「鈴鳴るほうへ」



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 ぽつりぽつりと雨だれを思わせる滴が首筋を伝う。
 頭だけ窓から外へだしたみたいな、そんなふうに思ってその空想に小さく笑った。びしょ濡れになった髪をゆっくりと拭う指先を映しこんで、瞬きをゆっくりと繰り返す。
「あ、気づいた」
「それを、もう少し、かたく……」
「うん?」
 すず雪の額の上から外し、氷水にひた直した布を青年が手のひらでつぶすようにしぼっている。
 少しむずかしそうな顔で丁寧に水を切ろうとしているが、ちっともうまくいっていない。あまり手首に力が入らないらしいと気づいて、すず雪は周りを見まわす。
 こう哉の足もとにはやたら大きな桶が運ばれていて、重そうな入れものの中は氷水で満たされていた。
「ちょっと、ためしになんですけど」
「……おためし?」
「はい、布を二つに畳みまして」
「……うん」
「輪になったほうを桶の取っ手に引っかけて」
「……この、でっぱりでいい?」
 桶から伸びた丸い取っ手に布をかけたこう哉に頷いて、念のため桶を足で挟んで動かないようにしてもらってから、両手でゆっくり布をまわしてみるよう言う。
「少しずつ転がすようにくるくるっと」
「ん、……ん」
 何度か指先をすべらせながら、それでも先ほどよりはずっと良い具合に絞り終えて嬉しげに顔をほころばせたこう哉は、いそいそとすず雪の額にあるのと取り替える。
「すっごくじょうずにしぼれた」
「はい。ありがとうございます」
「最近ちょっと痛くって困ってたから、たすかった。すごいねえ、すず雪。あたまいいや」
「手首を痛めてしまった人が近くにいて、たまたま見覚えてたというだけで……痛むのは手だけですか?」
「んー…、まあ」
 こう哉は何と答えたものかと悩むようにしながら、小さく平気と呟く。
 他に色々と困っていることはあっても、それが当たり前になってきていてぱっと思いつかないらしい。
 こう哉はむしろすず雪のほうが心配だというようにじっと見つめてくる。
「すず雪はだいじょうぶ?」
「あ……はい、平気…です」
「あれっ、そう?」
「まとめてしまうと、そうなってしまいますね」
 体が重たいとか、だるいとか、色んなところが痛むだとか。細かくあげたら切りがない。
 それに、ひとつずつの不具合を数え上げているとそれだけで新しい具合の悪さに変わってしまいそうだから、ざっくりまあまあで済ませてしまうほうが楽なのは、たぶんこう哉もすず雪も同じなのだろう。
 思わず苦笑すると、こう哉はやや不思議そうに瞬いてそばにちんまりと腰を下ろす。
 背を丸めて座るくせがあるようで、そうしているとますますこんもりと丸い兎のようだった。
 横たわったすず雪の顔を見つめて、眼差しの中に映し込む。
 明かりとりから差し込む白い光がこう哉の髪を照らして、ゆるやかな風の流れがふわりふわりと毛先を揺らして見えた。
 きれいというのとは、少しだけ違う。
 静かで、やわらかなおもざしが和やかな空気をつくりだしているのが心地よく、すず雪はわずかに微笑む。
「今は朝でしょうか」
「ううん、昼だよ。目が覚めたら、これ舐めるといいって言ってた」
 ふたつきの湯飲みに浅く注がれたものは蜜を薄めたものらしい。もちろん、ただの蜜ではないのだろう。みつばちのために作られたものらしいと気づいて眉を上げると、こう哉はすず雪が起き上がるのを手伝ってから、それをそっと押しつけてくる。
「それ、おれにはすごくおいしくないの。でもちゃんとしたみつばちだったら、変な味しないんだって。そう?」
「……そのよう、です」
 瑛千が用意したのは栄養を補うためのものだろう。口に含むとすっと鼻の奥を爽やかな香りが通り抜ける。質がよいものを用意したようで、ほんの少しだけ飲みこんだだけでも疲れ切った体に力が戻るようだった。
