わずかな苦味が舌の上に広がる。 口もとにあてがわれた覆いから吸い込んだ煙りのせいだろう。 薄く目を開けたすず雪に瑛千は手にしていた器具を片付けながら穏やかに笑った。 「配合を変えてみたよ。前のはすぐ意識を失っちゃって、あんまり良くなかった」 「……瑛千」 好奇心の旺盛さと、その為に周りが見えなくなる性格はまったく困りものだと思う。研究者にはありがちなものなのだろうが、それに付き合わされるほうはたまったものではない。 ひどく自分勝手だが誰かを貶めて楽しむような性格ではないし、なんでもかんでも興味の赴くまま突っ走っているわけではないようだが、その線引きがどこにあるのかはつかみきれていなかった。 すず雪にとっては、それがどこにあっても面倒なことに変わりはないが。 気にくわないとはっきり言えたらいいのに、なんとなくそこまでいたらない。体に手を加えられることも珠守と接しているのとさほど変わらないような気がしてしまって、危機感に乏しくなってしまう。 新たに含まされた薬効が血の気が引いていた頬に赤みを戻し、指先に力を戻させる。 同時に訪れる餓えにも似た感覚は二度目だから、そんなに驚きはないし以前よりはゆるめられているらしい。 着がえさせてくれたらしい洗い立ての布地が肌に擦れて息が上がる。こう哉の着物なのか、すず雪には肩幅も袖も大きくて、手足にずるりと布がまとわりつくのがわずらわしかった。 「目覚めたてのみつばちが己の欲求にあらがえることは少ないんだけど、抑えがうまいね。ずいぶんと上手に教えてもらってる」 「こんなことを他のみつばちにしたら、すぐ弱ってしまうんですからね。あなたにとっては運良く、わたしにとっては運悪く、たまたまこらえきれられているだけなんですから」 すず雪は裾から手のひらをもぐらせ肌に触れてきた男をあきれ顔で見下ろす。 真剣に諭すような言い方に瑛千は苦笑をうかべた。 「やっぱり親子なんだねえ、肝が据わってると言うべきか。ちょっと変わってるというか」 「あなたに言われたらお終いでしょう。だいたい父はそう言った言葉でまとめられる人じゃないです。もっとうんとすごいんです」 「言い切るね。まあ、なんだってそっくり同じなんてものはないし、それがおもしろいところでもあるけど、なんというか、雰囲気かなあ。すごく好きな感じだよ」 「あなたに気に入ってもらう必要はないです」 心の底から言い切れる。 瑛千は顔立ちも決して悪くはないし、肌をくすぐる手のひらも加減をよく心得ていて、気持ちよさがじわりとしみ出してくるようだ。 それでも、彼はすず雪の好みではない。 「えええ、つれない。羽づまもねえ、一度もこっち側を選んでくれないんだよね。珠守や花主なんて、いらないと思うんだよ。なんでだめなの?」 瑛千は薬煙の影響で感じやすくなった体を確かめるように撫で、わずかに頭をもたげた性器に指を絡めると、やんわりと手のひらに包み込む。形を丁寧に撫でたどりながら、熟れきった果実をいじるように滴りを指にからめ、先端を押しつぶしてくる。 力を加減しながらぬめりを押し拡げるようにえぐり、根元から丁寧にぐにゅりとつぶされて、ひっと息を飲んだ。快感に体が震えた。ひどく巧みで、優しい手つきにあっけないぐらい簡単にどろりとしたものがあふれるのを、瑛千は満足げに見下ろす。 「……っ、蜂、主に…身をゆだねるなんて、つまらない、でしょう」 「そうそれ。どうしてかなあ。羽づまもそう言うんだよ。気持ちがいいところがどこかも、体がどんなふうになってるかも、全部分かって叶えてあげられるのなあ」 「たとえすべてが分かったって、あなたはわたしじゃありません。それに、人には黙っておきたいことだってたくさんあるもんです」 三弦琴を鳴らすのがどんなふうに楽しいのかを瑛千はうまく察してくれるかもしれないし、望み通りに体調をととのえてくれるかもしれないが、そのうちすず雪は話すのも億劫になって、目線や仕草だけで済ませようとするものぐさになりそうだ。 そういうふうになるのをすず雪は望んでいないし、それはとてもつまならないと思う。 「すべてが筒抜けになんてならないよ。