「andante -唄う花-」



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 オレは試験だってことを忘れていた。
 音はいつもオレの意識をさらい、飲み込み、まるごとひとつになる。
 盛大な拍手は誰のものだったのか。
 チワワが無心になった顔でけんめいに拍手してくれるのには驚いた。
「すごいっ、蓮、ピアノうますぎっ」
 奈々原の感想はすごく分かりやすい。
「不思議だな、ピアニストの血を引いているのは三ツ原兄妹の方だろうに、才能があるのはそっちか」
 遠見さんのコメントも、正直な感じがする。
 譜めくりの途中で我に返ったらしいカオ兄は少し青ざめた顔でぱたぱたとオレに団扇で風を送ってくれた。顔がのぼせたみたいに熱い。オレちょっと息をするのを忘れていたかも。
 チワワは勝負を下りる、とうなだれた様子で言ったけど、そうはいかないのが音浜会というものらしかった。
「芸術には才能が深く関与する。これではまっとうな勝負とは言えない。より優れた紳士とは、体力にも自信があるものをいうだろう。運動能力を確かめるべきだ」
「たとえ蓮がそれに負けたとしても、すでに勝敗は決しているはずですよ」
「問題はそういうことではない。我々は彼が音浜生に相応しいかどうかを確認させてもらっている」
 むちゃくちゃだ。
 これには学生会全員が反論した。
 すでにかなりの時間を要しているし、これ以上は無意味だ。
 チワワは戦意を喪失しているし、オレが入学試験で不正をしたうんぬんは最初の口答試問で疑いが晴れているはずだと。
「君たちにとってそんなにも大切に守らなければならないお姫さまなのか? 世儀の名など名ばかり、正式にお披露目もされていないそれと付き合って何の得がある」
「ふざけるなっ。誰がお姫さまだ、誰がっ」
「れ、蓮くん…」
 慌てたようにカオ兄が止めたけど、聞き捨てならないぞ。
 オレは中学3年間、男らしさを追求してきたんだからな。
 桜朱恩のお姉様ならともかく、どうして見ず知らずの石頭にそんなことを言われなくちゃならないんだ。
「勝負を受ければいいんだろ、受けるよ。何するんだよ。短距離か、3on3か」
「場所確保の都合でプールしか開いていない。200メートル自由形はどうだ」
 水泳…?
 びく、っと体を揺らしたオレを石頭は鼻で笑った。
「もしかしてカナヅチか? ならば浮き輪を出してやろう」
「泳げる」
 三ツ原家のプールで少し泳いだことがあるだけだけど。オレは水泳の授業に出たことがない。
 言い切ってから、オレは少し困ってしまった。
 25メートルプールだとして、8往復。未知の世界だ。
 カオ兄も黙ってはいない。
「25メートル自由形。それ以外は認めない」
「25メートルだと。そんなもの、勝負にならない」
「なるかならないかなんてこの際どうでもいいよ。閉門時間を過ぎるヘマなんて、やりたくないし、やらせない」
 きつく言い切ったカオ兄に、石頭は時計を見て少し思案顔になった。
 閉門時間を過ぎると校内には一斉にセキュリティがかかる。
 前もって申請して、それが認可されれば多少過ぎても大丈夫らしいけど、けっこう面倒なことらしい。今回は未申請だ。
「50メートルだ。それなら時間的にも余裕がある」
 それなら何とかなるかな。…たぶん。
 オレが頷くと、カオ兄に睨まれた。もうちょっと粘れってことだと思うけど、オレ、いい加減帰りたいし、だいぶ疲れてきた。
 水着を用意して、ついでにゴーグルも。ぜんぶ購買に売っていて助かった。
「白いな、それに細いし」
 人のことは言えない癖に奈々原が人の体を上から下まで眺めてくださる。
 奈々原はけっこうな美少年だからじろじろ見ても何の問題もない。これが脂ぎったおじさんとかなら大問題かもだけど。
「お花は誰に?」
「渚姉さん」
 ナギ姉は正真正銘の師範持ちだし、これが無難ではないかと。
「ピアノは?」
「三ツ原先輩のお父さん」
 これは本当だ。
「水泳は?」
「三ツ原家のプールで少し」
「…そうなの?」
「うん」
 曖昧な表現だと思う。
 少しだけ競泳訓練を受けたことがある、とか。
 少したしなんでいる、とか。
 まさか溺れない程度に少しだけ練習しただけとは思っていないだろう。
 少し怪訝そうな奈々原にあっさり頷いて、オレはいったん姿を消していたカオ兄を掴まえた。今から勝負をするのに経験値はゼロに近いって、やばいよな。分かってはいるんだけど、正直に言えなくてごめん。
「カオ兄」
「兄さん、呼んだからね」
「……仕事中」
「そんなもの、飛んでくるに決まってる」
「ごめん。…でも、オレ、どうせなら勝ちたい」
 カオ兄は止めたそうな顔をしている。
 勝てるかなんて分からない。
 たぶん無理だと思う。オレは体力なんてない。
 オレとカオ兄の微妙な空気に、遠見さんが眉をひそめた。
「何か問題があるのなら、言ってくれればいい。すでにこんな勝負、無効だ」
「勝ってもらわなければならないと言っていた癖に」
「本気を出せば勝てる勝負でも投げ出しそうだったからな。牽制させてもらっただけだ」
 遠見さんははっきりしたものだ。
 ぐずぐず正直に言えないのはオレとカオ兄。
 別に言っても構わないんだけど、これはオレのわがままだった。
 オレ、自分で言うのもなんだけどふだんは結構丈夫そうに見えるしさ、今はまだ体育の授業がはじまっていないから、ごまかしが利くし。
 入学式の日には自転車に乗っていったけど。
 車通学なんて決まりがなくても、たぶん、自転車通学はダメになっていたように思う。夜には熱が出てしまったし、翌日倒れたし。
 徐々に馴らしていけばオレだって自転車通学ぐらいできる、と思っていたけど、音浜は少し遠すぎて。
 早朝ジョギングとかしたら、マシになるだろうか。
 健康のために夜道を歩き回っているおばさんもいるし、それに混ざるのも良いかも知れない。
「…蓮くん? 何かいけないこと考えているでしょう。いい? がんばらないで。むしろ負けてきて。分かった?」
 うわわ。カオ兄、まずいって。屋内プールは声が響くってば。
 案の定、向こう側から石頭が睨んでるよ。
 勝負を投げ出す負け犬が、とか語り出されたらどうしようと思っていたけど、カオ兄が艶然と微笑むと押し黙った。なんというカオ兄の微笑み使い。
「はじめます。位置へ着いて下さい」
 それぞれ準備体操をして、プールの真ん中に並ぶ。
 チワワは丈のないごくふつうの水着を着ていた。
 オレは太腿を覆うタイプ。
 1度これにすると他のは穿けなくなるんだ。
 いや、はじめて着たんだけどね。
 正直、ちょっと緊張していた。オレにしては珍しいことだ。
 隣のチワワなんてがちがちだけど。この勝負がどうなっても、カオ兄がチワワを恨むことはないと思うぞ。
「よーい」
 ピッと笛が鳴る。
 オレとチワワは揃ってプールに飛び込んだ。



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