 変な味だと思ったことがないすず雪にはなんとも答えようがなく、それはむしろどんな味だろうと思う。
 こう哉を見れば、すんなり中身を飲み干したすず雪を何か信じられないものをみるような目で見ていたから、よほど不味いらしい。
 飲み終えて体を横たえたすず雪に、こう哉は丁寧に布団をかけ直す。
「すず雪は本当にみつばちなんだねえ」
「……確かに、みつばちではありますけれども」
「おれ、みつばちって羽づまさんみたいなひとを言うんだと思ってたから、すず雪がね、みつばちだっていうの、よくわからなくってね」
 羽づまがみつばちの基準なら、すず雪など到底みつばちには見えないだろう。
 そもそも見た目で判断がつくようなことでもないし、つけばついたらで、気をつけないといけないことが増えてしまって面倒に違いない。
 裏を返せばそれは、どうせある面倒なら一つも二つも変わらないというひらきなおりにも変わるのだが。
 羽づまの場合はそうだった。どのみち目立つ顔かたちをしているんだから、みつばちですと堂々と看板付けたって今さら何の問題があろうかというのが、羽づまが幼い頃から続く香津木家の方針だ。
「……わたしは父とは、たいそう違いますからねえ」
「羽づまさんって、とくべつなひとでしょ。だから、……あれっ、すず雪、羽づまさんお父さんなの?」
「?……はい? 羽づまは父ですけれども」
「ほ、ほんとうにっ? あっ、髪の色、似てるね? すごいねっ。え、瑛千さまに教えてあげないといけないや。瑛千さま羽づまさんのこといつもすごいすごい言ってるの。みつばちの、なかの、みつばちだって」
「彼なら、とうに承知の上ではないかと」
 こう哉の興奮に笑みをこぼしながら、すず雪は小さく首を振る。
 みつばちがどこの誰だとか花主は誰だとか、そういうことはあまり大きく伝えてはいないが、隠しているわけではない。
 ただし個人名は基本的に伏せるのがならいで、たとえばすず雪なら香津木家のみつばち、それだけで済ましてしまうことも多かった。
 瑛千はおそらくそういったみつばちの内情にも詳しい。もしかしたら彼は、魔法使いとしてそれなりの教育を受けてきたのかもしれない。
 花主になる権利を持つにはその申請や花果院の審査など細々としたことを済ませなくてはならず、魔法力が高いからといって自動的に付与されるものでもないし、それを望まない魔法使いだって大勢いるが、瑛千がそういったひとりである可能性はあった。
「こう哉さんは、どちらで彼と……、瑛千とです、知り合ったのですか?」
 すず雪は蜂主がどんなふうなことを施してみつばちに変えていくのか知らないし、実のところ、みつばちの体と、他の人のものがどういうふうに違うかも、あまり詳しくはなかった。だからはっきりと、こう哉の不調と蜂主とをつなげられはしない。
 けれどまるで無関係だとも思えなかった。
(全てを珠守任せにしてきたから、わたしはわたしのこともよくわからない……)
 すず雪はみつばちだが、みつばちのことにはあまり詳しくない。そういったことに気づいて、そのおぼつかなさに歯がみしたくなる。
 みつばちになろうとすること、それが、こう哉の体を損なうものであることは間違いない。けれどすず雪には、それがどの程度の話なのか、今のこう哉がどれぐらいの危うさに面しているのか、ちっとも分からないのだ。
 こう哉はすず雪の少年らしい華奢さを残した手のひらと自分の手を比べるように窓明かりにかざして揺らす。
 座り直したこう哉の横顔は淡くやわらかで、静かなあきらめと安らぎとが不思議に混ざりあっているようだった。こう哉はおそらくある程度のことは分かっているのだろう。みつばちになろうとすることは、当たり前に持っていた体を損なっていくことでもあるのだと。
 望まないことをしているという悲しみはそこにはなく、かといって希望に満ちあふれながらただ一途にすすんでいるという感じでもない。それが、すず雪にはうまく飲め込めなかった。
「瑛千さまはね、みつばちが大好きなの」