分からないことがいっぱいあって困るぐらい。羽づまも君も、たぶんもっと高く飛べるんだよ。なのにそんなの好きじゃないって、つれないんだ」 残念だなあとため息を吐きながら、瑛千はすず雪が放ったものを小さく舐めて手もとに用意した薬瓶を見比べる。 「君は上等なみつばちだなあ。びっくりするぐらい、いいのをつくるね」 「ちっとも嬉しくもありがたくもありませんし、いちいち舐めないでください」 「そんなもったいない。このツヤ、照り、色、みごとでしょう」 だいたい君は少し自分に無頓着なんじゃないのかなと続けられて、さすがのすず雪もむっとする。 この状況でどうして説教されなければならないのか分からない。 瑛千は真面目な顔でそもそもみつばちとは、と語り出しながら、混ぜ合わせた薬液に魔法石の小さな粒を落とす。 すず雪は床にだらりと寝そべったまま瑛千の手もとを見つめ、少しずつ体を覆う器に水を満たされていくような息苦しさに浅く息を吐いた。 沁み込んでくる魔法の力をはばもうとあがくが、それは途切れなく集まり渦を巻いて周りを囲み、ここ数日のうちに繰り返し満ち広げられた体が軋む。 もういらないだろうとすず雪自身は思うのに、体の奥に流れ込む魔法の力を感じ取る度にどこか甘く悦びがわいて、まだどこかもの足りなさを覚えるのだから、つくづくみつばちの体というのはおかしなものだと思う。 瑛千が見ているみつばちの姿はどういったものなのか、すず雪には分からない。もしかしたら瑛千自身もよくは見えておらず、だからこそ、興味をかき立てられるのかもしれない。 (だからといって、いいようにされてかまわない、ってことじゃ、ないけど) 床にずるりと広がった袖を引き、すず雪はゆっくりと身じろいだ。 額からすべり落ちていた熱冷ましの布をつかみ、手もとの作業に集中している瑛千をじっと見つめる。 「やっ、待って、そっち行かないで、お茶、お茶出すから」 「……っ?」 「んー?」 扉の向こうから、こう哉のばたついた足音が響く。 一瞬眉を寄せた瑛千はため息とともに手もとの道具を手早く片付けた。 「いやだねえ、この忙しいときに」 ため息混じりに立ちあがった瑛千が扉の前に立つ。 鍵を解いたらしい。すっと、外からの風が部屋の中へ吹き込む。 「いやいやかまわなくていいんだよ。君のお茶はたいしたものでもないし。瑛千はどこだ、ずいぶん入り組んだ結界魔法を重ねおって」 「ここにいますけど。あのう、困るんですけどね。しばらくお休みするって言ったでしょう?」 「蜜珠だ。蜜珠をつくれ、瑛千。金なら出しているだろうが」 そのままどこかに場所を移すのだろうと思っていた瑛千が、そのまま部屋の中に男を通すのにすず雪は驚いた。 思わず振り返ると、入ってきた男と目が合う。 丸い顔にぎゅっとつめられた目と鼻に見覚えがあった。 (……小芋?) 顔と手足とでっぱった腹とがころころと連なっていて、小芋みたいに見える。 煮ても焼いてもおいしくはできそうにないのが残念だなあと、すず雪はぼんやりと思って、その考えに首を振った。 花園の端から迷い出た先で、会った男たちのひとりだろうと思い出す。名は知らないが、ナナセルたちは彼らのことを神殿の関係者だと話していた。 「この子ども、……まさか香津木の、みつばち……?」 「おや、ご存じで?」 「なぜこんなところにいる! まさか蜂主であるおまえがしつけに手を貸しているのか?」 「しつけ? ……ああ、うーん、わたしには手が余るだろうけどねえ」 にこにこと目を細めた瑛千の顔は何を考えているのかよく分からない。男はひとり納得したようにそうだろうとばかにした顔を浮かべてから、横たわったすず雪に近づいて鼻を鳴らす。 「いい匂いだ。作りものじゃあこうはいかん」 「だめっ。お客さまの相手は、おれのおしごとだよ」 慌てたようにこう哉が飛び込んでくる。 すず雪に近づかせまいと腕をとろうとしたこう哉の手を、男はいらだたしげに打ち払った。 「作りもの風情がでしゃばるな。このみつばちはな、星透珠を孕める。君にはどう頑張ったって、できないものをだよ」 「せ、せ…? …?」 「蜜珠の種類です。