「鈴島和美(すずしま かずみ)と吉岡政春(よしおか まさはる)。どっちもおれの腐れ縁」 最初の休み時間に入るなり奈々原が紹介してくれたのは、ずいぶん対照的なふたりだった。 ふんわりと甘い面差しの中にすっと風が通るような涼しげな雰囲気を持った少年と、強面と言って差し障りのない目つきの鋭い男。 美人の鈴島さんと、野獣の吉岡くん。それに底抜けに明るい空気を漂わせた奈々原を加えた3人が並ぶとなかなか壮観で、妙にしっくりきた。 聞けば幼稚園時代からの友人同士なのだという。奈々原も含めて内部生で、何の因果か1度もクラスが離れたことがないらしい。 「はじめまして、世儀蓮です」 「よろしくね、世儀くん」 「………ああ」 「ああって、政春。もう少しマシな挨拶の仕方はないのかよー」 すかさずツッコミをいれたのは奈々原で、ただでさえ迫力のある吉岡くんはぎゅっと眉を寄せる。ものすごく効果がありそうな客除け顔だけど、真正面からそれに見据えられている腐れ縁たちはまるで平気な様子だ。 オレはといえば、トオ兄が凍える刃なら、吉岡くんはどっしり重い鋼の盾みたいだなぁ、なんてのんきなことを考えていた。 それが不味かったのか、なんなのか、奈々原をにらみつけた吉岡くんがオレの方をじっと見る。わずかに目を眇めると、険が強まって今にも牙を剥きそうだった。 うわ、オレ怒らせたかも…? 「世儀」 「………は、はい」 「そんなふうに前髪で視界を覆っては目を悪くするぞ。眼鏡も合っていない。その眼鏡は少々重すぎるのではないか」 「………は、はい?」 これはオレのことを気遣ってくれているんだと思うけど、まるで脅すような低い声と強面で戸惑ってしまう。 うーん…。素直に受け取っていいんだよな、これ。 「ええと…これ、カオ…三ツ原先輩たちが工夫してくれているので、視界はかなり良いですし、見た目よりもずっと軽いんです。かけてみますか?」 度も弱いし、少し試しにかけてみるぐらいなら大丈夫ではないかと。 今のオレの髪型は視界を覆うので、大きくて枠の太い黒めがねで毛先が目に入らないようにしているんだけど、トオ兄とカオ兄にはいたく不評で、ずいぶんあれやこれやといじられた。 なので見た目は死守、けれど視界は良好、という何とも便利な形になっている。 「まったく政春は。気遣うにもやりようってのがあるじゃん」 「体付きに合わないものを身に付けて、後々困ることになるのは世儀だ」 「あ、あの。ほんとにこれ軽いんで。どうぞ」 外して吉岡くんに渡すと、みるみるまに目が大きく開いた。 これは…驚いてる? オレは吉岡くんの表情筋について、慎重に見極めに入る。 正直、威嚇か激怒か、というふうにしか見えないんだけど、違うよな。 もともと眼鏡なんて持ってなかったオレは、時代遅れってな感じの黒眼鏡が欲しいと思い、父さんにそう告げたところ、これを持ってきてもらったのだ。 いったいどこで手に入れてきたのか、固そうな見た目に反して自由自在に曲がるし、特殊フレームだとかなんとかで、すごく軽い。すごい眼鏡なんである。 確かにこの眼鏡、見た目とは違う感じでびっくりすると思う。 「…………」 「…………」 「…………」 なぜかオレを囲む3人ともに沈黙がおりる。 オレの顔をじっと見つめたまま、もの言いたげな顔だ。 眼鏡じゃない? …あ、もしかして前髪長すぎた? 「……あの?」 少し心配になってそっと彼らを見る。 今の髪型は夏になると暑苦しいし、徐々に変えていくつもりではあるけど、ご意見は神妙に伺う予定です。 身近な人の正直な意見ってすごく貴重だと思うし。いや、カオ兄たちにもさんざんピンで留められたり、前髪じゃなくて他を伸ばした方が良いとかお姉様たちみたいなことを言ってくれたけど。 