわあ、というつぶやきとともにほどかれる。
 祖母だと言っても通じるだろう年齢を重ねた者から向けられたあたたかなまなざしに、すず雪は小さく微笑みをうかべた。
 おかあさんと呼んだ二十歳半ばの華妓は、みずからが暮らしている置屋のあるじを苦笑いで見つめながら、手際よく席をととのえてすず雪と玖おんの前に茶菓子を運ぶ。
 血の繋がりこそないとはいえ、華妓たちの家となり、着るもの食べるものすべてを引き受けて育てていく置屋のあるじは、華妓たちにとっての親だ。だからこそ、おかあさん、と呼ばれるのだし、華妓たちは自分の娘たちだと口を揃えて言う。
 すず雪の母の面倒も見ていた女性はしわにつつまれた顔をほころばせて、そんな華妓とすず雪たちを交互に見やる。
 歳をとったとはいえ白く変わった髪をきれいに結い上げ、きっちりと襟を引き、客を迎えるためにおろしたての足袋をはいた足もとはまだまだじゅうぶんここでやっていけているだけの強かさを感じさせた。
 それでもどこかしらのんびりしたふうで、まるまった猫を思わせるような小柄なひとだ。
「ご挨拶が遅れてしまいました。むかしこちらでお世話になっていた、りん佳(りんか)の子で、すず雪と申します」
「はじめまして、すず雪さん。わたしはここ三鶴屋のあるじで、はづ。こちらはうちの華妓で、あや嶋(あやしま)」
「あや嶋です。よろしゅうに」
 あや嶋は華妓の名前をしるした小さな短冊を取り出す。
 挨拶用の名刺で大抵は紙でこしらえるが、受け取ってみてすず雪は目を丸くした。
「染め抜きに刺繍なんて、はじめて見ました。すごくすてきですね」
「あらまあ、うれしいわあ。お若いひとにそう言ってもらえるなんて。糊づけして、かたくはしてますけど。とても薄いでしょう? ここいらはそういう遊びにねえ、凝るひとが多くて」
 ゆったりとした口ぶりで、けれど少しだけ誇らしそうにあや嶋は目を細める。
 おそらく華妓伝いに職人たちの名がまわって、仕事を請け負うことになったりもするのだろう。
 華妓の身支度には職人たちの手が欠かせないし、華妓がこうやって職人たちの仕事を伝えることもまた大切なつながりだ。
 感心するすず雪にあや嶋は柄違いでそろえているらしい他の手持ちを見せてくれる。それを見比べていると、三鶴屋の主人、はづはしわに包まれた顔をほんわりとゆるめる。
「本当に似ておいでだねえ。華妓のこしらえにしたら、あの子だと見間違えちまいそう」
「……似ているとはよく言われますけれど、それほど?」
「ええ、ええ。目尻がほんの少し下がってるところなんて、とってもそっくり」
 すず雪の母は幼い頃に両親を亡くし、わずかな縁を頼りにしてこの街まで来た。三つか四つの頃だったというから、華妓になりたいと思ってやってきたわけではないのだろう。
 それでもわりと早くに座敷にあがるようになり、見習いの頃から舞のうまさが評判になっていたらしい。
「気が強くて、がんこなところがあってね。華妓としては目立つほうじゃあなかった。けれど舞だけはね、なんていうんだろうねえ。見ていると考えごとがすっと消えちまうみたいな感じで。うちのこの中でも、あんな舞をするこはりん佳くらいだ」
「りん佳ねえさんにはてんでおっついてないって、よくお師匠に叱られています。あたしにとっちゃあ、かみさまなんじゃ、って思うぐらい遠くって」
 この近くで生まれ育ったあや嶋は、すず雪の母である、りん佳にもかわいがってもらっていたらしい。遊びに行くと、いつも決まってお菓子をくれたと言う。
「それがね、いつもびっくりするようなところから出てくるんですよ。いつかは、あめ玉がかんざしの玉飾りになっていたこともあって」
「あめ玉が?」
 目を丸くするすず雪にあや嶋は楽しそうに声を立てながら頷く。