模様とか、力のつくりだとかで、分けられていて」 首を傾げるこう哉に話しながら、袖を引いて起き上がるのを手伝ってもらう。 こう哉の腕に支えられたまま、すず雪は男を見上げた。 「地味なみつばちだと思ったが、こうやって改めて見ればなかなか艶もある。支度をさせろ、瑛千。香津木家のみつばちが孕んだ珠なら高値がつくぞ」 「直々にお相手をなさるおつもりで?」 「花主なんぞにならなくても、誰の珠でも孕む体だ。問題はなかろう」 その通りだと言えば、まさにそうだ。 新しい魔法の気配に肌のすみずみまで尖り、欲している。 体の奥であふれかえったものをどうにかするために、魔法使いが必要だった。 手を伸ばせば届くところに、それはある。 薄く唇を引き、笑みを浮かべたすず雪をこう哉はどこか怯えたまなざしで首を横に振った。 「だめっ、だめだよ。本物のみつばちには、決まった花が必ずいるって聞いたもの。その蜜だけを集めるの」 「こう哉さん。平気です、少しだけ離れていてください」 いやいやと首を振るこう哉を、瑛千がそっと引きはがす。 すず雪は深く息を吐いて、汗ばんだ肌を風にさらすように首を上向けた。 「さすがに物わかりがいいな。どうせ魔法使いが欲しくてたまらないんだろう」 「……薬のせいで、ずっと体が火照ってしかたないんです」 淡い輝きを含んだような瑞々しい肌に赤みが差して、透きとおるような艶やかさをにじませる。 体に合っていない長い袖口から小さくのぞいた指先が恥ずかしそうに白くむき出しなった足に裾をからめるのを、男は食い入るようにのぞきこんだ。 今にもそこをあばいて、しゃぶりつきたい衝動にかられているのが傍目にも分かる。 「その手管で、花主たちをたらしこんできたのか。さすがに香津木家のみつばちだな、とんだ恥知らずめが」 「今も、珠をひとつぶ、抱えているんです。だからとっても苦しくて」 「なんだと。瑛千、早く抜きたまえ。それではわたしのが孕めないだろう」 焦ったように男が瑛千を振り返る。 分かりましたともと愛想良く頷いた瑛千は、すず雪の帯をといて、下腹に手を差し入れた。 指先が体内をくぐる熱さにすず雪は眉を寄せ、小さく喘いだ。 ただそれだけで感じてしまい、もらしてしまいそうになる。快感に震えるまなざしの潤みに男は思わず唾を飲んだが、取り出された珠を見て興奮のあまり声を上げた。 「おおっ、これは素晴らしい。月色に黄金の欠片がまざったようじゃないか。いい変わり珠だ」 「深く感じさせるほど、蜜の純度が高まりますから。この子は数日前から、体の中でたっぷりと蜜をたくわえているので、いい熟し方をしますねえ」 あっさり指先でつぶしたことさえある蜜珠を、瑛千はうやうやしげに房付きの布に乗せ、男の前に掲げる。 鱗珠と呼ばれる類のものだろう。 すず雪のような年若いみつばちが孕むのは珍しい。ある程度の月日をかけてためこんだ魔法の欠片が鱗粉のように光を散らしてできるものだと言われている。 らんらんと輝きだした男の目の前から、瑛千は珠をすっと隠す。 「旦那様の魔法の力だったら、どんな珠をつくるんでしょうねえ」 みつばちの珠は偶然のたまものだ。 だからこそ、いちいち花主にならず、出まわったものを手に入れたほうが楽でいい。 だが目の前で取り出されたばかりの珠の美しさは格別だ。ましてやそれが自分自身の力を含むなら、これ以上になく見事なものができるに違いなかった。 舌なめずりをするように傷跡ひとつない白い下腹を見下ろし、おさめきれなくなった下穿きの合間から、焦り気味に自身のものを取り出す。痛いほどに反り返ったものをそこに擦りつけた。 珠守としての素養がない男には、みつばちの珠を直に抜き出すことは叶わない。それでもそうやって腰を揺らせば、珠ごとかきまわせそうな錯覚に陥った。 「…っん、ぁあ」 男の物で下腹とそこから続く濡れそぼった性器とをぐにぐにとつぶされ、すず雪はそれだけでがまんが利かなくなったように首を振り、快感に涙ぐむ。 与えられる刺激に体を揺らし、背中が床に擦れるのを嫌がるように腕を伸ばすのを男はよしよしとなだめて肩にからませてやった。 