「andante -唄う花-」



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 白い光が跳ねて、くるくると舞う。
 涼やかな流れが全身を包み、水の中で体が浮き沈む。
 手のひらで水を押し出せば、光の泡がきらきらと視界の隅に瞬いた。
 リズム良く、水の中を体が進んだ。
 スタッカート、テヌート、アルペジオ、トリル。
 で思い描くメロディラインは確かにある。けれど、それはどういうものかはっきり分からなくて、オレはぐるぐると同じような道筋を辿った。
 ここはどこだろう。
 いったいどこで道を間違えたんだろう。
 オレ、ちゃんと歩いてる? 進んでるよな?
 もどかしくて、不安で、とにかく気持ちだけが焦って。前に進むことだけしか考えられなくなるのに、前がどちらかも分からなくなってくる。
「勝者、世儀蓮」
 水音は途切れ途切れに響き、旋律は安定しない。
 空色の景色は水の粒で満たされた後、まるでそこに何もなかったようにかき消えた。
「蓮、しっかりしろ」
「毛布と、氷、はやくっ」
 腕ひとつ分の差、だったらしい。
 たぶんチワワはオレに合わせてくれたのだろう。そうでなければ説明はつかない。オレは瞬発力はあっても、その他はまるでダメだから。きっととんでもないのろのろ泳ぎだったはずだ。チワワはさぞ気を揉んだことだろう。遅い、遅いぞ、どうしよう、ってなもんだ。…ごめん、そう思わなくちゃいけないのはオレの方だよな。
 最後の勝負を終えて、君の入学を認めるとか何とか音浜会から言われて、握手をしたところまでは覚えている。ゴーグルを外しながら邪魔な前髪をかきあげただけなのに、滴り落ちてくる水滴をまともにかぶってしまったオレは、ばしばし瞬きを繰り返してさかんに余分な水分を出そうとしていたから、少々おざなりだった。
 それが石頭たちには不満だったのだろう。音浜会の皆さんはオレの顔に揃ってぴたりと顔を合わせたまま微動だにせず、オレに握手を求めて手を握ったまま石頭は全身を硬直させ、オレが手を離してもしばらくそのままの形でし腕を宙に浮かせていた。
 まさかとか、ありえないとか、すごいとか聞こえた気がするけど、そこのところはあんまり良く覚えていない。
 オレはけっこうふつうに、いつもより多少無表情だったらしいけど、受け答えをしていたようだ。さっくり別れの挨拶を告げ、むしろ言い渡すぐらいの勢いで話を打ち切ると、音浜会と別の更衣室に下がったらしい。そうして着替えようとしたところで、倒れてしまったようだった。
 オレの体温調節機能は少し壊れ気味なので、上がりすぎ、下がりすぎにうまく対応することが出来ない。それだけならいんだけど、それ以外も色々で。
「当分プールはやめておけ。いいな」
「うん」
 カオ兄があらかじめトオ兄を呼んでおいてくれたおかげで、大事には至らずに済んだのだけど、疲れピークなせいでうまく頭が回らず、ぽややっとした顔で頷くオレにトオ兄は眉間のシワをほんの少しだけ弛めて、ぽんぽんと頭を撫でてくれた。こういう時のトオ兄はほんとすごく優しい顔をしていると思う。
 毛布ごとオレの頭を抱いて膝に乗せたトオ兄は、そのままの格好で血圧計やら聴診器やらをアタッシュケースに片付けている。トオ兄が今も医師として勤めていたら、患者さんに怖がられつつも頼られたんだろうなあ。なんだか今はオレ独占状態で申し訳ない…。
「蓮。落ち着いたら、薫に声をかけてくれるか」
「…ん」