「そういえば、そういう遊びをすることも多かったねえ。鳴り方に曲を逆さまに弾いてほしいと頼んでなんだか珍妙な舞を披露したこともあった」
「そうやって笑わせたあとに、とびっきりの舞を見せられるんですよう。そんじょそこらの華妓じゃ、たちうちできないねえさんです」
 二人の話にでてくる母の姿は思ってもみないものばかりで、聞いていてとても楽しい。
 当たり前のこととはいえ母にも自分と同い年の時があったのだということや、華妓として活躍していた頃のことを知ることは、少しだけ遠かった思い出の中の姿をぐっと身近にしてくれるようだった。
 たとえ母であっても、泣きも笑いもする、ひとりの人には違いないだろう。
 けれどすず雪が覚えているのは病に伏せた後の母だから、それより前のことを覚えている誰かがいて、語ってもらえることがとてもすごいと思うし、笑って話せるようなものを残していった人なんだと、少し誇らしいような、かなわないような、そういう気持ちになる。
 楽しいひとときはあっという間に過ぎて、すず雪は昼辺りでいったん話を終える。
 そのくらいのほうがお互いに都合が良いし、ちょうどいい。
 通りを眺めながら適当なところまで歩いて帰るつもりだと言ったすず雪に、あや嶋が見送りがてら近くを案内してくれることになり その厚意に甘えることにする。母が好きだったという店を教えてもらいながら、のんびりと歩いた。
「ねえさんが華妓だった頃は、あたしもまだ子どもだったから、嫁ぐって知って、相手を聞いたときにはぽかーんてしてなあ」
 まあ、みんなも相当びっくりしたみたいだけど、とあや嶋はおもしろがるように呟く。本決まりになって華妓をやめるための段取りが組まれはじめても、まだ何かの間違いだろうと信じないひともいたらしい。
「なにしろそこらの華妓よりよっぽどきれいなひとで、いっつも誰かしらに囲まれていて、二人っきりでなんぞ考えられない感じだったらしいんよ。まあ、おかあさんはさすがに知ってはいたみたいなんけど」
 すず雪は相づちを返しながら、あれだけ目立ち、大勢に輪の中にいた羽づまがどうやって母との距離を縮めていったのかを考える。
「わたしの父ではありますけれど、ああいうひとに言い寄られたら、騙されているんじゃないかとか、冗談だろうって思いそうですよね」
 あの美貌だから、高嶺の花過ぎて近寄るのがためらわれてしまう。
 幸いにもと言うべきか、すず雪とは親子だし、兄やら弟やらで顔立ちがととのっている相手への免疫はついているとはいえ、自分自身に何も釣り合うものがないと感じて距離を置いてしまいたくなる気持ちは分かる気がした。
「よっぽど容姿に自信があるとか、そういうもんがないとなあ。あたしもねえさんの話を知ったときには、うまい話には裏があるもんだって疑ったわあ」
 いくら貴族にはそれが認められているとはいえ、羽づまには妻子もあったし、職人たちを贔屓にするついでに華妓に目をかけることで、何かしらのうまみがあるんじゃないか。
 舞はうまかったから、好きなときにそれを楽しむために囲おうとしているんじゃないかと感じていたのだと、あや嶋は遠慮なく言う。
「だからあたしね、あんまり心から祝えなかった。大好きなねえさんが、華妓をやめてしまうのも辛かったし」
「……それは、…」
「でもね、すず雪さんに会うのがいやだったわけじゃないし、むしろ楽しみだった。ほんとうよ。それにね、騙されているわけでも、ねえさんが変わってしまって、なんだか遠いひとになってしまったわけでもないって気づいて」
「……母は結婚後、この街には足を運ばなかったらしいとは」
 体調を崩してしまったことということもあるとはいえ、急に疎遠になれば、気持ちも離れたのだと思ってもおかしくはない。