「これくらいで感じるとは、いやらしいやつめ。これからたっぷり注いでや…、…ッ?」 腰にまわした手がかたく強ばる。 男はいぶかしげに己の手足を見下ろし、抱え込んだみつばちの肌がするりと離れるのを理解が出来ないというように目で追った。 「おやあ、どうしたの。旦那さまの魔法は、あんまりおいしくなかったかな」 「まずいというほど、味わいもなかったように思いますけれど」 「なっ、…っ。みつばちごときがわたしを…ッ」 男の声が頭の奥に響いて、わずらわしい。 沈黙を望んだすず雪の前で男の唇がぴたりと閉じる。 あきらかに顔色を変え、驚愕の表情ですず雪を見やる男を静かに見つめ返した。 男がその身に抱えた魔法の力の大半を飲みこんだので、体中が熱風に包まれたように熱かった。それなのに不思議と手も足も軽く、ふわふわと浮いているような気さえする。 体の奥深いところで含んだばかりの力が渦巻き、それが融けてつくりかわっていくような心地よさにすず雪はまどろむように瞼を伏せ、奪われたものを取り戻そうとするかのようにちらちらと引っ付いてくる欠片を指先で払う。 目を見ひらいたまま床に崩れ落ちた男を、こう哉は怯えたまなざしで追いかけるのが見てとれた。 「ど、どうしたの……な、なんかへん……」 瑛千は抱え込んでいたこう哉の頬をゆっくりと撫で、大丈夫だと言うように微笑む。 「みつばちは蜜の香りで操る、と言われてるんだけど。違うね、これは、……違う」 瑛千はどこかうっとりしたようにすず雪を見やる。 こう哉はためらいがちに瑛千の手のひらをとらえ、そのまなざしや指先から伝わってくる喜びを驚いた顔で見上げた。 瑛千が言っていることは断片的で、目の前のこととがうまくつながらない。ただ、これが当たり前のことではない、ということだけはこう哉にも分かったらしい。瑛千とすず雪を交互に見ると、細く詰めていた息を吐き出す。 「す、すず雪が……なんだか、すごくおっきくみえるよ……」 「おなかがいっぱいで、体がふくらんでしまった気がします。こう哉さん、わたしの体はどこか違ってしまったんでしょうか」 「おなかとかはでてないよ。同じ。……同じなんだけどな」 すず雪の見た目は本当に何も違わない。やさしげに引き上げられた口もとには、穏やかさと和やかさとがある。 むしろ、きれいだ、と思えた。 どこか艶めいた華やぎがあふれて落ちるように、すず雪が眩く見える。 けれど、この状況でそんなふうであるほうがずっとおかしいのだ。 今について何と言えば正解なのだろうとこう哉が言葉に迷う。そうしているうちに、いつのまにかすぐそばまで近づいてきていた瑛千に気づいて、すず雪は鋭く振り返った。 「……っ」 「珠をつくる流れがずれてる。……」 「そん、なの」 床に引き倒された体に無遠慮にもぐりこんできた手のひらが、飲みこんだばかりの魔法をかき混ぜる。 「ああ、違う。抑えをかけた? あの男のすべてを飲み干してしまえば良かったのに」 「……すべて、なんて無茶」 「相手の魔法をすべて奪い取ってしまえば、何もかも君のものになったのに。体も意思も命さえも、みつばちのものにかわるんじゃないのかな」 瑛千の声がやわらかく耳をくすぐる。 そうだ、と思えた。それを求めていたような気がして、いいや違うとも思う。 (……わたしのものになる? ……わたしの、?) 眉をひそめたすず雪は手のひらをうずめこんだ下腹部から、甘く痺れるような魔法の流れが新しく加えられていく。その衝撃にすず雪は手足をばたつかせた。 瑛千の魔法の力が入ってくる。……もうこれ以上は無理だった。はじめっからいっぱいだったところに、ぎりぎり押し込めただけなのだ。体が壊れる、ととっさに感じて、流し込まれているものを拒もうとしたがまったく手応えがない。 あけられたのは、ふただ。瑛千が持つ魔法の入り口。 そこから中身を引き寄せているのはすず雪自身であって、瑛千が傾け注いでいるわけでない。その手を押しのけようとしたって意味がないのだと気づく。 「え、いせん…ッ」 「もっと見せて。もっと」 悲鳴を上げ、すず雪はふくれあがった全身がはじけ散りそうな痛みと、体の中から歓びのかたまりがまき散らされているような圧倒的な感覚に涙をあふれさせた。 