「andante -唄う花-」



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「また何かあったら、すぐに言うのよ」
「うん。ありがとうナギ姉」
 相談事も終えてほっとした気持ちで立ち上がる。
 そろそろ帰らないと、迎えの車が学院の周囲で無駄に徘徊してしまう。
「みんなに挨拶してから帰るね」
「ええ、そうして」
 この格好のままは嫌だけど、男性は面会室より奥には一歩たりとも入れない。
 不本意ながら初等部を女生徒として過ごしてきたオレは、身振りや喋り方など、学園の生徒と同じものが身についている。途中途中、オレの先行きを心配した三ツ原家の人々が男性としての振る舞いも教え込んでくれたので、なんというか、オレにとっては、蓮莉とオレとは別もの、そんな感じできっちり棲み分けがされていた。
「では、行ってまいります」
「…………」
「…………」
「………世儀?」
 重ねて言うけど、娘の格好をしているときはオレは蓮莉という少女で、それは違和感なく入り込める疑似人格というか、演技というか、で。
 でもまさか扉を開けたら目の前に少し前に別れた領様がいるなんて予想外だった。





「それで蓮くん、どうしたの?」
 あんまり驚いたので真っ直ぐ世儀の家には帰らず、三ツ原家に立ち寄った。
 カオ兄はオレのためにホットミルクを入れてくれて、温むのを待ってから差し出してくれる。
 そうするのはオレの猫舌を気遣ってくれてのことで、あんまり冷たすぎるのとか熱すぎるのとかが良くないという考えだからだ。
 膝を抱えて居間のソファに座り込んだ格好のまま、今日の出来事を話していたオレは、ミルクを受け取りながら頭をかきむしりたい衝動に駆られる。ミルクがこぼれるからそんなことはしないけど。
 バレた、と思った瞬間、オレは昔からの条件反射でつい、ナギ姉の後ろに隠れてしまった。
「世儀、どうしたんだ? そんな格好で。想像以上の可愛らしさだが」
「し、知らない…」
「そうか?」
 領様は楽しんでいた。まず間違いなくあの状況を面白がっていた。
「蓮くんのことを可愛いって? 高ノ原くんも侮れないな」
 問題はそこではなくて、それを口にした領様がいかにも人の悪そうな笑みをうかべていたことだと思う。
 その顔はオレがどんなに言葉を尽くして否定しても、まったく耳を傾けそうになくて、それどころか藪をつついて蛇を出しそうだったのだ。
「うーん…。彼なら大丈夫だと思うけど。とりあえず蓮くん、今晩は泊まっていける?」
 三ツ原家のみんながオレの入学祝いを言いたくてそわそわしているらしい。
 とりあえず世儀の家に連絡を取って許しがもらえたので、オレはそのまま泊まることにした。
 とはいえ、三ツ原家はみんな帰りが遅い。
 先にお風呂をもらって洗い髪を濡れたまま放っておくと、カオ兄がタオルを持ってやってきて、ドライヤーをかけながら、今日一日の話などを聞いてくれる。
 でもオレの話はつい、できたてほやほやの悩み事に戻ってしまう。カオ兄は飽きた顔ひとつ見せず、また俺の話に付き合ってくれた。
「オレが女装好きだって思われるのは、嫌だけど別に構わないと言えばそうだし。それよりもシスターとか、学園のみんなに迷惑をかけたらどうしようって、それがすごく問題でさ」
 桜朱恩のみんなにはさんざんお世話になってきた。
 オレの面倒を見ることで背負い込んだ厄介ごとを、桜朱恩の人々は理事長を含めて、何でもないことのように言うけれど、本当はすごく大変なことだ。
「男のオレが桜朱恩に在籍していたなんてバレたら最後、下手すれば名門女子校廃校の憂き目だ」
「渚は何て言っていたの?」
「ナギ姉はオレが気にするようなことじゃないって。今回のことも認めはしなかったし、放っておけばいいって」
