白い海の中にいた。 くるぶしがつかるぐらいの浅瀬の底は珊瑚礁が砕けたみたいな白い砂で、透きとおった水を一面、同じ色に染めている。 ここはどこだろう。 海辺の太陽はとても眩しくて、遮るものがない。 あまり長居するとまた熱を出すなと思ったけれど、くるぶしに触れる海水は肌をやわらかにくすぐって、ずっとこのままでも良いような気がした。 ときおり海辺を渡る風が髪を揺らす。 なぜだろう。オレはここを知っている、そんな気がした。 "ルピテ・オート" この白い海と肌をくるむ風と、太陽。 薄青い空に刷毛で塗ったような淡い雲がかかる。 しばらくじっと佇んでいると、 カラントン カラントン と、木の実が跳ねるような音と共に、彼が姿を見せた。 やわらかな稜線を描いた背はまるでクジラのようであったけれど、塩吹くことはなく、古代竜のように長い首と真珠のような光沢のある鱗がある。降り注ぐ陽射しを跳ねさせて、翠や蒼や紅といったまるで虹のような輝きを放った。まるでこの海のすべてをひとつにしたみたいだった。 彼が、彼を含む白い海が、風や光が、旋律を重ねひとつに結ぶ。 それが "ルピテ・オート"。 「アイス?」 「たぶんね。それで体が冷えたんだと思うよ。いきなり3つも食べれば体温も下がる」 「そんなに食べたのか…?」 「はい…ごく小さなものですが…、たいへん美味しいとおっしゃって」 「熱があったからだろうね。ひとつぐらいなら良かったんだろうけど、そのへん、ちょっと鈍くなっているから。それにここしばらくの疲れが一気に出たんだろう。蓮くんにしてはずいぶんがんばったよ」 「……疲れさせないようにはしてきた」 「彼にとっては、早起きしてご飯つくって、歩いてすぐの学校に行って買い物して帰って、そういうのがふつうだったんだよ。まして1度たりとも会ったことも話を聞いたこともない家に連れてこられて、緊張するなというのが無理な話だ」 「だんだん良くなるかもしれない、と言ったろうが」 「かもしれない、だよ。これといった治療法は見つかっていない。症例の少ない疾患だ。ひとつひとつ対処していくほかない。…今はこれが精一杯なんだよ」 「……くそッ」 父さんの声が聞こえる気がした。 それは遠くで、耳鳴りのようにはっきりしない。 語尾が少し荒い気がした。怒っているのかな、そうだよな、…父さんにはいつも迷惑かけている。そんなことはない、と父さんは言うけど。 ゆるやかに意識が浮き上がり、だんだん音がはっきりしてくる。ひどく体が重かった。 「……ん、蓮くん。起きた?ごめんね、ちょっと痛いかも知れないけど、我慢してね」 目を覚ましたばかりでぼんやりしているところを、針の刺さる痛みに小さく呻く。 医者の言う痛いよ、っていうのは、本当に痛いよな…。 俺は血管が見づらいらしくて、ただの注射でもだんだん上から下へ、なかなか痛みを避けて通れない。 「……篠宮、さん……?」 「そうだよ。倒れたって知ったら、透の眉間にシワが寄るね?」 「う、っ…」 にこやかに脅し文句だ。 篠宮さんは父さんの友人でトオ兄の先輩というか、同じ医学部出身の同窓生で、今もけっこう連絡を取り合っている。 人生楽しく生きるよ1度きり、な篠宮さんと、だからこそ堅実に積み重ねるよ、この人生、なトオ兄では、気が合いそうもないのに本人たちにはまったくそんな感じはない。ふたりそろって目の前に立たれたら、オレにいろいろ覚悟を決めなくちゃいけなかった。無条件に反省しています、と言う必要があるので。 「まあ、透のあれはいずれボツリヌスでも打たなきゃとれなくなるんじゃないかと思っているんだけど。どう思う?」 どう思う…って、言われても。 いざとなったらあれはトオ兄のトレードマークみたいなものだし、何だか箔が付いて良いんじゃないかとは思う…けど、まあ、ない方が良いかも? なんて思うけれどそう言うと篠宮さんは本気で実行しそうなので言わない。 「で、蓮くん。処方しておいた薬、飲んだかな? 飲んでないよね? そっくりそのまま残っていたよ?」 「…………」 「おかしいね?」 にこにこ顔がホント怖い。 えーと、ええーっと、と視線を彷徨わせて記憶を探った。 こういう笑顔の篠宮さんはくせ者だぞ。適当に誤魔化すとか流すとかがない。…それが有効な相手がオレの周りにいるかといえばいないんだけれどもさ。 オレは大体決められた時間に薬を飲むようにしている。じゃないと忘れることが多いし、同じ時間に飲んだ方が効き目があるものもあるし。 首を左に傾けて、右にして、そういえばと思い出した。 もらったばかりの写譜ペンと楽譜が嬉しくって、オレは家に戻ってきてからすぐに取り出して、それでついつい熱中してしまって。 うわ、いちばんダメって言われているパターンだしっ。まじか、オレ。 「蓮くん? どうしたのかな。