 あや嶋は小さくまなじりを細めて、ゆるやかに首を振る。
「ねえさんは華妓の暮らしをいやがっていて、だから何もかも手放してお嫁入りしたんだって、言う人もいたけど、あたしはねえさんがじぶんちに帰ってきてるのを見たんよ」
 あや嶋はそう口にして、すず雪の後ろをついていく玖おんを気にするそぶりを見せたが、ただ頷きだけが返ってどこかほっとしたように眼差しを戻す。
 華妓はある程度、歳を重ねると一人立ちして住まいを持つ。
 りん佳は三鶴屋の主人の実子ではなかったが、それに近い扱いを受けていたから、家をでてはいなかった。けれども部屋をひとつ借りていたのだという。
「鏡台がぽつんとあるだけの小さな部屋。部屋を借りてたことも知らない人が殆どだったけど、一度だけね、連れていってもらったことがあって。あたしが近所の子とけんかして、頭から血を流してたものだからびっくりしたんでしょうねえ」
 それは驚きもする。
 手当てするために連れていってもらった部屋は、飾り気もなく、どことなく物寂しかったが、けんかして荒ぶっていた気持ちが不思議と落ち着いた。
「なんだか、すごくねえさんらしい部屋だった。よぶんなものをそぎ落として、だいじなものだけ、残しておいたみたいな」
 街を出て、とうに別の人に渡っただろうと思っていたある日、いつも暗かった窓辺に明かりがついた日があった。
 気になってじっと見てしまったあや嶋は、そこに見慣れた人影を見つけたのだ。
 すぐにりん佳だと気づいた。いくらか痩せてしまったように思えたが、戻ってきていることがうれしくて声をあげかけて、あや嶋は結局それを飲みこんだ。
「きっとあれはすず雪さんだったんだわねえ。妙にちぐはぐになったおくるみで、赤ん坊がもこもこになっていて。それを見て、ねえさんが笑っていたんよ。……好きで一緒になったって子どもに恵まれたって、だからしあわせ、ってことはないだろけども。その顔も声も、あたしが好きな、やさしいねえさんのものだった」
 おそらく玖おんはあや嶋のことに気づいていたのだろう。
 もしかしたらそこに彼らが来ていることを黙っていてほしいとあや嶋に申し出たのかもしれない。あや嶋はそれを守り、今の今まで飲みこみ続けていた。
 りん佳が嫁ぎ先でどういうふうだったのか知りたがる者は多かったが、うやらみ、ねたんで、虫が良いだけのはけ口に使おうという者もいたし、人知れず訪れたのだから、そうっと帰してなにもなかったふうにするのが、一番りん佳が望んでいることのようにも思えた。そうあや嶋は話してくれる。
 立ち止まったすず雪はそう語ったあや嶋の顔を見上げて、語られた姿を思い浮かべる。
 すず雪が母、りん佳についてもっとも強くはっきりと覚えているのは、みつばちになってほしくない、と望む姿だ。
 それはまだ幼いから、すぐ忘れてしまうのだろうと感じていたからかもしれないし、言っても理解は出来ないだろうと考えていた可能性もある。
 幼い頃のすず雪は口数が少なくて、何も言わなくても想いを叶えようとする者が多くいたせいでもあったが、成長が遅れているのではと心配されたぐらいにはずいぶんとゆっくりとした子どもだった。
 それでも、覚えている。
 忘れられるはずがない。みつばちである自分に、みつばちでないほうがいいと望まれたら。それは自分ではない子どもが良かったと言われているようにも思えて。
 すず雪にとって、自分がみつばちであるのは当たり前のことで、周りの殆どがそうであることを歓迎し、みつばちだからこそ与えられるものがそこに存在していた。
 あまりそうは見えなくても、成長が早いと言われているみつばちのひとりだったすず雪にとって、どちらかと言えば人当たりが良く周りを気づかうことが多かった母がそんなことを口にするのか理解できず、どんなに思い当たる理由を連ねても胸が苦しくふさがれた。