「そう、あの三ツ原の血筋なのだもの。予想以上だったものだから、少しびっくりしてしまったけど、当然と言えば当然だったよね」 「………?」 どうやら髪型についてではないようだ。 にこやかに返してくれたのは鈴島さんで、口ぶりもやんわりしているけど、とてもたおやかで品がいい。 すごく雰囲気のある人だなぁ、と思いながら、オレは返してもらった眼鏡をかけ直す。 まだかけ始めたばかりだから違和感があるけど、次第に馴染んでいくだろう。ま、かけなくても平気なんだけど。 ふと見れば、沈黙がとけたばかりの3人が唸っている。 「どうしようね?」 「その時はその時だろう」 「な、世儀」 「はい?」 奈々原は妙に真剣な顔だ。 「学生会、入らない?」 「………、はい?」 目立たないようにしているのにそれはない。 すでに否応なく目立っているような気はするけどそれはともかく、オレはすぐに断った。 「断ったのか? 情けねえな」 「んなこと言ったって、親父、オレは静かで穏やかな人生を歩むの。平穏が1番だろ」 「小学生で二重学籍だったやつの台詞とも思えねえな」 「ほっとけ! だいたいそれに関しては良識ある大人である親父が止めろよな」 「ナギ姉、ナギ姉って大泣きして自家中毒までおこしてたやつがでかくなったもんだなあ、おい」 最近ようやく少し見慣れてきたスーツ姿の中年を見やって、ふんとそっぽを向く。 ネクタイを外しながらきっちり固めていた髪を崩すと、男の色気垂れ流しだ。ついこのあいだまでよれたTシャツでぐうたら寝転がってた中年男と同一人物とは思えない。 だらしなく床にあぐらをかいていた姿を思えば、名尾さんに脱いだ服を預けながら、秘書の人たちと細々と仕事の打ち合わせをしているのなんて、違和感ありありだ。 でもこの上なく決まって見えるのもまた事実だった。 「にしても、蓮。どうした。こんな時間から寝間着姿で」 「蓮様には少し、熱がございまして」 傍らからすかさず名尾さんが口を挟む。 ぐずぐずと居間に居座るオレに、名尾さんはちょっと困惑気味だ。早く休んだ方がいいっていうのは分かってはいるんだけど、後もう少しだけ、もう少ししたらすっきりするはずなんだ。 「熱?」 「ちょっとね。大丈夫。薬ももらってきたよ」 「篠宮のところに行ったのか」 オレの主治医で父さんの友人の名前が挙がる。 「で、何度だ」 いつでもどんなところへも持って行っているんじゃないか、と思うぐらいの毎度おなじみ耳温計を取り出した父さんが、ぐっと近寄ってくる。逃れようとしたけどあっという間にぴぴっ、と音が鳴って検温された。 「8度1分…か」 「時折お辛そうになさっていますし、早くお休みくださるよう申し上げてはいるのですが」 オレの周りに散らばった白い五線紙を見て、父さんの眉が寄る。 「名尾さん、すまないが冷却シートを。蓮。これ以上熱が上がると、透が血相変えて飛んでくるぞ」 父さんがトオ兄に伝えなければ済むんだけどな。 秘書の人たちを先に行かせて、親父はフローリングの床に直に座り込んで作業を続けていたオレの傍にかがむ。 「新しい曲か」 「うん…」 応えて、紙の上に視線を落とす。 あと少しでルピテ・オートは完成する。 でも大事なところがまだ足りない気がした。 すぐに名尾さんが持ってきた冷却シートの剥離紙をはがして、父さんがオレの額と首筋に貼る。ひんやりとした感触が心地いい。 父さんは1度自分の部屋に行ってから、オレの傍に戻ってきて、近くのソファにどっかりと座り込んだ。珈琲を飲みながら書類に目を通す。 「蓮様。お水です」 そっと傍らにコップを置いて、名尾さんは斜め前に両膝を床に付けたまま、オレの手もとをじっと見つめた。 