 んんん? カオ兄?
 つい少し前まできびきびトオ兄の助手を務めていたはずのカオ兄は、いつのまにか壁の隅にぽつんと立っていて、オレと目が合うと途端に泣きそうな顔になった。
 それさえすごく絵になるけど、そんな絵は不要です。
「こっち、来て…ほしいな」
 腕を伸ばすと、瞬間移動並みの早さで近寄ってきたカオ兄に届く。
 オレはうんしょよいしょと声をかけながら、カオ兄に腕をまわして半身を起こした。あ、オレまだ水着だ。肌は乾いてるから濡らさず済んで良いけど、カオ兄のシャツがくすぐったい。
「ごめんね、カオ兄。びっくりさせたよね」
「謝るのはこっちだよ。…こんなことに蓮くんを巻き込んで、それなのに、…」
 カオ兄は美しい顔を涙で濡らしながら、兄として失格だったとか、大切な蓮くんを守れなかったとか、めそめそと反省している。
 カオ兄はまったく悪くないよ。
 オレが望んで受けたことだし、この体が色々厄介なのは持ち主であるオレがいちばん良く分かっていることだ。
 それに一生懸命泳ぐって、なかなかないことだし、良い機会だった思う。
 次はがむしゃらに走るとか、なかなか素敵そうだよな。
「蓮。次はないぞ」
「……ぅわ、っはい」
 オレってば、考えていることがすぐ顔に出るんだろうか。
 慌てて取り澄ました顔をつくりながら、重々しく頷いてみせるとトオ兄はため息をひとつ、カオ兄まで苦笑いをうかべた。あれれ、つくりすぎたかな。
 でも良かった、カオ兄笑ってくれた。
「今回のことはお前たち2人の責任だ。蓮、限度を知れといつも言っているだろう。薫、いろいろとツメが甘い。分かっているな」
「はい、すみません」
 カオ兄はしおらしく頷いている。オレもこくこく頷いた。
 いつの間に拭ったのか、いつもの美しい顔でカオ兄は微笑み、立ち上がるといそいそとオレの服を持ってきてくれる。手伝われながら服を着替えて、ふうとひと息つき、いやいやまだ難関はあったのだと急いで手鏡を覗き込む。
 うまく髪がセットできない、と四苦八苦していると、トオ兄もカオ兄も呆れ顔で顔を見合わせた。若者のおしゃれ心をみくびるなよ。どんなに疲れていたって気合いを入れて取り組むんだからな。まあ、オレの場合はより地味にしようとしているんだけど。
「蓮くん、それ、もう…あんまり意味ないと思うけどね」
「疲れているときに余計なものを身に付けるな。眼鏡は外しておけ」
「それはそれで可愛いけど。うーん…。変装したいお年頃なのかな」
 カオ兄もトオ兄も好き放題言ってくれる。
 どうしたって目立つ2人だもんな。
 三ツ原家のみんなと出歩いた時の、あの視線の集めよう。それは三ツ原家の誰かひとりとオレ、という組み合わせでもちっとも変わらない。
 見られているのはカオ兄たちであってオレではないから、別にそれはそれで良いんだけど、後ろめたいものを抱えている人間は見られるのが好きじゃないんだって。オレの場合、女の子姿でみんなと出かけたこともあるから、前見た子…女の子じゃなかった? なんて思われるのは避けたいのに。
 領様の場合は特例異例の事故としても、お坊ちゃま校の音浜とお嬢さま校の桜朱恩。
 どこかでオレと蓮莉を繋げる人が出るかも、と思うと、出来るだけ素顔を晒したくなかった。
「それはともかく、帰る前にあれを何とかしないとな」
「あれ…?」
 すっかり忘れていたんだけども。ここはまだ学内で。
 ついさっきまで傍にいた学生会のみなさんが更衣室の周りでオレの出を今か今かと待っていてくれたのだった。