 こう哉はああでもない、こうでもないと言葉をさがすようにもごついてから、口をひらく。
「おれ、街で糸を紡ぐ仕事をしてて。こう…とんとん、で棒で綿をたたいて、ほぐすの」
 こう哉は床に手を並べて片手だけを上下に動かし、そうしてほぐした糸を別の職人が糸巻きにかけるのだとその手真似をする。
 子どもたちが小遣い稼ぎでやるのがほどんどで、染織などを行う職人が工程のひとつとしてこなす場合も多い。
 こう哉がつとめているところでは分業が進んでいたから、数は少なかったが専任もいた。出来高制だから、手際よく出来ないとあんまり稼ぎにはならないのだが、丁寧だと言って褒めてくれる職人もいたし、黙々と同じことをするのがこう哉はあんまり苦にならなかったから、だいぶ長いこと続けられていた。
「母さんと父さんは早くに死んじゃったけど、ねえさんや弟たちがおれにそのまま家を使えばいいって置いておいてくれたの。そのおかげもあってね、綿叩きでもなんとか暮らしていけてて。でも、……全部焼けちゃった」
 隣の家からのもらい火で、連絡を受けて駆けつけたときには何もかもが黒く燃え尽きた後だった。
 火もととなった家には老婆がひとり住んでいたが、庭先で倒れているのを近所のひとが見つけたときには息がなく、これはたいへんだと走りまわっているうちにかまどに残っていた火が飛んだらしい。気づいたときにはもう、どうしようもなかった。
 身寄りがなく、隣のこう哉たちをいつも自分の孫のようだと言って嬉しそうに見てくれる。こう哉にとっても祖母のような人だった。
 姉弟たちと遊んだ縁側も、ときおり夕飯をわけにきてくれた老婆も、びっくりするぐらい簡単になくなってしまった。
 どんなに振り返りたくても思い出を残したものはすべて失われたのだと。そう納得するのは、考えていたよりもずっとむずかしくて。
 記憶を辿ることは出来るし、物があってもなくても、こう哉はこう哉だ。それでも体のどこかを持っていかれてしまったように、心細くてさびしい。
 ぼんやりと立ち尽くすばかりのこう哉に、近所のひとたちも、姉弟もずいぶんと心配し、姉をよくしてくれていた贔屓の客が口を利いて、借りられそうな家を探したり家財道具をそろえてくれた。あや嶋がどんなに弟たちを大切にしてきたか知っているから、これくらいのことはなんてこともないと。またいつもどおり笑えるようになったらそれでいいと言ってくれた。
 あや嶋が見習い華妓だった頃から知っているひとだったから、当たり前のようにそういう心づかいをしてくれたのが、ありがたくって、嬉しくて、こう哉はずいぶん泣いた。
「お鍋もねえ、すごいぴかぴかで。すごく嬉しくって、ちょうどお祭りが近かったら玄関にいっぱい糸をかけてもらって、きれいだったよう」
 色あざやかに輝く糸の束が眩くて、胸がふくらんだとこう哉は口もとをほろこばせる。
 店先で見かけた真剣な顔を思い出しながら、すず雪は頷いた。
 祭りが近づいてくる楽しさや、華やかさは、すず雪も好きだ。香はるや兄弟子の顔を思い出す。
 こういうときばかりは華妓に甘えて菓子屋でみやげ物を買ってもらってもなんにも言われないし、兄弟子たちもあれを食べるかこれを食べるかと屋台に連れてってくれた。
「ねえさんは、ひとり立ちを早めてもらって、一緒に暮らそうって言ってくれたんだけど、ぜいたくしないで、そうっと暮らしていけば平気だと思ったし、華妓のひとり立ちはとくべつなことでしょ。おれ、ちゃんと綿をたたけるから」
 華妓のひとり立ちは、本人の事情一つで決めるのはむずかしい。だいぶん前から挨拶まわりや、祝い品の手配が必要で、とにかく時間も手間もかかる。あや嶋はこう哉を借家で一人暮らしさせるのがよほど不安だったのかもしれなかった。かといって住み込みの働きぐちでは、こう哉にはついていけないだろうというのが姉弟の一致した意見だったらしい。
(職人の街だものなあ……)