「え、瑛千さま、だめっ、…だめっ」 こう哉の声がどこか遠く、割れて聞こえてくる。 与えられていく魔法の流れが強まっていくごとに声も痛みも、何もかもが遠く平らにひらけていくようで、すず雪は自分を見下ろす男をまなざしのなかにとらえた。 (……瑛千) それを望むというなら、すべてを飲みこんでしまえばいい。 みつばちとして生まれもったものをひとつずつばらばらにされて、幾重にもかぶせられたものをはぎとられていくように、冴え渡っていくものがあるようだった。心地よさと恐ろしさとが体を満たす。 ぼやけはじめた意識の中で、それでもすず雪はゆるく首を振った。 (……それは、困る) これは違うと思う。 彼は、花主ではなかった。もちろん珠守でもない。 それは自分が選んだものではない。欲しいとも思わない。 自分でも驚くぐらい、そうはっきりと認識する。 ただそう感じていても体がどこか離れたところにあるようにつかみきれない。戸惑いながらあがくすず雪は息をつめ、それをゆるやかに吐き出す。 「……すずッ」 手足をぐんと引っ張られたような感覚に、硬い音が重なった。鼻をつく血の匂いに振り返り、すず雪ははっとする。 「にいさん、だめっ」 怒りで肌を青ざめさせた谷津江の眼差しは瑛千にぴたりと合わせられ、肩口に飲みこませた剣をじわりとねじらせながら、暗く目を光らせる。その静かで冷たい横顔にすず雪は首を振った。 かすみがさっと晴れたように目の前がひらけ、すず雪は辺りを見まわす。 「ジッヘルさま、すみません。にいさんを抑えておいてください」 「すず雪ちゃんが望むなら。……とはいえ、これは骨が折れそうだねえ」 「久夜、剣を抜いて。治療を」 「なんで、あいつの? 谷津江の好きにさせていいと思いますけど」 「……お願い。やり方は任せるから」 すず雪に抱きつきざま、くまなく全身を確かめはじめていた久夜はしぶしぶと言った様子で後を志じ麻に引き継ぐ。 相当口汚く罵りながらもジッヘルの腕から逃れられないでいる谷津江を横目に、瑛千の肩を貫く剣を無造作に引き抜いた久夜は、血があふれだした傷口に指をあてがった。 「いった、いたた。君、君、ちょっ、なにその治癒術、いったっ」 騒ぐ瑛千にいったいどんな方法を使っているのだろうかと首を傾げながら、みるみるまに塞がっていく傷口にほっと息を吐く。 「そこでほっとしちゃうんだから、まったくびっくりするよ」 「星映、さ……」 「遅れてごめんね」 深く重ねられた唇から体の中で暴れ回っていた熱がとりのぞかれていく心地よさに、すず雪は星映にくったりと身を寄せた。 あふれでた涙をやわらかく舐めとられて、そのくすぐったさに思わず笑みをこぼす。 そばにいるだけで、何かが明るく灯るような眩さが広がる。端正で、落ち着き払った星映の横顔に疲れのあとがのぞいてみえて、すず雪はそっとその頬に触れた。 「……ありがとうございます」 知った顔ぶれで、狭い部屋の中がぎゅう詰めだ。 星映の顔にふれているうちになんだか楽しくなってしまい、頬の形から鼻、口もとに指をはわせていたすず雪は急に恥ずかしくなってうつむく。星映はどこか満足そうにすず雪の耳もとにちゅっと音をたてて唇をふれさせた。 「そういう可愛い真似はふたりっきりのときにとっておいて」 部屋の外にも誰かしらいるらしいと気づいたものの、不思議と音が遠く、何かしらの魔法が使われているようだと思う。 そういったことにあまり詳しくないすず雪には何が起きているのか具体的にはつかみきれないが、現れたのもかなり突然で気配ひとつさせていなかったのだから、通常の方法はとっていないに違いない。 「瑛千さまっ、けっ、けがっ」 「こう哉。だいじょうぶ、ふさがってるよ」 服についた血の痕はおびただしく、生々しい。泣き出したこう哉の頭を撫でる瑛千の動きに怪我の名残はないとはいえ、治癒魔法というのはそれほど一般的ではないし、使い手は限られる。 こう哉は怯えた様子で剣が貫いていたはずの場所を指でたどり、首や手が繋がっていることを確かめるように袖や裾を真剣な顔でめくりあげている。 