「andante -唄う花-」



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 オレたちは野ばらの門をくぐって、友だちになったから。
 そのマナーハウスにはとても広い薔薇園があって、三ツ原のじいさまが連れて行ってくれたところだった。聞けばどこだと教えてくれるのだろうけれども、行きたいと言えば連れて行ってもらえたのだろうけど、オレはどちらもしないまま今日まで来てしまった。
 ふたりの王子さまが好きだったという「月の湖のほとりで」がないと、たとえ再会しても、うまくいかないと幼かったオレは思ったのである。
 そうしないと、野ばらを傷つけることになるかもしれない、争いになるかもしないと。
 でも。正直に言えば、オレは怖じけてしまったのだ。今ならそう分かる。
 その頃からすでに天才ヴァイオリニストとして知られはじめていたディのことを聞くにつけ、きっと彼はオレのことを忘れているだろうし、オレはディの弾いてくれた曲に深く感動したけれど、ディにとってはきっと当たり前の演奏をしただけで、みんな同じように心奪われるだろうから、オレの賛辞なんて、聞き飽きた台詞のひとつだったろうと。
 そんなことはない、って、思うには、色々なものが足りなくて、あの頃のオレは引っ込み思案なところがあって。
 時間が経つごとにオレの中から彼は遠ざかっていった。オレが勝手にそう思い込んでいったのだけれど、そうなるとますます曲は出来なくなってしまった。
 オレはメモと携帯電話をそれぞれ握りながら、つらつらと記憶の引き出しをあけていたんだけれども。
 まるでそんなオレを現実に引き戻すように小さな機械がふるえる。
 前もってふるえますよ、とか言ってくれないと本当に驚くから。びっくりだから。いや、まあ、そんな機能を要求することそのものがおかしいんだけども。半分飛び上がりながら、オレは画面も見ずボタンを押した。
「はい、世儀です」
「"やあ、レン。久しぶりだね。君のお父様にわたしの番号を渡してしまったのだけど、我慢できなくて、こっそり君の番号を教えてもらったんだ。…今大丈夫かな?"」
「っッ、ディ…!?」
「"…ああ、レン。そう呼んでくれるんだね、嬉しいな"」
「あ。あの。あ、の…、ディ…ほ、本物だよな?」
「"もちろん"」
 ずいぶん間抜けな台詞だったと思うけど、電話向こうの彼は大きく頷いてくれた。
 驚きもあったけど、オレが最初に思ったのは、謝らなくちゃってことだった。
 曲が出来ていないこと。会いに行けなかったこと。
 オレの中はそれでいっぱいになって、まぜこぜになって、言葉にする方法を見失う。
 記憶にある声よりもずっと大人びたディの声は穏やかなアルトで、でもその響きにはあの時と変わらない優しさが含まれている。
 あの時と同じ、穏やかに微笑むディの姿が見えるようだった。
 そう思うと言葉より先に目から涙がこぼれてきてしまう。
「"どうしたの、レン? 泣き虫は変わっていないんだね"」
「違うっ。これ、これは、目から出る汗なんだ」
「"困ったね。電話越しだと、拭ってあげられない。ねえ、レン。わたしはレンに謝らなくてはいけないことがあるんだ"」
 それはオレの方だ。
 そう言おうとしたのをディはやんわりと押し止める。優しい笑みをうかべて首を振る様が、電話越しなのに見えるみたいだった。
「"あの日、あの時、約束をしたよね。"月の湖のほとりで"が、出来たら会おうと。それまでわたしたちの姿は野ばらに隠される"」
「う、うん…」
「"わたしはその日がとても待ち遠しくて、楽しみで、でも3日も我慢できなくてね。レンを追いかけて日本に行ってしまったんだ"」
 えっ。
 想像もしなかったディの話はオレは涙も忘れて口をぽかんとあけてしまう。
 ディが、日本に来てた? あのあとすぐに?
