少なくとも男子高校生の雄叫びなら低く地鳴りのような「おー」であって良いはずなのに、なぜか、か行の「きゃー」だった。 たまたまその場に中等部生の割合が多かったとか、そんな話だと良いんだけど…。そうなるとオレの目は制服の違う中等部生を自動的に見えなくする機能が付いているってことで。 「どうしたの、蓮くん。あ、もしかして熱が…」 「いや、大丈夫。だからっ、耳温計はしまって、カオ兄」 ついさっき学校に行きたい、行けますと大見得を切ったのに、今更帰りたいなんて言い出せるわけがない。 だからオレは大人しくカオ兄の隣に並んで校内を歩いているわけだけども。 なんだろう。動物園でたっぷりの視線を浴びざるを得ない珍獣にでもなった気分だ。 いや、珍獣には敵意の籠もった視線がぐさぐさ突き刺さるってことはないはずだし、ここまでの敵意があるのなら、そもそも動物園には来ないわけで。 どちらかというと、みんな大好きゾウさんをいじめるカラスくんという状況だろうか。オレ、これからはカラスの味方をするぞ。 こんな視線を浴び続けていたらどんな動物だって弱りますっていう張り紙がいるなあと思いながら、まったく気がついていない様子のカオ兄に感心してしまう。 これは視線もとがうまいのか、カオ兄が視線に慣れすぎているのか。 たぶんどっちもなんだろうとオレはため息をのみ込んだ。 カオ兄は好きだし、これぐらいでへこたれるオレではないけど、これがずっと続くのだろうかと思うと、少々というか、けっこうげんなりしてしまう。 いつかオレもカオ兄みたいに視線慣れするかな。…無理だろうな。ここの外に一歩でもでれば、いつも通りの平穏が待っている。 「じゃあ蓮くん、またね」 「うん」 「後で会おうね。学生会室で待っているから」 微笑んだカオ兄がちらっと周囲に目を向ける。その目が思いの外冷たい感じがしたのは、たぶん気のせいだろう。麗しの薫様が周囲を薙ぎ払いそうな目で見たりするはずがない。 交わした約束はただ昼食を一緒にとるってだけなんだけど。 カオ兄はいつものならいでオレの頬にちゅっと口づけていく。 うわ待ってそれはっ、と思ったけど、時すでに遅し。 「じゃあね…カオ兄……」 カオ兄と離れた途端スコール並に降り注ぐ視線は留まるところを知らない。 こうなると気にしているのもばかばかしくって、さあ来い、よし来い、どんと来いとオレは妙にやる気になった。 1−E。 プレートを見るともなしに見て、オレは小気味よくドアをあけた。 名前順に並んだ机は半分ぐらい埋まっている。トオ兄は安全運転、時間厳守の人だから、ちょうどよい頃合いに登校できた。さすがだ。 オレは窓際にある自分の席に真っ直ぐ向かう。敵意っていうほどじゃないけど、ここでも視線増量中のようで、オレの姿を確認した同級生たちはざわりと空気を揺らした後、妙な沈黙を持ってオレの動きを見守っている。 危ないことなんて何もしないんだけどな。 せっかく目立たない格好を選択したのに、全く役にやっていない。むしろそれで悪目立ちしているんじゃ、という意見はこの際、聞かなかったことにしている。 見守ってくれている彼らを驚かせないよう、なるべく静かに席に着くと、ちょうどよく鞄の中でぶうんと携帯電話が震えた。 届いたのはメールで、オレはゆっくりボタンを押す。こわごわというか、まだボタンの配置とか機能とか良く理解しきっていないため、動作には慎重を期する。 メールは2通あった。 カオ兄から、学生会室の場所についての再確認と、万が一分からなくなったらすぐに連絡してほしい、というもの。 それとトオ兄から、帰りに病院に寄ること。話は通してある、というものだった。 2人ともに分かった、と返事をして、結局のところ2人ともが心配性なんだよなあと、思ってしまう。 すごくありがたいしその気持ちは嬉しいけれど、がんばらないと、とも思う。 早く手間のかかる弟扱いから卒業したい。頼れる男になる、というのはいきなり高望みがすぎると思うので、まずはそこからだ。 「……、な」 「…………」 「……あ、なあ」 「…………」 「なあってば」 「……は、はいっ?」 声をかけられていたのはどうやらオレだったらしい。 顔を上げると目の前にどーんと見知らぬ笑顔が突きつけられて、正直びびった。 「もしかして携帯、大事な相手? 邪魔しちゃった?」 「い、いや…。大丈夫…」 「あ。おれ、奈々原広也(ななはら ひろや)。よろしく」 「あ…。世儀…蓮です」 前の席に陣取り、人好きのする癖のない笑顔をうかべた相手が、オレの両腕をとってぶんぶんと振った。