「andante -唄う花-」



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「それでは蓮様。今日も良い1日を」
「うん、ありがとう、牧田さん。行ってきます」
 ベテラン運転手の牧田さんはオレを降ろすと、狭いロータリーもものともせず、軽やかに車を走らせて学園の外へ出て行く。
 殆どの全校生徒が送迎を受けているものだから、混む時間なんかはすごいことになるのだけど、牧田さんはたとえそうなっても平然としたものだった。鮮やかなハンドルさばきでするするとオレを運んでくれる。
 入学して2週間が経ち、程々になれてきたオレは、なるべく早い時間に出かけるようになった。ひとつは混雑から逃れるため、ふたつめは朝早い時間に味わう学院の雰囲気が思いの外気持ちよかったため。
 牧田さんには迷惑をかけてしまうと思って黙っていたのだけれど、牧田さんは鋭くて、もう少し早い時間にお出かけになりますか、と聞かれてしまった。いえっ、でもっ、とあたふたしたオレに、にこにこと返答を待つ牧田さん。
 結局、凄腕運転手牧田さんにオレは諸手を挙げて降参の旗を振り、ありがたくも申し出ていただいた通り、早めに出ることにしたのだった。
 上履きに履き替える必要がないので、オレは生徒用の玄関から奥に進み、掲示板まで進む。
 音浜は選択制の授業が多いので、教室が変わったとか、担当教授がお休みだとか、目を通しておかないと後で面倒なことになるのだ。
「今日の予定変更なし、と。…ん?」
 パネルの中にやたらきれいな装飾が施された紙が貼ってある。
「右の者、本日放課後、第5会議室に来ること…って、オレ?」
「何々? 変わったこと書いてあった?」
 後ろからひょいと顔を覗かせたのは奈々原だ。
 奈々原も早めに登校してくるタイプなので、よく時間がかち合う。オレの視線の先を辿ると、奈々原は無言で掲示板の鍵を取り出した。それって職員室にしか置いてない鍵じゃ…。
「全く、音浜会はこれだから」
「オレの入学が不満なんだってさ」
「それ、誰が言ってた?」
 奈々原の瞳がきらりと光る。
 誰が聞いているとも分からない場所で領様の名前を出すのはまずいかと思って、オレははぐらかしたけど、結局昼休みには白状させられていた。
「聞いたよ、蓮くん。音浜会からの呼び出し状が掲示板に貼ってあったんだって? まったく、ひどいことをするね」
「あっ、カオ兄」
 止める間もなく抱き締められた。
 いや、カオ兄。確かに掲示板には貼ってあったけど、別にオレは何のショックも受けていないし、むしろ徒党を組まれて呼び出し伝言隊が押しかけてくるよりは良かったような。
 奈々原がカオ兄に話を通してくれたらしい。本日のお昼はカオ兄と一緒にとることになり、オレたちは揃って高等部学生会室まで来ていた。
 入学初日に1度来たことがあるんだけど、その時はカオ兄が貸しきりだって言って、カオ兄とふたりだけだったのに対して、今日はめいっぱい人がいる。何せ学生会役員勢揃い。
「少し顔色が良くないね、蓮くん。無理しちゃダメだよ?」
「うん」
「まずご飯にしようか。暖かいものが良ければ、作ってあげるよ。ここのキッチンにはわりと何でも揃っているから」
 え。キッチン?
 びっくりした。本当にある。これってオレが前に住んでいたアパートの台所より設備が整っているんじゃなかろうか。
「三ツ原先輩。俺たち弁当があるんで」
 そう奈々原が止めてくれなかったら、オレはついふらふらとキッチンに立っていたところだった。時々料理長の佐々木さんと厨房には入るけどさ、やっぱり邪魔しちゃ悪いと思って、ちょこちょこっと料理を作るだけだし、たまに突飛すぎるけど、カオ兄の作る料理って結構美味いんだよ。
 ふだんから学生会室で昼食をとっているんだという他の役員の皆さんもお弁当らしくて、キッチンを使うのはせいぜい珈琲を入れるときぐらいだそうだ。もったいない。
 広々とした応接間のソファに、オレたちは1年と3年とに分かれて座る。カオ兄だけ、新しく持ってきた椅子に座った。
 …カオ兄、その椅子ちょっと……全面白のムートン張りって汚れたらどうするんだよ……。せめてあっちのビロード張りにしておけってば…。
 カオ兄はやることなすこと全部上品に見えるから、その椅子に座ってもすごく様になるんだけど、オレはキャスター付きの皮椅子を引っ張り出して、交換した。この椅子もかなり立派だけど、拭けば汚れが落ちるし。
「こっちがいいの?」
「うん」
「分かった」
 カオ兄はにこにこと了承してその椅子に座る。ちょっと座高が高かったかな、と思ったけど、空気圧を変えたら、ちょうど良くなった。
「さてと。まずは自己紹介かな。蓮くん、お願いできるかな」
「1年E組、世儀蓮です。三ツ原先輩の従弟です。よろしくお願いいたします」
 オレは学生会の先輩方に向かって頭を下げる。
 ここでお互いを知らないのはオレと先輩方だけだ。
「3年E組、遠見征一郎。副会長だ」
 入学式の時に会った副会長さんだ。
 オレと違って銀縁の眼鏡がすごく様になっている。
「同じくE組、一ノ瀬恭吾(いちのせ きょうご)。会計。よろしく、蓮」
 すっと手を出して握手を求めてくる。
 良く言えばフェミニストって感じの雰囲気を持っている人で、悪く言えば女たらしというか。色男ってこういう人を言うんだろうなあと、握手しながら思った。
 軽く手のひらをきゅっと握られて、そのまま引っぱられた時にはびっくりしたけど。
 それは可及的すみやかな動作で隣の副会長遠見さんと、直属の部下って感じらしい会計補佐、吉岡くんに引きはがされた。
「薫に殺されたいのか」
「せっかく可愛い子なのに…」
 遠見さんにきつく睨まれてもどこ吹く風で、呆気にとられているオレにウィンクまでしてくれた。一ノ瀬さんは面食いだって奈々原が言ってたけど、守備範囲広すぎやしないか…?