「"レンのことを探して、探して。ようやく見つけられたのだけれど、でも、約束破ってしまったから。それが気まずくてね、今の今までレンに連絡をとることができなかったんだよ。でもたまたま、レンのお父様とお話しする機会が持てて。謝るなら今しかないと思ったんだ"」
「ディ、…お、オレも、曲が出来なくて、すぐ出来ると思ったのに全然で、それにディがすごく遠く感じて、海を渡っているんだからすごく遠いんだけど、でも…、たまたま見たテレビにディが映っていて…、オレ、そういえばディのこと、名前しか知らないと思って…。曲が出来ても、会うことは出来ないんだろうって思うと、オレ、何のメロディもうかばなくなってしまって……」
 しどろもどろになったオレの話を、ディはあの時みたいに黙って聞いてくれる。
 桜朱恩のクラスメイトはみんなのんびりオレのことを待ってくれたけど、近所の男の子たちはいつもオレが話すと少し急かして、焦れったそうで、終いには怒ってどこかに行ってしまうこともあったから、オレは少し、年の近い男の子と話すのが苦手になっていた。
 でもディにはそういうところが全然なかった。
 あの年でこういうのはおかしいんだろうけど、とても紳士だったのだ。曲をつくると言い出したのはオレで、そんなの無理だと分かったろうにディはオレの気持ちを尊重してくれた。そして今も、オレの後悔とか心苦しさを先回りして和らげようとしてくれる。
「"レン、…許してもらえるだろうか"」
「もちろんだよっ」
「"ありがとう。そう言ってもらえてとても嬉しい。今度は一緒に曲をつくろう?"」
「うんっ。あ、あのディ…。オレも、…オレもごめんなさい」
「"いいんだ。わたしもレンを許すよ。それでおあいこだね。また今度、必ず会おう"」
「うん。きっと」
「"今日は突然でごめんね。おやすみ、レン"」
「おやすみ、ディ」
 電話を切ってからも、オレはそのままその小さな機械を握りしめたまま呆然としていた。
 ごくごく短い会話。
 でも、長い時間を隔てたことがまるで夢や幻みたいに、すごく近くて。
 まるで、昨日も話した友だちみたいな、そんな感じがした。
 それからどれぐらい経った後だろう。はっと我に返ったオレは、ばたばたと足音を立てて父さんの部屋に駆け込んだ。
「た、たいへんなんだ、親父っ、ディ、ディから、電話がっ、今っ、それで会おうって、許してくれるってっ。ああっ、どうしよう、今度っていつっ。いつだろう」
「また電話すりゃいいじゃねえか」
 父さんはにやにや笑いながら口を挟む。
 それが出来たらこんな苦労はしないってば。
 今やディは世界に名だたるヴァイオリニストで、今は会社経営とかしていて、そんな相手の時間を使わせるなんて、とっても迷惑な話じゃないだろうか。
 そう思ったら、なんだかとんでもないことのような気がしてきた。むしろ会う約束なんてしてはいけないような。小市民らしくつつましく、テレビ越しぐらいで満足してなくちゃ。でもでも、うん、って言ったのに、また約束を破りたくない。
「分かったから、息をしろ。ほい、深呼吸」
「すうはあ。…で、どうしようっ」
「おまえなあ…。そんなに騒ぐと熱をだすぞ」
「そ。そうか、うん。あっ。ピアノ、ピアノ練習しなくちゃ。ディと少しでも合わせられるようにしないと」
 あわててきびすを返そうとしたのを首根っこを掴まれる。オレは猫じゃないってと思ったけど、喉が閉まってもごもごとしか声が出ない。なんとか逃れようとばたつくと、腕から肩へがっしり抱え込まれた。
「今日は寝ろ。倒れるぞ。入院したいのか」
 そんなものしたくないに決まっている。
 それでもぐずぐず未練を抱いていると、父さんは珍しく説教モードに入り、オレをベッドに放り込んでからそばでとうとう語った。
 そんな嬉しくない背景音楽付きで、おまけにディと何年ぶりかに話せた興奮では、今夜はちょっと眠れなくなるだろうと思いきや、昼の学校で疲れた体はあっさり眠りにさらわれ、その日はあっという間に過ぎていったのだった。



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