 ここにきて丈夫だけが取り柄です、みたいな誤魔化しが通用するわけもなく。
 トオ兄はオレのことを少々体は弱いが、気を使う必要はない。だが気を配ってやって欲しい、と小難しいこと言い放ったようだ。
 オレがオレに向けられた悪意というか、汚名というかを晴らすのは良いけど、オレが何かしでかす度に肝を冷やしてる身内としては、無茶はしてほしくないのが本音で、どうしようもない事情があるなら、身の安全の確保は最低限の条件だとか。
 高校生相手に、というか、まだ会って日も浅い相手を前にそんなことをのたまったらどん引きされるのがオチだなあ、と思ったけど、学生会の面々はただ者じゃない。
 なぜかオレは学生会書記補佐の座を与えられ、学生会の他のみなさんと固い握手を交わすことになった。少し嬉しそうな顔をしたカオ兄には、ぎゅうぎゅうに抱き締められた。
 …だからカオ兄、それつよすぎるって。締めてないから、潰してるから。




「で、なし崩しに了承させられたのか? 情けねえな」
「前にも聞いたし、その台詞っ」
 帰って来てオレの話を聞くなり、父さんは憎まれ口を叩く。
 まったく、この中年男は。
 また避ける間もなく耳温計を取り出されたけど、今回は安心だ。熱下がったもんね。父さんもちらっと確かめてすぐに仕舞ってくれた。
「今回のはさ、オレも納得したんだ。音浜会との真っ向勝負をして、後ろには学生会付きでさ。それで今更どちらとも関係ありませんというのもおかしな話だろ?」
「どちらとも?」
「そ。後で音浜会から、音浜会入会の資格有りと認めました、って。丁重にお断りしたけど」
「はーん。生まれはいい、どうやら育ちも悪くない。で、その顔だからな。プールじゃ、眼鏡外していたんだろう」
「ゴーグルしてたよ。ま、ちょっとふつうに素顔だったなあって気はするけど、そのへんあんまりはっきり覚えてなくて」
 あははと空笑いするオレ。
 でも、その顔ってなんだよ。
 女顔だと入会可能なのか?
「親父はどうだったわけ。音浜会には入らなかったのか?」
「入りそうか?」
 いや、まったく。
 父さんの場合、色々粗雑かつ粗野なんで音浜会側から願い下げだろうな。
 このところまた帰りが遅い父さんは、オレのいるソファの前にどさりと腰掛けると、書類の束をテーブルに置いた。家に帰っても仕事とは。
 もう少しゆっくりできるといいのに。秘書さんたちだって泊まり込みで仕事なんて申し訳なさ過ぎる。…のだけど、そんな秘書さんたちが妙に生き生きとして見えるのは…まあ、ええと、仕事が面白いって良いことだよな。父さんて糸が切れた凧みたいなところがあるし、ぴったりついていた方が安心できるのかも。
「見ていいぞ」
 いいと言われても。
「親父、こんな数字だらけの書類、読めるの?」
「ま、一応」
 知らなかった。オレは言われるまま手にとっては見たけれど、首を左から右へ。次は右から左に傾けて。それで正面に戻した。
 視線を変えたって分からないものは分からないよな。うん。自信満々言ってみて、ちょっと悲しくなってきた。父さんに出来てオレに出来ないとは…。いや、そんなのいっぱいあるんだけど、息子として沽券に関わる。たぶん。
「どうだ。手伝ってみる気はないか?」
「えー…?」
 オレ、跡継がないって言ってるじゃん。
 口を尖らせるオレに、父さんはまったく平気な顔で書類の束を増やしてくれる。
 それにそもそも、ここに何が書いてあるのか半分くらいしか分かっていない。手伝うにしたって、オレに出来るのはせいぜい読み上げ係とか、この散らばっている紙の束を番号順に並べ直すこととか。…って、思っている傍からこの中年男は……。
 適当に目を通しつつ手もとで紙の束をまとめ、分かる範囲できちんと積み直す。このまま廃棄するならともかく、どうも現在進行形みたいだし、雑に扱ってはこれを作ったのだろう秘書さんたちに悪い。
「そこは最近急成長を遂げている会社で、社長はおまえのふたつ上だ。その癖気難しいことで知られていて、こっちが仕事を蹴られかねない」
「蹴られてみるのも良い経験」
「まあそう言うなって。社長の名前を見てみろ」
 にやりと口もとを歪めた父さんを前に、オレはしぶしぶ手もとに視線を落とす。
 オレは堅実な道を歩むんだ。間違っても高校生企業なんてしないし、将来社長になる予定もまったくない。
 でも、その名を見て顔色が変わるのが自分でも良く分かった。
「フェルディナン・ド・ルクシオーラ」
「そう」
「なんで…、そんな…」
「音楽会の寵児、経済界の新星へ。世間は賑やかにかき立てているが、冗談や酔狂でここまでの売り上げは出せない」
 彼なら。本気で取り組んでいるんだろう。間違いなくどちらもを。
「この仕事はこちらから持ちかけたものだが。おまえ、友だちにメールアドレスも教えていないのか」
 どこかからかうような父さんの口ぶりに、勢いよく首を横に振った。
 気軽に言うけど。そんなことできるわけがない。
「家の住所も電話番号も教えていないよ。オレと彼は…知り合いって言っても良いか分からないぐらいの、間柄じゃないか」
「そうか? おまえの数少ない幼友達だと思うがな。彼の連絡先だ。彼は今日本に来ている。仕事をするにせよ何にせよ、会って話さないことには何も進まないだろ」
「……っ」
 小さな紙切れを受け取ったまま、指先が強張る。
 ────、ディ。

 "いつか、きっとだよ"

 幼さの残る可憐な声が聞こえた気がした。
 さらりと流れる金の髪と深い蒼色の瞳。
 誰もが見惚れる、フランスの貴公子。
 懐かしさで胸がつまった。できることなら、すぐにでも会いに行きたい。
 でも。…でもオレは、約束を守れていないんだ。
 他愛ない子どもの約束だけれども、だからこそ、友だちを裏切ってしまった、その後悔がオレを苛む。
 たぶんもう2度と会って話すことはない、そう思っていた幼い頃の友人。
 その彼の連絡先を握りしめたまま、オレは凍り付いたように固まり続けた。



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