「そうだ、祭りの飾りを見ていたひとだ」 「……すず雪様?」 ふっとそんなことを口にしたものだから、玖おんが不思議そうに首をひねる。 すず雪は曖昧に首を振って、差し出された布で手のひらの水気を拭う。特にそのことを考えていたわけではなかったが、何かのはずみで記憶の糸がつながったらしい。 別れ際、あや嶋が見せた顔とその視線の先にいた人影を思い出してのことだったが、今はもう日も暮れて、すず雪は父の名代で宴席に出させてもらっているところだからとっさに玖おんが分からなくても当たり前だった。 息抜きをかねて手洗い場まで出ていたすず雪は、戻ろうとした座敷から、わっと楽しげな声が響いて小さく口もとをゆるめた。 「まだだいぶん、盛り上がってらっしゃるみたいですね」 「ええ、きっとしばらくおさまらないでしょう。褒め上手なすず雪様に、みなさますっかり虜になってしまわれて」 「そんなことは。わたしは父のことばっかり話していただけですし」 羽づまが懇意にしている商人やら、この街の職人やらに呼ばれての席だから、すず雪ができる話と言ったら仕立ててもらった服やら、飾りものについてだ。 すず雪は着飾った父の姿が好きなので、いっそう綺麗に見せられるものを作れる人たちは尊敬しているし、自分自身で身につけたときの着心地の良さや、似合っていると嬉しそうにする周りの反応を見ていればいつもしあわせな気持ちになる。 「それに、ほんとうにすごいものを作る方々ですから」 「そういった気持ちを、そのまま言葉にかえていくことは案外むずかしいものです」 すず雪は織物などの知識があるわけではないし、あれは好きだとか、すごかったとか、本当に他愛ない言い方になってしまう。 それでも羽づまに惚れ込んでいる人たちにとっては、実際に身につけたときのことを聞くだけでも嬉しいらしい。 どういったところに、どんなふうな格好で楽しそうに出かけていくのか、そばで過ごすすず雪だからこそ語れる話に胸が躍るようだった。 「わたしはいつだって父上に見惚れてしまいますから、そういった話ならいっぱいできるんですけれど……」 父の名代としては、あんまり格好がついていない気もする。喜んでもらえているならそれに越したことはないとはいえ、玖おんが言ってくれているようなところまではたぶん至れていない。 (父上の名代なのに、わたしがいちばん、父上のことを知りませんし……) 職人たちが語る父の姿を聞いていると、そういうふうにも思う。 離れて暮らしていたせいもあるとはいえ、もう少し気をつけていかないと出先で話に困ることも増えるかもしれない。すず雪は廊下を歩き出しながらそういったことを教わるなら誰か良いかを考え、その足をふっと止めた。 硝子戸で隔てられた奥庭にあでやかな袖がちらついた気がして目を凝らす。 ここの座敷には華妓たちも呼ばれていて、何人かとすれ違っているし、楽の音もする。だからいてもおかしくはなかったが、妙に思いつめたような顔で外へ出ていく顔はあんまり普段通りとは言えず胸が騒ぐ。 (……いまの、あや嶋ねえさん?) ここでのすず雪は鳴り方ではないし、今日会ったばかりの相手だ。 深入りすべきではない気もしたが、すず雪は出入りできる場所を手早く目で探って、庭へとおりた。 こういうところには庭をそぞろ歩けるよう履き物が用意されているので、少し大きめのそれに遠慮なく足を通す。 「玖おんはここで、すぐ戻りますから」 「そういうわけにはまいりません」 玖おんは落ち着いた顔で首を振る。 「取っ組み合いにでもなったら、人手がいりますでしょう」 珠守たちはそこそこ武術もたしなむ。 玖おんに出てもらわないといけないような万が一はない方が良かったが、心強いのは確かだろう。 