 手先があまり器用そうには見えないこう哉には、今からどこぞに飛び込んだって、馴染むのにどれほど時間がかかるか分からない。少なくとも、こう哉には綿をたたくという仕事があって、続けていくことに支障はないのだから、そのまま同じほうがいいだろう。
 火事やらなにやらでしばらく休ませてもらっていた店にふたたび出はじめたこう哉だったが、そこには新しくよそから来たのだという同年代の男がいた。
 別にそれで、こう哉のやることがなくなったのではない、ただ別の仕事を補うために人が増えたというだけだが、それでもそれは大きな違いになった。
 大きな店だったから人が入れ替わるのは珍しいことではなかったし、店の中でもわりと責任のある立場についていた男だったから、本来だったらこう哉にはあまり縁がない。ああそうなんだと思って、当たり前に挨拶をした。
 そのときに今夜は酒でもどうかと言われて、こう哉は少し悩んだのだと話す。
「あんまりお酒得意じゃなかったし、ぜいたくはできないもん。だからごめんなさいって言ったの」
 そこからだ。少しずつ、いつも通りのはずだった毎日がずれていった。
 仕事が遅いと言われて、着るものもやぼったいと笑われる。男のからかいはとても明るい口ぶりだったから、周りの者もつられて笑うし、目上の相手に表だって言い返すのも具合が良くない。
「今までだってのろまだって言われたり、いらつかれたり、それは確かにその通りだったし、でも、おれはこうだし。なるべくうまいこといけたらいいなあって、考えたり、色々ためしたりしたけど。でもね、毎日笑われてるとなんだかね、おれ、分からなくなって。いっぱい、おまえなんていらない、って言われてるみたいでしょ。なんでそこにいるの、って。そう思ってしまったらね、おれ、なんだかもう……ぜんぶが、こわくなってしまって」
 今までどうして平気だったのかと思うぐらいにささいな言葉や視線がおそろしかった。何を言っても、やっても、ダメだと笑われてあきれ返られて、住み慣れない部屋に帰っても、誰も話す相手はいないし、何もかもまだ馴染みきっていない新しい暮らしだった。
 男は飲んで騒ぐのが好きだったし、付き合いが悪いやつだと何度も言いっていたから、それに付き合えばうまくいくのかもしれない。
 そう思って足を運んでみたが、ぎりぎりの暮らしがさらにむずかしく、厳しくなるだけで、その日その日に食べていくことをどうやって続けていけばいいのかも分からなくなり、水ばかり飲んで体調を崩しがちになった。
 後で分かったことだったが、男は華妓の姉の口利きで家を用意してもらったことをねたんでいたらしい。さほど苦労することもなく、のうのうと過ごしている。それに腹が立っていたのに、自分の誘いにも応じられない気が利かなさが余計に鼻についたのだという。
 うまく男を持ち上げて、あんまりねたまれずに済むように立ち回れたら。仕事をもっと早く仕上げられるようになったら、あるいは何を言われても気にしないと強くいられたら。
 そういったことをうまくできたら良かったのだと思っても、こう哉に目の前にあったのは、色んなことが立ちゆかなくなっているという困った自分自身だけだった。
 一度小さくけずられていった気持ちは息をしていくこともずっしりと重くして、目の前を暗くしてしまう。ただただこのままではいけないと、それだけが分かった。
「……川を渡れば、何とかなるかなあったの。ごはんも食べられるし、ねえさんたちが揃えてくれたおうちも、残せるって」
「川を、…渡る?」
「ああ、そうか。あのね、色里に入ることをいうんだよ。ここは川を隔てて、ふたつの街が並んでるから」
 姉はたぶん怒る。だから黙って、気づかれないように。
 早くに両親を失ったあや嶋が弟たちを養うために華妓の道を選んだことは、こう哉も気づいていた。華妓になりたいと思えたから、それを選べたから、川を渡らずにいられたともいえるかもしれない。
