"ディ、あのね、この曲ができたら、ディに会いに行くよ。それまではぼくとディは野ばらの垣根に隠されるんだ" "わかっているよ。レン、それまでちょっとのお別れだよね" "うん" オレの舌足らずなフランス語と、やさしく話すディの声。 あれからもう、何年も経ってしまった。 オレはあれ以来、メディア越しでしか、彼を見ていない。 一緒に遊んだのはひと夏にも足りない、短い期間だったと思う。でもオレが本格的に曲作りにはまるようになったきっかけは、たぶんあそこにあるのだ。 今や天才ヴァイオリニストの名を欲しいままにしている彼は。 あの日、あの時、オレと同じ場所に立って同じ音を追った、たったひとりの人だった。 それは昔々の言い伝え。 あるところにふたりの王子さまがいたのです。 王子さまは隣り合わせに並ぶ、ふたつの国の中で暮らしています。 王子さまはすぐお隣の国にももうひとり、王子さまがいることは知っていましたが、王子さまたちはお互いの顔も、名も知りません。 ふたつのお城はとても近いところに建っていましたが、お城の1番高いところに登っても、見えるのはお互いの城の上にある、小さな旗だけです。 ふたつの城の間には大きな野ばらの垣根があって、誰も行き来が出来ませんでした。 野ばらの向こうからはいつも楽しげな笑い声が響いてきます。 野ばらの向こうからは時々聞いたこともない、素晴らしい音楽が響いてきました。 「ああ、野ばら。野ばらよ。向こうはどんな国なのだろう。どんな王子さまがいるのだろう」 ふたりの王子さまは見ることの出来ない向こう側の国に、同じように思いを馳せています。 きっと素晴らしい国なのだろう。 きっと美しいものに満ちた、幸せの国があるのだろうと。 「ああ、野ばら。野ばらよ。ほんの少しでいいのだ。向こう側を見せてはくれないだろうか」 王子さまは野ばらに頼み込んで、ようやくほんの少し、枝と枝との隙間をあけてもらいました。複雑に絡み合った枝と枝は簡単には解けないので、それが精一杯でした。 するとどうでしょう。 朱い瞳の王子さまは白い瞳を、白い瞳の王子さまは朱い瞳を見ました。 「あっ」 と、そろって叫んで、ふたりは尻餅をつきました。 「大変だ。向こう側には朱い瞳の魔物がいるぞ」 「大変だ。向こう側には白い瞳の魔物がいるぞ」 野ばらの隙間からは、お互いの瞳しか見えません。 朱い瞳の王子さまは大慌てで兵士に弓矢を持ってこさせました。 白い瞳の王子さまも大慌てで兵士に長剣を持ってこさせました。 でも野ばらにあいた隙間はとても小さいので、とても矢も剣も通りません。 「ああ、野ばら。ほんの少しでいいのだ。もう少し、もう少しだけ、隙間を広げてはくれまいか」 野ばらは王子さまの懇願に負けて、少しずつ、少しずつ、隙間を広げてゆきます。 ざわざわと苦しげに葉が揺れました。 すると穴の向こうからは矢尻の煌めきが、あるいは剣の煌めきが見えるではありませんか。 王子さまたちは驚いて、魔物が武器を用意したのだと思いました。 それでは弓だけでも、剣だけでも、太刀打ちできません。 魔物はとてもとても大きな体と、とてもとても鋭い牙を持っているに違いないのですから。 王子さまたちはとにかく急いで、 100本の弓矢と100人の兵士を。 100本の長剣と100人の兵士を。 野ばらの垣根の前に集めました。 「魔物から国を守るのだ」 垣根の隙間は矢や剣の切っ先を通すことは出来ますが、兵士は通れません。無理に通ったら、野ばらを傷つけてしまいます。 王子さまは野ばらに頼みました。 「ああ、野ばら。美しき野ばらよ。この国を守る為なのだ。どうか我々を向こう側に通してはくれないだろうか」 野ばらは葉を震わせ、花びらを固くつぼめながら、いいえ、と言いました。 「いいえ、王子さま。向こう側へ王子さま方を向かわせるわけにはまいりません」 「ああ、野ばら。なぜそのようなことを言うのだ。この先には敵がいて、今この時にもそなたの体を打ち破って来るかもしれないのだぞ」 「いいえ、いいえ、王子さま」 野ばらは悲しげに首を振ります。 