実のところ珠守が守るのはみつばちであって、華妓が傷つけられないようにと考えているすず雪とは考え方が違う。いざというときがあれば玖おんは真っ先にすず雪を抱えて逃げるだろうが、その辺りのことはお互いに見ないふりをした。そのほうがお互いに都合がいい。 幸いにもあまり遠くには行っていなかったらしく、目当ての人影はすぐに見つかる。 夜明かりの中でも青ざめていることがわかるあや嶋が強ばった顔で辺りを伺い、はっとしたように植え込みに近づく。 「こう哉(や)、…っ」 「わっ」 暗がりが広がる庭の隅で、ひょこっとのぞいた体をあや嶋が無造作に引っつかんだ。 襟元をつかまれた青年は慌てたように口をはくはくと動かす。 「ね、ねえさん、くる、くるし」 「あんたって子は。今までどこでどうしてたの。どっかでのたれ死んでるじゃないかって、あたしは」 「ん…うん、うん」 「それなのに、あんなに探しても見つからなかったのにっ、急に現れるんだから」 「う、……ごめんね、お仕事中に」 ふわふわと揺れる猫っ毛を見上げて、あや嶋は大きくため息を吐く。もういいわよう…と、つぶやいた顔は涙ぐんでいるようで、わずかな安堵がにじむ。 昼に見かけ、祭りの飾りを売っている店の前でも見かけた顔だった。 ほっそりとした体つきに清潔そうなシャツを身につけた立ち姿で、姉から離された体をおろおろと落ち着きなく動かすのが妙に小さな動物めいていて、肌が白いからさしずめ白兎のようだ。 とりあえず身を危うくするようなことではないらしいと感じ取って、すず雪はほっと胸を撫で下ろした。 それなりに人の出入りに厳しいところだからここまで入り込めたのは不思議だったものの、地元の人間なら何かしらのツテがあってもおかしくはない。 (なんだか胸が騒いで追いかけてしまったけど) はじめての遠出の上に名代を言いつかって、気づかないうちに気持ちが高ぶっていたのかもしれなかった。 ずいぶんと大げさにとらえてしまったと気恥ずかしくなりながら、すず雪はそっときびすを返す。 身を危ぶんでのこととはいえ、盗み聞きしたくて追いかけてきたわけではない。 あや嶋はどこでなにをしていたのだとなじるように言いながらも、ごはんはきちんと食べているのか、痩せたのではないかと心配そうに伺う。 風もなく他の音もそれほどしないせいか、背を向けていても二人の声は思ったよりはっきり届いて、夜の庭にほんの少し人の温度をにじませる。仲は悪くないようだなとすず雪はなんとはなしに思った。 「あのね、もうすぐ祭りでしょ。だから糸、ねえさんに」 「……糸って、あんたはもう」 あや嶋は弟がとりだした糸の束を月明かりにかざしたのだろう。房の下に小さな石粒がさげられているようで、すず雪の耳もとにも、まるみを帯びた音が鳴る。 そのやわらかな音に耳を澄ましながらどちらから来たのだったかと首を傾げ、続けられた言葉にすず雪は足を止めた。 「なあ、あんたいま、川向こうにいるんと違う……」 「…………」 「あの男と歩いてたって。あんな蜂主(はちぬし)と、……こう哉が何したって、羽づまさんみたいにはなれんのよ」 「うん……、なれんね」 「なら」 「おれ、別に本物になりたいわけじゃないもん」 当たり前のことを、ただそのまま話したような気負いのなさに、あや嶋はいっとき言葉を失ったらしい。 すず雪もひゅっと飲んだ息をいくらか止めて、その場に立ち尽くした。 蜂主というのは、ただびとを一時期的にみつばちめいたものを変えられる技を持つ者のことで、みずからが作り上げた偽りのみつばちたちを束ね、客をあてがうことを生業とする。 花果院の取り締まりをくぐり抜けながら残り続けている負の部分。