「なら何の心配も要らない。蓮くんは桜朱恩のみんなにとって、可愛い妹で王子さまなんだから、それに自信を持ったらいいよ」
「えー…?」
 妹と王子は両立するのか? 唸っていると仕事先からじいさまが戻ってきたらしい声がして、オレは急いで迎えに出た。
「じいさま、おかえりっ」
「蓮、ただいま。入学式はどうだった。行けなくて申し訳なかったね」
「ううん。あ、聞いてよ。オレ、新入生代表挨拶したんだよ。それでカオ兄が学生会代表とかで、お祝いの品受け取ったり」
「それはすごい。そんな蓮にお祝いをしないといけないね」
 じいさまは茶目っ気たっぷりに片目をつぶると、胸もとから小さな包みを取り出す。
「新しい写譜ペンだよ」
「本当!? ありがとう、じいさまっ」
 じいさまはオレの欲しいものをいつだってぴたりとあててくるから不思議だ。
 飛び上がるようにして写譜ペンを受け取ったオレは、じいさまの頬に軽く頬を寄せ、お礼の挨拶をする。
 フランス人であるじいさまは若い頃よりもやや沈んだ色合いになったとはいえ、きれいな金色の髪の持ち主で、瞳は冬空のような薄い青色だ。間近で見るといつも見とれそうになるきれいな色。
「おや蓮、来ていたのか」
 さっそく包みを開けていると、一緒に帰ってきていたらしいおばあさまが現れて、ずっと手に入らなかった古い楽譜を贈ってくれる。オレは飛び上がるようにして喜んだ。
 すごいっ、これが手に入るなんて、さすがだ。
 オレの祖母でもあるおばあさま、三ツ原塔子(みつはら とうこ)おばあさまは、白いものが多くなった髪を品のいい濃灰色に染めていて、淡い桜色のスーツをきりっと着こなしている。今もこの三ツ原家の長であり、社内でも実権を握る塔子さんは、とても5人の孫がいるようには見えない、若々しい人だ。
 塔子おばあさまのことはオレは塔子さんと呼んでいる。なんだかその方がしっくりくる気がしてさ。
「ありがとう! 塔子さんっ」
「どういたしまして。それにしても、おまえはますます結(ゆい)に似てくるな。世儀の家はどうだ。あの家の偏屈じじいに苦労していないか」
「ううん、大丈夫。良くしてもらってるよ」
 どうも塔子さんは世儀のおじいさまに色々含むところがあるらしい。
 話している間に後ろから来た塔子さんの第1秘書がオレを見て頭を下げ、塔子さんの耳元に何事か囁く。
 塔子さんは夫と孫に断りを入れてから、先に自室へ向かった。その後ろ姿を見送ってから、オレはもらったばかりの楽譜をぎゅっと抱えた。
「塔子はずいぶん悩んでいたよ。蓮の贈り物には何が良いかって」
「どちらもすごく嬉しいよっ。でも…忙しそうだね、塔子さん」
 いつ見ても格好良い塔子さんだけど、あんまりにも忙しそうだと、体を壊さないか心配になってしまう。
「ああ、塔子は今新しい企画を進行中でね。きっと蓮の笑顔で元気になった。さて、わたしもお風呂をいただくかな。蓮、入学おめでとう。薫と仲良くするんだよ」
「うん」
「薫、今以上に蓮の面倒を良く見るようにね」
「はい」
 カオ兄は行儀良く返事をすると、じいさまと塔子さんからの贈り物に釘付けになっているオレを見て、ちょっと苦笑いをうかべた。
「蓮くんは安上がりだね」
「ん?」
「ペンと楽譜だけで大喜び」
「じいさまが選んでくれるの、いつも使いやすいし。この楽譜だってもう発行してないんだよ。あ、オレ、サロンに行っていい?」
「いいよ。でもほどほどにね。今日は色々あって疲れてるでしょう」
 サロンと呼んでいるのは、室内楽も楽しめるように大きなグランドピアノがあって、音響と防音どちらにも優れている部屋のことだ。
 オレはカオ兄の言葉にうんうんとおざなりな頷きを返しながら急いでサロンへ行って、ピアノの前に座った。
 塔子さんにもらったばかりの古い楽譜を広げて、丹念に読み込み、弾いていく。
 しばらくそうしているとたまらなくなって、真新しいペンの使い心地を確かめるように、白紙の五線紙に湧きだしてくる音の流れを書き込んだ。