「恭吾。分かっているよね…?」
「はいはいはい。分かっています」
 にこにことお怒り気味のカオ兄に一ノ瀬さんは諸手を挙げて降参のポーズを取った。
「ごめんね、びっくりしたでしょう。今は手綱が2本あるから、安心してね。僕は書記の柚木遥(ゆずき はるか)。ちなみにE組です。何の縁か、今期の学生会は全員E組なんだよ」
 ふわふわと光の中にうきあがる色素の薄い髪が、まるでウサギさんみたいだった。
 透きとおった碧の瞳は、まるで芽吹いたばかりの若葉みたいにきらきらしている。
「母がイギリス人なんだ」
「そうなんですか、すごくきれいな瞳の色です」
 ぽうっと見惚れながら言うと、柚木さんは小さく微笑んで、ありがとう、とオレの手を握りながら言った。
 硝子細工みたいに繊細な顔立ちに、ふんわりとした微笑みがすごく良く似合う。お伽話の王子さまってこういう感じじゃないだろうか。
 改めて室内を見回してみると、モデルの控え室みたいな美形揃いだ。
 学生会の選考基準は顔だろうか、と真剣に考えたくなる。誰も彼も華があって、目を引く。中でも飛び抜けて美しいのがカオ兄ではあるんだけど、カオ兄のそれはもはや平均の枠を大きくはみ出しているので、美貌の規格外。
 激しく場違いな場所にオレはいるらしい。
 オレの気後れを見越したように、カオ兄は自分の弁当箱の中からアスパラのベーコン巻きを摘むと、オレの口もとに運ぶ。
「蓮くん、どうぞ?」
「ありがと」
 オレの好物だ、それ。
 ぱくっ、とカオ兄の箸から行儀悪くもいただき、美味しさについにへらと笑ってから、はっと気がついた。ここ、家じゃないって、オレ。
「す、すみません…っ」
「気にしなくていいよ。薫が君にべた惚れなのは前から知っているから」
「君が入学することになってからのあの浮かれよう。万が一にでも君を退学させるなんてことになったら、後が怖い」
「冗談でも許さないよ。蓮くんの身は僕が守る」
「いやカオ兄…、それちょっと違うと」
 それではまるで悪の組織に狙われている正義の何かみたいだ。
 正義と悪は逆でも同じだけど。
 素早く否定したのにカオ兄は上機嫌で頷き、オレの弁当箱から玉子焼きをねだる。
 カオ兄はオレが作った玉子焼きが好きなんだよね。今回のは焦げもせずうまく作れたと思う。
「はい、カオ兄」
 勝手に持っていっていいよと差し出すと、玉子焼きとつくねレンコンとミョウガの梅酢漬けを持っていった。全部オレの作ったやつ。
 こうまできっぱり選ばれると、やっぱり料理長の腕はスゴイというか、オレももっと精進しないとというか。そんなに目立ったかな…?
 首を傾げているオレをよそにカオ兄はとても上機嫌で鼻歌まで歌いそうだった。
 なし崩し的にはじまった昼食にオレは改めていただきますを言い、お弁当を食べ始める。
 車での通学は時間に余裕があるので、最初は遠慮していたお弁当作りをオレは定期的にするようになった。
 なので今日は料理長の佐々木さんとの合作。今の父さんが好きな料理とかさ、佐々木さんも知りたいみたいで、なかなか話が弾むのが嬉しい。
 別の日だったらカオ兄にはもっと美味しい佐々木さんのお弁当をつまみ食いさせてあげられるんだけどな。でもそれを言ったら、カオ兄は違うと首を振った。カオ兄はオレの料理が好きらしい。…なんだかなあ。オレ、もっと美味く作れるようにがんばるよ。



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