国の保護がはじめられる前は本物もにせものも、まぜこぜにされていただけだった。 本物と、つくられたみつばちの、最も違うところは蜜珠だ。 蜂主のもとにいるみつばちは自らそれを孕むことはなく、蜂主の手によってのみそれを得る。しかしそれは大いに体をそこなわせて早死にさせてしまうので、禁じられた技に他ならない。 あまりにすんなりとあや嶋の口から蜂主の存在がこぼれでたことに驚いたが、ここは職人の街だ。みつばちの存在さえあやふやな人も多いが、ここではみつばちのための衣服や飾りものを作り続けてきたからこそ、みつばちも、またみつばちに連なる蜂主のことも、今も身近なのかもしれなかった。 ここで飛び出して、どういうことだと問い詰めるのは簡単だ。 法に則っていないことだと、蜂主などに関わるべきでないとそう口にすればいい。 けれど作られたみつばちを、蜂主を、責めたり咎めたりするのは違和感があった。すず雪だって、みつばちなのだ。 ごく当たり前に暮らす人たちから、魔法使いたちを体を使って引き留めているのだと眉をひそめられ、ふしだらだと言われても、ちっともおかしくない。そういうことを気にしても何にもならないから、目をつぶっているだけだ。 なんと言えば、正しいのだろうか。そう思って、その答えのなさに戸惑う。 「……すず雪様」 そっと気づかうような声に大丈夫だと笑みをつくりかけ、すず雪はそばにあった古い灯籠に目をとめた。 (……なんだろう) この辺りで使われているのは魔法を含まず、灯りには種から絞った油を使う。 すず雪にも馴染みのある炎の揺れのそばにきらりと光ったものを見て、首を傾げた。 「玖おん、あれは……」 なんとなく近づきかけた途端、急なめまいに襲われたように視界が揺れる。 ふっと崩れかけた足もとをまるで大きな波が押し寄せてきたようなうねりがつかまえて、ぐるんと反転する。 何が起きたのかといぶかしく持ち上げた目線の先に、わずかに小さくなった人影が見てとれた。 (どうして、玖おんがあんなところに……?) 「……?」 「なんだ、羽づまかと思ったのに。がっかりだなあ」 「あの」 「でもあいつが一緒にいるってことは、ああ……息子か。へえ、こんなに大きくなったんだねえ」 好奇心に満ちあふれた黒い目がじっとすず雪を見下ろす。 あぶらがぬけた乾いた肌に白いものが混じりだした髪は彼を少し年寄りに見せていたが、おそらくは三十代の後半くらいか四十代のはじめだろう。 まるで通りすがりに眺めていた木に花芽がついたと気づいて喜ぶような、ふわりと穏やかな顔で彼はすず雪を腕の中に閉じ込める。 言っていることとその顔つきと状況がうまく釣り合わず、すず雪は混乱した。いつのまに彼の腕の中におさまってしまったのか、そしてそろって宙に浮き上がってしまっているのか、まったく理解が出来ない。 言葉を探しあぐねている間に騒ぎを聞きつけたらしいあや嶋とその弟が姿を見せ、そろって大きく目を見ひらく。 「すず雪ちゃんっ? あ、あんたは…っ」 「あれっ、瑛千(えいせん)さま、どうしてここにいるの?」 「こう哉の帰りが遅いから、迎えに来たよ」 「えー…ほんと?」 「もう帰っておいで。いいお土産もできたし」 「こう哉っ。あほう、なんでそっちへ…っ」 その土産というのは、もしかして自分だろうかとはっとしたすず雪の前で、わずかにとろみを帯びたような風が肌を覆う。この街に来るときに使った門のような、そう思ったときにはすず雪の視界から、何もかもが遠のく。 あっというまのことで、すず雪の耳もとにはあや嶋と玖おんの声だけがかすかに届き、ふわふわと揺れる髪がそばにちらつくのだけがやたらはっきりと見てとれた。 |