 曲をつくるのが好きだ。
 はじめて楽譜を見たとき、すごく感動した覚えがある。
 様々な旋律、リズム、音色が1枚の紙の中にまとまっていて、音の世界がつまっていて。
 機械は苦手だし、オレは自分でひとつずつオタマジャクシを書くのが好きだった。
 音のうねりにとらわれると、筆跡が荒れてオレにしか分からなくなってしまったりもするけど、それをきれいに写し直す作業も嫌いじゃない。
「……ん、…れ、ん…、蓮っ」
「わっ」
 いきなり五線紙を取り上げられて、驚いて床から顔を上げた。
 ピアノの前に座っていたはずなのに、いったいいつ床に移動したのか覚えていない。ひとりきりだった室内には、オレの五線紙を取り上げてぎゅっと眉をひそめた強面がひとつ。
「蓮。そろそろ寝る時間だ」
「ええー。オレ高校生になったよ。あとちょっと」
「だめだ」
 トオ兄はにべもない。
 細いフレームの眼鏡から覗く色素の薄い瞳はじいさまからの遺伝で、あまり表情を動かさないトオ兄は、慣れていないととても冷たく感じる。
 トオ兄は医学部を卒業して研修もちゃんと受けたのに、なぜかMBAをとって今は三ツ原の系列会社に勤務する変わり種だ。
 五線紙は取り上げられたままなのであんまり意味はないんだけど、しつこく床にへばりついていると、ちょうどよくサロンの扉がひらく。
 入ってきたのは三ツ原家の婿養子、トオ兄たちの父親、秀(しゅう)さんだった。
「こんばんは、蓮くん。おや、透くんも来ていたんだね」
「ええ、まあ…」
 トオ兄と秀さんは同じようなフレームの眼鏡をかけているのに、秀さんの方はどこかしらおっとりとした雰囲気が漂う。瞳の形とか色々トオ兄とはそっくりだけど、全体的に柔らかな感じがした。
 和やかさにかけては三ツ原家随一の父親の登場にトオ兄は毒気を抜かれたらしい。釣り上げていた眦を下げて、小さくため息を吐いた。
「蓮がずっと籠もっていると聞いたので…」
「これか。すごいねえ。2時間でこんなに?タイトルは…ルピテ・オート?」
 オレの付けるタイトルにはあまり意味がない。
 主旋律に何となくうかんだ言葉というか音をくっつけてるのが殆どだ。
 秀さんはオレが床に散らばらせた紙を1枚1枚拾い上げて、丁寧に目で追う。
「弾いてもいいかな?」
「うん。でもこれまだ出来てないし…秀さんピアノパート、オレ、その他を適当に弾く、それでいい?」
「勿論だよ」
 トオ兄は眉を寄せて、
「30分だけだ」
 と、おかんむりだったけど、オレと秀さんはいそいそとピアノ前に並んだ。
 秀さんはプロのピアニストだ。
 本来ならオレが合わせて弾くなんておこがましいのも程があるんだけど、自分の中の旋律を描けばいいオレと、初見の秀さんなので、どうにか合わせることができた。




 翌朝、オレの顔を見るなりトオ兄は食卓そばの棚から耳温計を取り出した。
「7度5分」
「わ。昨日僕が付き合わせてしまったから、どうしよう、蓮くん、ごめんね」
 秀さんはすまなそうにうなだれる。
 オレはそんなことないです、と慌てて否定した。気分良くのったのはオレも一緒だ。
 朝食の席には塔子夫妻、秀さんとその奥さんの響夫妻、夫婦の子どもたち2人と、お泊まりだった秘書のみなさんがいた。
 給仕役の数人が手際よく料理を並べていて、オレの右隣にトオ兄、正面にカオ兄が座る。
「秀はすぐ夢中になってしまうんだから、気をつけてといつも言っているでしょう」
「ごめんね、響さん」
 傍らに座る夫に向かって響さんが形の良い眉をひそめ、一刀両断する。
 秀さんがますます肩を落とした。
 秀さんは奥さんに弱いのだ。まあ、三ツ原家の女性陣に適う人なんていないんだけども。
「オレの不注意です。ごめんなさい、秀さん」
「全くだ。今日は休んで、1日ゆっくり寝ているんだ」