 それが正しいことなのかどうかとかは考えないようにした。こう哉にとっては、ふたたび家を失うことのほうがいやだった。川を渡っていけば綿をたたくよりもずっと稼ぎになることだけは、はっきりしている。
「でもあてもないし、客引きのおにいさんたちはちょっとこわいし。困ってたら、瑛千さまが話しかけてくれたの。話を聞いてくれて、玉子焼きを食べさせてくれた」
 こう哉が好きな、だしをたっぷり使ったあつあつの玉子焼きだ。
 それはもう、おいしくって、喉が焼けそうに熱くって、何度もはふはふ息を逃した。
 瑛千は特別な技術を持った存在として、色里では大切に扱われている。珠守もそうだが彼らは医師としてもかなり優秀だし、人当たりが良く、蜂主が育てた子はたいそうな高値になって客も切れない。
 こう哉の話を聞いた瑛千はそれなら自分のところに来てみないかと言った。たとえ途中でみつばちに変えられるのがいやになっても、このままどこかの店に厄介になるよりはずっと高い給金をだせるし、いつやめにしたってかまわないと。
「こう哉さん。もうやめにしたって、いいんじゃありませんか。だいぶ、体が辛いのではないかって、思うんです」
「……ん、お酒が飲めない体を飲めるように変えていくみたいなこと、って瑛千さま言ってた。だからどうしても悪酔いしたり、あんまり無茶をすると体が保たないって」
「花果院を知っていますか? そこでなら、こう哉さんの体のことを分かってくれます。王城の後ろ側にある建物なんですけれども。直接は行けませんが、わたしが紹介状を書きますので、それを東三門の衛兵に見せれば通してもらえるはず」
 蜂主の施術を受けたと伝えれば花果院は保護してくれるだろう。すず雪の名前を出せばおそらくむげにされることもない。
 香津木家というのは、みつばちを数多く送り出しているから、すず雪にはなんの力がなくっても、門前払いということだけはないはずだ。
「こう哉さん。このままだったらたぶん、できることも、できなくなってしまうんです。わたしはみつばちで、みつばちが良くないものだとは、言いません。思ってもいません。でも、たぶんみつばちは、なろうとするものではないんじゃないかって、思うんです」
「すず雪は、おれのこと心配してるの? 迷惑かけちゃってるのに、おれ、瑛千さま止めなかった」
 すず雪を連れ去ろうとしている瑛千に気づいたが止めなかった。
 家が焼けてしまう前のこう哉なら、姉の怒りにびっくりして、おろおろしていただけだったろう。少なくともここにはいないし、すず雪をなんとか逃がそうとしたかもしれない。
 けれど、こう哉はそうしなかった。
 こう哉の戸惑いにすず雪は言葉を選びかねて、ただゆるく首を振る。
 みつばちであることは役目でも義務でも希望でもない。ただの事実にすぎず、考えるまでもない当たり前のことであって、少なくともすず雪はそれで誰かが死んでしまうなんてことは受け入れられなかった。
「こう哉さん……」
「すず雪、ごめんね」
「…………」
「でもね、瑛千さまはね、おれのことを好きって言ってくれたから」
「……こう哉さん、それは」
 彼をみつばちにしたいがために、適当なことを言っただけかもしれない。
 すず雪はとっさにそう考えたが、それは小さなほほえみをうかべたこう哉の顔を見てその言葉は重たい石に入れ替わったように喉奥に引っかかる。
 こう哉も分かっているのかもしれなかった。
 彼の興味は、みつばちを作り出すということ。ただそこにある。
 嘘はついていないかもしれないが、みつばちにやってみたいと思うことで頭がいっぱいで、よそごとは入ってきにくい。
 恋心や、愛情で。瑛千がそれを口にしたわけではないのだと。それはもうどうしようもないことなのだと。
「おれが、勝手に悲しくなって。がまんできなくなって。たぶんそれだけのことだと、思うんだけど。瑛千さまに好きって言ってもらったら、平気になれたの」
 なんだか体の端から壊れていくような気持ちになっていたから、と、こう哉は呟く。