せっかくだし、今ならもれなく可愛いぬいぐるみ付きで、蜘蛛さん印の薬飲み忘れ防止くんをあげようか?」 「い、いや。いい、です。いらないっっっ」 8つ足の魔の手から逃れるために、布団を被って震えていると、篠宮さんはいっそ潔いぐらいに朗らかに 「嘘だよ」 と、言った。 いやいやいや、篠宮さんのそれは本気だからっ。 とは思ったものの、忘れていたオレも悪いのでそっと顔を覗かせると、 「な、なにしてやがるっ、このクソ親父っッ」 「おまえはいらないだろ?」 「オレのアイスっっ」 その場にいる人たちから、部屋の外で立ち働く人たちまで、気前よくカップアイスを配っている父さんに噛みつくと、憎らしいことに8つ足の歌なんか口ずさんでいる。 これは某薬飲み忘れ防止くんを開発したメーカーのテーマソングだ。蜘蛛の巣を張り巡らせるように、薬の飲み忘れを防止します、なんてキャッチフレーズじゃ売れないって、と思いきや、ブザー音と共に回転する蜘蛛のデフォルメキャラが可愛いとかで、結構人気らしい。 オレは絶対に要らないけど。本当に本当に心底要らないけどっ。 「ひとくちな、ひとくち」 父さんからごく小さな欠片をもらって、オレはぽわっと嬉しくなる。 美味い。美味すぎる。 世儀家お抱えの料理長が手ずから作った特製アイスクリームはオレのお気に入りだ。 これは1度食べたらやめられないって。ホントに。 というか夜中にアイスってどうよ、と思いながらベッドの傍にある置き時計を何気なく見たオレは目を疑った。 「なんで日曜日の朝? オレの土曜日は!?」 三ツ原の家から直接学校に行って、世儀の家に帰ってきて、父さんが戻ってきたのはその夜で。 土曜日が休みで助かったけれど、1日分丸ごとどこかへ行ってしまったらしい。 「うそだあ…」 「今日は1日大人しくしていろ」 「熱はだいぶ下がったけど、無理はいけないからね」 「………う、…」 がっくりうなだれて布団の中に戻る。 熱は下がった気がするけど、確かに騒ぎすぎて少し疲れた。 丸1日寝ていたってことは食事もしていないな、と思ったけれど、あまり食欲もなくて、オレはうとうととしてしまい、いつのまにか眠っていたらしい。 カーテンごしに差し込むやわらかな光に目を覚まして、オレが真っ先にしたことと言えば時計の日付を確認することだった。 「よし、日付は大丈夫」 飛んだりしていない。ぐっすり眠って、ふつうに翌日の朝だ。 喜ぶべきはそこじゃないかもしれないけれど、とにかくほっとする。 いつもなら病み上がりの朝は父さんが台所に立っていてくれたりして、オレはその隣で父さんの分だけちょびっと豪華な弁当をこっそり作ったりするけど、ここではそれがないので、少し考えてから、服を着替えて庭に出た。 オレの部屋はおおまかに寝室、勉強部屋、ピアノ室、それを繋げる大きめ部屋の4つに分かれている。その家のひとつ、1番広い部屋は中庭に面していて、いつもきれいに整えられた芝生と庭木が見えた。かなり歩かないと反対側の家屋には辿り着かない。実はまだここから向こう側まで歩いてみたこともない。 「ベーーーースっ」 名を呼べば、遠くから立派なゴールデン・レトリーバーが1頭飛び出してくる。 「ぷはっ、顔はやめろって、っ、うははっ」 ヨダレまみれにさせられつつ、こちらもお返しとばかりがしがし撫でまくる。 エリザベスはちょっと強面気味だけと、垂れ下がり気味の目尻が愛らしいうら若き女の子だ。 亡くなったオレの叔父さんが子犬の頃から育てていたベスは、叔父さんのお葬式があった頃からずいぶん弱ってしまって、エサを変えたり、マメに散歩に連れ出したりしても、なかなか元気を取り戻してくれなかった。 それでも時間をかけて懸命に友好関係を築こうとしたオレの気持ちに何か感じ取るものがあったのか、今はとても懐いてくれるようになった。なので尚更可愛さがつのる。 「ベスっ、歌を歌ってやるぞー」 おまえは可愛いベス♪ ベスベスベス♪ 金色小麦の毛皮を着てますベス ドッグフードは嫌いですー オレの手料理食べるかいー この際調子外れになったのは気にしない。 こういうのは気持ちが大事だ。うん。 「なんか元気出てきた。ベス、ありがとうな」 千切れそうなほど尻尾を振り回すベスを見ていると、会って話すことが出来ないまま亡くなってしまった叔父さんのことが偲ばれる。 ベスをとても可愛がっていたという叔父さん。 叔父さんはいつか父さんが戻ってくる、そう信じていたのだと名尾さんが教えてくれた。それまでしっかり家を守っていくって。 突然の事故さえなければ、本当にそんな日が来たかもしれない。 そう思うと少し辛くて、悲しかった。 ベスに見送られながら部屋に戻ったオレは、部屋にある浴室でシャワーを浴びながら、よし、と気合いを入れる。 今更だけど領様に口止めしなくちゃな。 |