「わたくしは、こちらと向こう、どちらともの王子さまのことも知っています。王子さまはわたくしに棘があることを知っても、嫌ったりなどなさらなかった。わたくしの身に咲く薔薇を美しいと言って下さった。どちらの王子さまもです」 「ああ、野ばら。わたしは心を込めて、その言葉を野ばらにかけたが、向こう側は嘘をついたのかも知れない。わたしはあの恐ろしい色の瞳と、構えられた武器の煌めきを見たのだ」 王子さまの心は恐れで満たされて、野ばらの言葉はうまく届きません。 野ばらはうなだれ、涙をこぼしました。 「わたくしは100人もの兵を通せるほど、大きな穴をつくることは出来ません。ですから王子さま。王子さまが敵を倒すために、わたくしのこの身を切り裂いてください」 王子さまはためらいました。 敵は倒さねばなりません。 ですが野ばらは王子さまの大切な友人でした。 「…それは」 「王子さま。ですが、どうか、その前にお訊ねいただけませんでしょうか。向こう側に何があるのかを」 それは王子さまが何度も何度も訊ねたいと考えていたことでした。 魔物と話すのは恐ろしいと感じましたが、王子さまは思いきって声をかけました。 「おおい、向こう側」 「おおい、向こう側」 不思議なことに、向こう側から王子さまと良く似た声が返ってきます。 「おおい、聞きたいことがある」 「おおい、聞きたいことがある」 王子さまは大きく息を吸って、問いかけました。 「そちらに森はあるか」 「ああ、ある」 「なんと、森があるか」 「ああ。そちらにユービスカの花は咲いているか」 「咲いているぞ」 「なんと、咲いているのか」 「いちばん旨い食べものは何だ」 「ロロクの実を炒めたものが好きだ」 「好きな楽器はあるか」 「ああ、星琴だ。好きな曲はあるか」 「月の湖のほとりで、が好きだ」 「わたしもだ」 王子さまの意見は次々ぴたりと合っていきます。 王子さまたちの話を聞いていた兵士たちはお互いの顔を見合わせ、自分たちも向こう側に向かって問いかけます。兵士たちは弓矢を手放し、剣をおさめました。 姿形は分からないままなのに、人々の声にはだんだんと明るさがこもります。 王子さまは熱心に話し込み、思い切って言いました。 「会ってもっと話をしたい」 「人ひとりを通す穴ならば、枝を解くことが出来るかも知れません」 懸命に枝を揺らす野ばらに、王子さまと兵士たちは絡まった枝に手をかけ、解すのを手伝います。 向こう側からも、こちら側からも、一緒になって枝を解くのを手伝いました。 やがて人ひとりが通れるぐらいの、穴がひらきました。 王子さまはお互いの姿を見ました。少し服装は違うけれど、瞳や髪の色は違うけれど、ふたりの王子さまはとても良く似ています。 「あなたは誰ですか…?」 「あなたこそ誰ですか…?」 その声は確かに今まで話していた相手のものです。 ふたりの王子さまの疑問に答えたのは、野ばらでした。 「朱の瞳の王子さま。白の瞳の王子さま。あなた方はこの国の王子さまなのです。 わたくしの体がとても大きくなってしまったせいで、ひとつだった国がいつのまにかふたつになってしまいました。 王子さまは昔々、同じおじいさまとおばあさまを持った、家族なのです」 王子さまは驚いて、お互いの顔と野ばらを見ます。 その仕草は、とてもそっくりでした。 まるで長い間、一緒に育ってきた兄弟のように良く似ていました。 確かに国は野ばらで隔てられていたけれど、ずっとずっと近いところにいたのです。 同じ葉擦れの音、同じさえずりを聞いて育ったのです。 それからふたりの王子さまは、人ひとりが通れる小さな野ばらの門をくぐって、頻繁に行き来し合うようになりました。王子さまたちだけではありません。誰でも自由に通れる門でした。 ふたつの国は野ばらの門でひとつに繋がったのです。 ふたつの国はそうして、いつのまにか野ばらの国と呼ばれるようになりました。 |