 いつのまにかもうどこにも行けそうにもないと思えてきて、立ち止まった足もとが見えなくなっていた。
 花が実を結ぶように、魚が水の中にいるように、ただあたりまえに過ごしてきたことが遠くなっていく。
 こう哉のそばにあったいつも通りはぜんぶ途切れてしまった。
 綿たたきの仕事があって、職人がいて、それを身につけていく誰かがいて、繋がりが続いたところに暮らしがあったのだ。一度それが途切れてしまって身の置き所がないと感じたら、ふっつり切れた糸がからんで落ちる。
 家があったところが平らになって、ぽかりと穴が開くように、体のどこかが抜け落ちてむなしさだけがふえて、こう哉は訳が分からなくなりかけていた。
「おれ、瑛千さまに欲しがってもらった。そうしたら、祭りの糸がかけられたみたいに、ぱって、前が明るくなって。こういうのって、すくわれた、っていうんだと思ったの。瑛千さまはただ好きなことをしたくって、たまたまおれに目をつけただけなんだけど。それでも、そう言っていいかなって思ったんだよ」
 こう哉をねたんではけ口にしていた男と、その体を自分の興味ひとつで作り替えようとしている瑛千。どちらがより悪党かと世間に問いかければ、たぶん後者に違いない。それでも実際にこう哉が押しつぶされていったのは店の男の存在で、つなぎ止めたのは瑛千だ。
 すず雪は舌の奥がしびれように言葉をからませ、浅く息を吐く。
 こう哉が抱いたかなしみに飲まれたように頭の芯が重くなり、鼓動が跳ね上がって熱があがる気がした。
 自分のほうが正しいと言い切れたら楽になれる気がする。けれどそうしてしまったら、何か大きく間違ってしまうような気持ちもして、かたく目をつぶった。
「わたしは。……生まれつきのみつばちです。みつばちであるのは当たり前のことなんです。母はそれが受け入れられず、そうでなければと願っていたとしても、みつばちではない自分は想像が出来ない」
「すず雪のお母さんって、えっと羽づまさんの奥さんだから」
「りん佳です。この街の華妓だった」
「りん佳ねえさんは、川に近い人だったもんねえ。おれだったら、とうとう頭に綿をつめちまったのか、って言われそうだなあ」
 子どもの頃に姉にくっついていったら、よくそう叱られたらしい。
 こう哉の口まねはあきれた華妓がいかにも言いそうで、思わず笑ってから、首を傾げた。
「……川に近い?」
 尋ね返したすず雪にこう哉は何の不思議もないことのように頷く。
「ねえさんははじめ、川向こうにつくはずだったって。そっちに売られることになってたけど、船頭が間違えたんだって」
「……わたしは、遠縁を頼ってと」
「うん。この辺の家なんてたどればみんな遠縁だもん。三鶴屋のおかあさんは幼い娘を亡くしたばかりで、りん佳ねえさんが似ていたから、それで預かることにしたんだって聞いたけど」
 思いがけない話に息を飲んだ。
 長く引っかかり続けていた言葉の先にあったものが腑に落ちる。
 たまたま船頭が間違え、三鶴屋のあるじが失った娘に似ていたことで、手に入れることになったもの。
 運も実力のうちとはいう。けれどそれはあまりに不確かで、頼りない。けれどその運がりん佳の道を変えた。
 もちろん、りん佳は華妓としての足場をより確かなものとするため芸を磨き抜いたのだろう。鏡ひとつきりの部屋の中は舞の型をさらうにはちょうどいい場所だったのだろうし、それだけ舞が好きだったということもあるかもしれない。
 そうやって日々を重ねて、たまたま羽づまと出会い、子が生まれて。その子が、みつばちだと知ったとき。
 かつて自分が得た船頭の間違いを、三鶴屋との縁を、そういった偶然の何かを望んだと考えてもおかしくなかった。
 りん佳は自分があまり長く生きないと自覚していたふしがあって、大きく体調を崩すことになる前から、具合が悪そうにしていることがあったようだった。
 望んだからといって転がりこむようなことじゃないと重々分かってはいても、かつて確かに自分にも起きた何かが。何かを選べるという広がりが生まれることを期待する。