握手なんだと思うけど、あんまり勢いがいいので腕の上げ下げの運動みたいだ。 「あの代表挨拶、おれ聞き惚れたよ。やっぱりああいうのはさっぱりあっさり簡潔なものに限るよな」 自分で言うのもなんだけど、オレもそう思う。無駄に長ったらしい挨拶っていうのは聞いていると疲れるし、意識が遠くなるし、だんだん何を言っているか分からなくなるしで。 でも、長くても良い例はある。領様のなんかが良い例だろう。あれはちょっと感動させすぎな気もするけど。 「にしても世儀はすごいな。外部入試が難しいことは知られているけど、実際には内部生の方が代表にはなりやすいんだ。内部がやるのは同じ試験内容っていっても、形だけってな感じだし、その試験勉強をずっと続けてきたようなもんだから高得点を出しやすい。それをあの高ノ原と同点だろう」 同点だったのか。知らなかった。というか、あの入試で何点だったかも知らない。 音浜の受験に関しては世儀のじいさまの熱意がすごくて、何人も家庭教師をつけられたし、オレも急だったので、とにかくやるしかない、と覚悟を決めて取り組んだのだ。 オレとしてはよくあれで合格できた、という気持ちでいっぱいだ。どう考えたって時間が足りなかったように思う。 「勉強に関しては、よくカオ…三ツ原家の人たちに見てもらっていたから。たぶんそのせいもあると思う」 「そう、それ。あんな嬉しそうな顔をされている三ツ原先輩、はじめて見たよ。三ツ原先輩ってきれいだし、優しいけど、どこか近寄りがたいところもあるだろ?それが 世儀にはとろけるような笑みを見せているんだから、もう、驚いたのなんの。まるで実の兄弟みたいだよな」 「うん、オレ、早くに母親を亡くして、三ツ原家にはずいぶんとお世話になってて。三ツ原…先輩たちとはそれこそ兄弟みたいに育ったんだ」 「なるほどね。じゃあ、先輩は世儀のこと、弟みたいに思っているんだ。先輩って身内のことをすごく大切にしているよな。ちょっとでも悪口言おうものなら、なんというか、空気が凍るって言うか」 「うん。先輩…は、家族のこと、すごく大事にしてる」 「だよな」 なんともあっさりと頷いて晴れやかな笑顔を見せた彼は、ずいぶんと大きな声でオレと会話を反芻する。 その度ごとに不思議と教室の空気が和らいだ。 いったい何が起きているのか分からず、さりげなく周りを見渡しても、もう誰の視線も感じない。それどころかクラスメイトたちはまるでこちらのことなどどうでも良くなったように、それぞれ仲間内との話に熱中しているようだった。 いったいどういう魔法が…。 後で聞いたところによると、その場にいたのは殆どが内部生だったらしい。 オレの入学が決まった後、内部生たちに"薫様の大切な人が入学してくる"という噂が広まったというのだ。それはどうも世儀の嫡子らしいということになり、勘当出戻りの例の奴ではないのか、とまで知れ渡った。 なぜそこで1番重要な情報、従兄弟同士ってところが欠けたのか分からないけど、とにかくそんなふうになったために、"大切"について色々物議を醸し、誰も薫様本人に聞くことも出来ず、もやもやどよどよしているところだったのだという。 そこにあの廊下でのいちゃつきがあって疑惑は頂点に達し、…だったわけだ。 カオ兄が家族を大事にしているってことは内部生皆さんの共通認識らしく、オレがただ単に家族ぐるみのお付き合い、カオ兄にとっては弟みたいなものなんだって分かれば、なぁんだ、そっちね、で納得していただけたというわけらしい。 そっちなんだかどっちなんだか代名詞が多く混ざって理解できない部分もあったけど、まあ、とにかくそういうことらしかった。 おかげでそれ以来、オレがぐるぐる悩む間もなく視線はずいぶん弱まってくれた。こんなに簡単なことだったとは、驚きだ。 「すごいな…奈々原って」 オレが思わずそう呟くと、ムードメーカーは否定も肯定もせず、ただ片眉をあげて、そう? と口もとを笑みに綻ばせる。 奈々原はそれを誇るわけでも引き替えに何を求めるでもなく、至ってふつうの態度で、オレはそんな奈々原にひどく感動し、語り継がれるべき偉業として固く胸に刻んでおいた。 オレ、こういうのは嫌いじゃない。教室の空気が悪くなるのは誰だって避けたいものだ。その点、奈々原はずいぶんと手慣れているようで、嫌味っぽさがぜんぜんないのも高ポイントだった。 ちょうど話の切れ目に予鈴が鳴って、奈々原が本来の席に戻った。 彼と話しているとまるでずっと前からの知り合いのような、妙な居心地の良さを感じる。 オレと奈々原が親しくなるのに、そう時間はかからなかった。 |