「それにしても、まさか花主たち自身がそろってやってくるとは思わなかったなあ」 「黙れ、死に損ないが」 のんきな瑛千に、低く、うなるような谷津江の罵りがかぶさる。 青光りする谷津江の目が今にも瑛千の喉もとを食い破りそうに細められるのに、こう哉はぶるぶると震えながら、谷津江の視界に立ちはだかった。 「にいさん、それじゃすっかり悪役です」 ため息をついたすず雪に谷津江のまなざしが向く。鋭く射るような目にふだんあるようなぬくもりの欠片はない。 「いさましくって、かっこうよいですけど。わたしはにいさんに、どうせならがんばったと撫でてもらいたいんですけれども」 ふくれあがった怒りが熱を含むのだろう。谷津江のそばにいるとじわりと汗がにじむ。ただしそれは視線ひとつで背筋を重く凍らせられて寒気にかわるから、なんとも忙しい。 すず雪はかまわず、体をぴったりとくっつけた。 ジッヘルに捕らえられたまま身動きがうまくできないらしい谷津江の喉もとにぐいぐいと頭を押しつけ、頬をすり寄せる。 「にいさん」 「すず、……なんだそれは」 「撫でられ待ちです」 「それじゃ頭突きだ。もっとやりようがあるだろが」 「ないです。ほら、にいさん」 まったく手がかかるとばかりに、すず雪は瑛千の血で染まった手のひらを袖でぐいぐいと力強く拭う。 額に乗せていた布がいつのまにか袖口に入り込んでいたのに気づいて、これ幸いとばかりに仕上げに使った。 「にいさんは思いのほか、指が長くって」 なかなか拭きがいがと続けたすず雪に谷津江は天を仰ぐと、大きくため息を吐く。 そのままそろりと壊れものにでも触れるように両腕を動かした。ジッヘルの拘束がとれたのか、そのままぎゅっと抱え込んで髪先からゆっくりと撫でる。 「……まったく、撫でろなんてどの口で言うんだこのまぬけが」 「にいさんに撫でてもらえると、とっても嬉しいですから」 なにしろあんまり褒めるということをしてくれない谷津江だ。 ときおり、本当に偶然みたいな程度に、よくやったというような顔をして頭を撫でてくれるのが、ひどくしあわせな気持ちを形づくる。 うっとりしているとすぐそばから笑みが伝わってくるのが分かった。 「すず雪ちゃんはいい猛獣使いになれるねえ」 「はぁ? どこかだ。とんだぼんやりなだけだろが」 「ジッヘルさま。……ん、っ」 やわらかに絡んだ舌に息を上げ、すず雪は谷津江の腕に抱かれたままジッヘルの口づけに体を震わせる。 星映におおまかにぬぐい取ってもらったものを、きれいに整え直していくような鮮やかさだ。ジッヘルはすず雪の中であふれかえっていた魔法の力を、おさまりよいように手を加えながら、心地よさと歓びと安堵とを与えてくれる。 くちゅっと濡れた音が響くのが恥ずかしくて、けれど耳をふさぐことを忘れるぐらい気持ちも体も奪われてしまう。 「飲み込めるかな」 「……ん、は」 やわらかに耳に触れる囁きにこくりと頷いて、たっぷりにじみでた唾液ごとジッヘルの力を喉の奥へとすべり落とし、ぼうっとしながら唇を離す。 「人の腕ん中でよくまあやってくれる」 唇が離れるまで鼻筋にしわをよせたままじっとこらえきった谷津江が、飢えた獣のように唇から喉に吸い付き、きつく噛まれて、こしらえられた歯形の痕を久夜がまなじりをつりあげながら治すのをすず雪は微笑みとともに受け入れた。 「おまえさんがたそのへんでな。こっからでるほうが先だろ」 志じ麻はそのまま床に引き倒されそうなみつばちを花主たちから取り上げ、腕の中に抱え上げる。 すず雪は志じ麻のかたく引き締まった首に腕をまわして、細く息を吐いた。 「志じ麻。すみません……、玖おんにも迷惑をかけてしまって……」 「気にするな。ま、俺も含めてちょいと力不足だったってことさ」 「あの、みなさんに、お願いごとがあるんです」 小さく囁くように口にしたすず雪に、星映も、谷津江も、ジッヘルもどこか困ったように笑みをうかべ、静かに頷きを返す。 「兄さまのお願いなら、しかたありません」 まあ、細かいことはあとにしましょうと告げる久夜に頬をやわらげ、すず雪はゆっくりと瞼を落とした。 |