「大丈夫だよ、これぐらい」
 自慢じゃないけど熱には慣れているので、これぐらい平気だ。
「オレ、行けるよ」
「何言っているんだ。熱を出している身で」
「平気だってば」
「俺の言葉が聞けないのか」
「医師免許があるって言っても、トオ兄、今は違うし」
「蓮」
 ぞっとするほど低い声で名前を呼ばれると、思わずぱきんと氷漬けされたみたいに硬直する。
 とっさに二の句が継げなくなってしまったオレの代わりに、助け船を出してくれたのは真向かいに座るカオ兄だった。
「兄さん。蓮も高校生になったんだし、やりたいと言うことをやらせてみても良いと思うよ。それに世儀の家に入った蓮に対して、うちがしつこく口出すのもどうかと思うし」
「なら世儀が蓮を守ってくれるのか? 音浜なんぞに入れて、昨日からして予定がなかった外部新入生代表挨拶が組み込まれたんだろうが」
「……そうなの?」
「蓮くんは外部入試の首位なんだから、むしろ省かれていた方がおかしかったと僕は思うけど」
「さしてレベルの高くない公立高校出身の蓮がそんな得点をとって、おかしいと言われているんだろう。だいたい、ただでさえ目立つ蓮を壇上に立たせてどういうつもりなんだ」
 言い争うトオ兄たちにオレは戸惑う。
 ただでさえ目立つ…って、そんな、オレ地味に決めてたし、そうじゃなくてもぜんぜんふつうなんだけどな。トオ兄は自身とか身の回りの人たちもかなり美形のなので、そういう美的感覚的なものがちょっとおかしい気がする。
「………オレ、音浜受からない方が良かった?」
「僕はもちろん歓迎しているよ。それにあれは蓮くんの実力なんだし、それなりの評価は当然受けるべきだと思う」
「しかしな」
「透。いいかげんにしな。食事がはじめられない」
「…申し訳ありません」
 塔子さんのひと声でトオ兄が引き下がる。
 食事が始まってからもぶつくさ怒るようなトオ兄ではないので、トオ兄はいつもの無表情のまま隣のオレになるべく喉が通りやすそうなものを選んでより分けてくれる。
 全員の食事がだいたい片付いてから、塔子さんはおもむろにオレへ視線を向けた。
「蓮」
「…はい」
「おまえの良いところは前向きなところだ。だが無理をし過ぎることもある。透がそれを心配しているってことは分かるか」
「……、はい」
 いつだってトオ兄や他のみんなに心配をかけさせているのはオレだ。
 それは良く分かっている。
 塔子さんはそれなら良い、と頷いた。
「事情はどうあれ、世儀家というのも大きな家だ。それで色々うるさく言う者も出るだろう。だが、おまえはおまえだ」
 塔子さんはしっかりオレの目を見つめる。オレも塔子さんのつよい目の光に負けないよう、きつくこぶしを握ってそれを受け入れた。幼いときは怖いと感じていた塔子さんだけど、今はもう、オレは塔子さんの情の在処を知っている。
「時には耐えなければならないこともあるだろう。だかそれは無茶をすることではない。無理だと思えば適当なところで引け。その判断ができていないようなら、わたしたちが止めに入る。それで文句は言うな」
「…はい」
「分かればいい。好きにしなさい」
「はいっ」
 オレは勢いよく返事をして、傍らのトオ兄を見上げた。
「トオ兄」
「…なんだ」
「オレね、ちゃんと気をつけるよ。トオ兄の言いつけ守るし。…だから、学校行きたい」
「………後で送っていく。薫も乗っていけ。学生会の仕事はないんだろう」
「ええ、ありがとう、兄さん」
 花が綻ぶように微笑んだカオ兄に、トオ兄はいつも通りの仏頂面で。
 それが朝の出来事だった。
 でもオレはうっかりしていた。
 秀さん譲りの優しい雰囲気を持ったカオ兄は、ひとたび学院に戻れば、麗しの薫様であるってことを、オレは忘れていたのだ。



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