近くのソファに座らないのは、別に使用人だからってわけじゃなくて、単にオレと目線を合わせてくれたのだろう。 名尾さんは歳も歳だし、この世儀家にとってなくてはならない人だから、自分がどんなに疲れていても名尾さんを立たせたままにするなっていうのが、父さんの一家言だ。 確かにそれは間違っていないと思う。お礼を言って、オレは小さな丸椅子を名尾さんの前に置いた。 「ありがとうございます、蓮様」 名尾さんは嬉しそうに微笑んで、断りを入れてから、五線譜を手に取った。 「オーケストラ譜でございますね」 「うん」 「演奏時間はどれぐらいになるのでしょう。お伺いしても?」 「うん。40分くらい。もしかして名尾さんは楽器を?」 「たしなむ程度に、チェロを少々」 控えめな名尾さんに、父さんがすかさずプロ級の腕前だと教えてくれる。 「そんな、それは言い過ぎでございますよ。大したものではないのです。それより蓮様はピアノもお上手でいらっしゃるとか。蓮様を見ておりますと、奥様を思い出します」 奥様って、父さんの奥さんってことだよな。 三ツ原家の人たちからは何度となく話を聞いてきたけど、父さん側の人から母さんの話を聞くのは初めてだ。 「……それって、オレの…母親のことだよね?」 「はい。さようでございます。奥様はたいへんな音楽好きでいらっしゃいました。畏れ多いことではありますが、奥様と合奏させていただいたこともあります」 「本当? いいなあ! オレも母さんと一緒に弾きたかったな。名尾さんとも合わせてみたい。あ、でもオレ、伴奏はしてもらったことはあるんだ。きらきら星とか。オレはひと音、ふた音鳴らしているだけで、弾いているのは殆ど母さんだったけど、すごく楽しかった覚えがある」 音楽の楽しさを一番最初に教えてくれたのは母さんだ。 はじめにオレが興味を示したのは、母さんがピアノに置く楽譜だった。 もちろん、その時は楽譜を読む事なんて出来なくて、黒い記号が何かなんてこともよく分からなかったけど、母さんはこれは音の目印、標なんだって教えてくれた。 母さんはいつもこの標を辿って、楽譜の中のお話を読むんだって。 オレはとても感動したのを今でも覚えている。 オレが生まれてから徐々に体調を崩すようになっていた母さんに、本格的にピアノを教わることはなかったけれど、オレは母さんと一緒にピアノの前に座るのが本当に嬉しくて、楽しくて、大好きだった。 楽譜の読み方だとか、楽器の扱い方の基本的なことは桜朱恩で学び、ピアニストである秀さんも色々と教えてくれた。 オレがオレの中の音の世界を外に出すための手助けは、色んな人がしてくれたけど、そのきっかけをつくったのは母さんだ。 「よろしければどなたか先生をお招きいたしましょうか」 「ん…。いや、大丈夫。上手くなりたいし、今のままじゃ曲を描くのに全然力が足りてないとは思っているけど…、でも、先生について習うのは、なんか気後れしてさ。秀さんの友達とかには、オレの曲には足りないものがあるって言われたりする。若手の作曲家の曲にはオレの曲を聴いてくれっ、てパワーがつまっているけど、オレにはそういうのがないって」 だから悪いってわけではないと言われたけど、でも欠けている部分ではある。 「オレは…、音を紡ぐ…その作業が好きなんだよね…」 はじめはただ音と戯れるのが楽しくて、自分から音と関わり合うみたいな曲作りが面白くて。 「蓮様…、蓮様…?」 「おい、蓮っ、どうした」 いけないと思うのに、すうっと視界が暗くなる。 父さんが耳元でがなる声と、名尾さんの声が聞こえる。呼び捨てでってやりとりは続けていてもしっかり様付けで呼ぶ名尾さんって、けっこう頑固な人だよなあ、なんてとりとめのないことを思いながら、オレの意識はふっつり途切れた。 |