 みつばちであることを含めて、まるごとぜんぶ好きでいてほしかった。
 たぶん、根っこにあるのはそういうことだったのだろうと今なら思える。
「……母は、幸せだったのでしょうか」
 すず雪は母が残した言葉の理由をずっとさがしていて、鳴り方になり、街の暮らしや、華妓としての誇りや、考え方にふれてきたが、どんなにたどっても正解には行き着かないし、幼かった頃のすず雪が抱いたさびしさを埋めはしない。
 家族はみんなやさしかったし、別に母に嫌われていたわけではなく、じゅうぶんに恵まれたあたたかさがそばにあったが、あのときの言葉の理由を尋ねる機会を失ってしまったせいもあって、ずっと気持ちの奥にこびりつき、引っかかり続けてしまった。
 すず雪がみつばちとして生まれたことで、母が悲しんだとしても、それはどうしようもないことだと。そう納得するのは思っていたよりもむずかしく、かといって、誰かから母をなじられたいわけでも、慰められたいわけでもない。
「しあわせかどうか、それはもちろん、って。言いたいけれど、あたしには荷が勝ちすぎちゃうわあ」
 あや嶋のあっさりとした返しに、すず雪はちょっと笑って頷いた。
「父と母の仲が悪かったわけではないんです。いつも楽しそうに二人で話してましたし、わたしに、のろけてたことも覚えています」
 こういうときの笑い顔が可愛かったとか、つまづいて二人そろってたんこぶをつくったとか、誰も言ってはいないが実のところすず雪の記憶はだいぶ幼いところからしっかり残っている。
 羽づまもみつばちだから、ある意味、分かっていてそれを見せていたのかもしれないが、おそらくはたいした意味もなく、言いたいから言っていたのだろうし、そこに我が子が後々なんだか恥ずかしい気持ちになったって、たいしたことではないだろう。
「ねえさんはねえ、だいじなものを、ちゃんとだいじできる人だったもの。華妓をやめたことも、お父様と一緒になったのも、ねえさんが考えて、選んだことだった」
「……はい」
「しあわせか、どうかって。たぶんだあれにも分からない。死んじゃった本人が振り返れたら、何かしら答えはつくかもしれないけど。だから今のすず雪さんが良いように思うのがいちばんよう」
 今日までこの街に来ることがなかったすず雪に、何かしらの事情があるのだろうと感じているのかもしれない。
 察しよく言葉をぼかした口ぶりはすず雪が鳴り方として過ごしていく中で何度も目にしてきた華妓のならいのひとつだったが、紅を差した唇を引き上げたあや嶋の顔は明るくて、やわらかだ。
 あや嶋の中で大切なことは、りん佳が良いように扱われて嫁いだわけでも、華妓が嫌になったわけではないと感じられたことなのだろう。憧れのねえさんの背中を追い続けるような慕わしさが淡くにじむのが、すず雪にもあたたかな思いを抱かせる。
「ありがとうございます、あや嶋ねえさん。お会いできて、ほんとうにうれしかった」
「弟が増えたみたいで楽しいの。あたしには手のかかるのがもう三人もいるんだけど」
 ひとりぐらい、こんなかわいい弟が増えてもいいわよねえと笑ったあや嶋に笑みを返して、すず雪は見送りはここまでで、と言いかけた口を閉じた。
「ねえさん?」
 どこかを目に入れてわずかに顔色を変えたようなあや嶋は、はっとしたようにすず雪を見て、華妓らしいゆったりとした仕草でまたきてちょうだいねと挨拶を交わす。
 それに応じながら、すず雪はあや嶋が見ていたほうに目を向けて、わずかに首を傾げた。



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