 先は長くないと感じていればいっそう願いは強く、言葉になってあらわれたかもしれない。
「す、すず雪? い、痛い? 苦しい? あ、熱が上がったのかな、仰ごうかな…っ」
「いいえ、……大丈夫。平気です」
「でも泣いてるよ…っ?」
「嬉しい……たぶん、嬉しいんです。わたしはずっとわからなくて、気づけなくて……」
 みつばちになんて、なってほしくないと。
 それは確かにみつばちであるすず雪を拒む言葉だった。
 けれど何かが運良く変わって、幸いがあるようにと願うことには。
 悲しませていただけでもない。否定されたということでもない。ほんの少し違う見方にあるのは、歩もうとする先へすず雪の自由な、手と足が立つことを願う。
 ともに行くことのない道のりに、寄りそわせた情がそこにあるような気がした。もちろんそれが思い違いである可能性だって、ありはする。それどそう思ったって、かまいはしないのだ。
「こう哉さん、手を、繋いでみたいですけれど……よい、でしょうか」
「う? ……うん」
 唐突な申し出にこう哉はぎょっとした様子で目を見ひらいてから、おずおずと両手を差し出す。
 差し出された両手はよく見ればところどころかたくなっていて、綿を繰り返し叩いてきた職人の手であることが見てとれる。
 そうっと握れば氷水に繰り返しつけらた指先は冷たくて、少しびっくりしたすず雪は温もりを移すように手のひらで包み込んだ。
「こう哉さん、……ありがとうございます」
「……うんん? おれ、なんにも」
「嬉しいんです。話せて。だから」
「おっ、おれも、すず雪と話すの、楽しい。けど、でも…すず雪に嫌なことしてるし」
「わたしがだいじにするものと、こう哉さんがだいじにしているものが、たぶん違うんです。今のわたしには、それがどんなふうに違うのか分かりません。けれど、それは分からないからってどうでもいいことじゃないとも、思って」
「……うん」
「こうやって手を繋いだら、たくさん綿を叩いてきたんだろうなあって思いますし、すごいなあとか好きだなあって思います。そんなふうに近づいていったら、少しずつでも、そのふたつのだいじさが成り立っていけるかなあって、思って」
 こう哉はどこか困ったように手のひらを見下ろし、少しずつあたたまっていく指をそうっと動かして自分とは全く違うすず雪の、ほっそりとした指先をためらいがちに握りしめる。
「すず雪の指、たこがあるね。ねえさんも同じとこがかたいんだよ」
「三弦琴を鳴らすからでしょうか。わたしは鳴り方として暮らしてきたから」
「えっ、三弦琴っ。華妓のねえさんたちがあの音の中で舞うの、すごくきれいで好きだよ」
「はい、わたしもそういうねえさんたちを見るのが、とても好きです」
 今ここに三弦琴がないのが残念だった。
 あれをつまびいているときが、すず雪はいちばん落ち着ける気がする。
 きっかけは母のことがあったからだが、今はもう、肌に馴染んだあの空気がすず雪にとって大切なものになっていて、だからそれが恋しい。
 泣いたら、なけなしの体力まで流れてしまったのか。急に眠たくなってしまって、すず雪はふわりとあくびをする。
「……少しだけ。時間をください」
「うん、起こさないでってちゃんと言うね。たくさん休めるようにって」
「こう哉さん。わたしはみつばちですけれども……」
 言葉の先はうまく形にならず、すず雪はむにゃりと寝言のようなささやきを残す。
 こう哉は驚いたように目を見ひらきながら、繋がったままの手のひらを少しだけ強く握って、起こさないように隣に寝そべった。眠るすず雪の体をそうっと包み込むように布団を引き上げ、ぽんぽんと叩く。
 そのままこう哉も眠りに落ちてしまい、瑛千が様子を見に来たときには仲良く並んだ二人がともに寝息を立てていた。



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