「書記の仕事はね、資料集めとか、作成とか、時には広報とかだよ。どれも難しくないし、少しずつ慣れてもらえばいいから。まず議事録起こしからはじめてくれると分かりやすいかな」 「はい、柚木先輩」 「さんでいいよ」 人前だから先輩を付けようと注意して使ったんだけど、さらりとだめ出しを喰らってしまった。柚木さんは相変わらずやわらかな髪の毛がぽわぽわっとしていて、見ているだけでほんわりしてしまう。 まるで操られた人のようにこくんと頷いたオレは、さっそくボイスレコーダーから拾った音声を文字に直す作業を始めた。 本日、学生会のお仕事初日。 柚木さんの説明はどれも分かりやすくて、これならオレでもできるかな…とちょっとだけ自信が持てた。はじめたばかりだし、できるできないの問題以前いといえばそうなんだけど。せめて最初ぐらいは前向きでもいいよな。 高等部学生会書記補佐。なんて漢字ばかりの役職をもらったのははじめてだ。任命書なるものを渡された時にはちょっとどきどきと眺めてしまったりして。こっそり辞書の間にでも挟んでおこう。父さんに見つかったら額縁に入れかねない。親ばかっていうかもはやそれは嫌がらせだ。 それにしても、ここの学生会室って改めて見るとものすごく豪華で開放的だった。 ひとつずつ余裕を持ってパーテーションで区切られた部屋はきちんと独立した場所として機能しているし、応接間やキッチンだけでなく、リラクゼーションルームなんてものまである。一企業として考えてもかなり恵まれた作業環境ではないだろうか。 どうしてこんなに整えられているのかというと、単純に忙しいんで少しでも快適に過ごせればと歴代学生会メンバーが改良に改良を重ねた結果らしかった。それにも限度というものがあると思うけど、新米補佐なので、コメントは差し控えさせていただきたいと思います。うん。 何事も新人は遠慮して過ごすべきだって、何かで読んだ気がするもんな。 パーテーションで区切られた室内はドアがないので、入口には暖簾か何かかけておいた方がいい。そういう話を前もって聞いていたので、オレはいらなくなった古い浴衣を解いて暖簾を縫っておいた。 ちなみに名尾さんの浴衣で、藍染めの地に太刀と竜を白く抜いてある。ものすごく格好いいのだ。粋とかいなせって、こういうのを言うんだな、と、オレは感心してしまった。憧れの男らしさが名尾さんには詰まっている気がする。 でもそれを名尾さんに言ったら、すごく微妙な顔をされた。若気の至りがいっぱいつまっているので、恥ずかしいらしい。思い出の品をもらっても良かったのかな、と心配になったけど、その辺はまったく気にしなくて良いと名尾さんが言ってくれた。なんというか、若い頃の名尾さんはけっこうやんちゃだったようだ。オレがそう言ったら、近くにいた父さんがなぜか、口もとをひくひくさせてたけど。うーん。言い方おかしかったかなあ。 暖簾は学生会のみんなにもおおむね好評で、特に奈々原は絶賛してくれた。同志だ。 こういうのが好きなら、家にたくさんあるから見に来る? って言ってくれたのは鈴島くん。オレは大喜びで頷いた。すっごく嬉しい。 時々柚木さんに確認を取りながら、議事録起こしを続けていると妙に楽しくなってくる。 でもあんまり画面を見続けると疲れてくるので、この辺でいったん休憩を入れるかな、というところでとんとん、と扉を叩く"声"がした。扉って言っても暖簾だから、ノックをしていただいてもまったく意味がなく、それを分かっているので相手も声でノック音を言ってくれるって寸法である。別になくても良いんだけど、こういうお茶目をするのがひとり。 「入ってもいいかな」 「どうぞ、カオ兄。あっ、カオ兄」 2回も呼んだのでカオ兄は怪訝な顔だ。ごめん、つい。オレもカオ兄に用があったのを思い出した。 のは、良いのだけれど、勢いよく立ち上がりすぎたらしい。 キャスター付きの椅子が軽快に吹っ飛んで破壊の道へまっしぐら。うわあ、なんてことだ。 「蓮くん、大丈夫?」 はい、大丈夫です。…間一髪。初日にして備品破壊とかどうよ。 カオ兄はいつも通りのたいへん美しい顔でにこやかに微笑み、焦っているオレの頭をぽふぽふと撫でた。大人しくなった椅子の上に、オレをひょいと座らせて背もたれに腕を置く。それってもしかしなくても、再発防止のストッパー代わりかな。そうなんだろうな。 「あ、あのね、カオ兄。あ。じゃなくて」 昨日あった電話のことを話したかったけど、ぐっと堪えた。 まずはここにカオ兄が来てくれた用件を聞かなくちゃ。 「ごめん。カオ兄のお話先に聞かせて? あとでオレの話も聞いてもらっていい?」 「ありがとう、もちろんだよ。でも、多分同じだよ。昨日ルクシオーラ伯爵から電話があったんだってね」 すごい。カオ兄はオレが話したかったことをすでに知っているらしい。 嬉しいのと気恥ずかしいのでオレは頬が赤らむのが分かった。 「う、うん…。そうなんだ。お、おおおオレの友だちの」 うっかりどもってしまったけど、友だち! 良い響きだなあ。 もちろん桜朱恩のクラスメイトだとか、奈々原たちとかだって友だちだけど、ディは年上だから、なんというかオレまで大人になれたみたいな、そんな気分。 「彼はオレのこと許してくれるって、言ってくれて。ほら、オレ…曲できなくて。約束してた"月の湖のほとり"で、なんだけど…。あっ、でも今日起きたら、ちょっとできてた」 起きるなり白い五線譜に向かったオレは朝食を食べる時も服を着替える時も紙から離れなくて、父さんに雷を喰らい、仕方なく紙に書き出すのはやめて口で音をとりながらここまで来たのだった。朝からオレの調子はずれな歌を聴かされた運転手の牧田さんはさぞ迷惑したことだろう。自慢じゃないけどオレは歌が下手だから。にこにこ笑顔で運転してくれたけど、帰りにちゃんと謝っておかないとな。 「蓮くん、ルクシオーラ伯は…」 妙なところでカオ兄の言葉が途切れたのは、オレの携帯電話が震えだしたから。今日は机の上に放り出してある。振動が1度で止まらないってことは電話だった。 「でないの? 蓮くん」 「え、でも今カオ兄と話してるし」 ただカオ兄と話をしているだけならともかく、一応学生会の仕事中だし。 「いいよ」 「いいの?」 もちろん、と頷くカオ兄に背中を押される形で電話を取った。相変わらず画面は見てない。間違い電話じゃなければオレの知り合いってことだし、下手に確認しようとすると誤って電話を切ったりもして…。機械へのアプローチは必要最小限、これに限る。 「はい、世儀です」 「"レン、こんにちは"」 「で、で、で、ディっ?」 「"でがみっつも付いたよ、レン?"」 くすくすと笑い声。 ディはなんだか機嫌良い気がする。 話の向こうからはざわざわと響きをもった声がした。あれ、ディ。どこにいるんだろう。この響き方からすると、ずいぶん大きな空間じゃないかな。 「ディ、いまどこにいるの?」 教えてくれた場所はこの辺りで一番大きい交響楽団お抱えの音楽堂で、なるほど音も響くわけだとオレは納得する。本日はそこの交響楽団との合同練習だったらしい。 のんきにふうんなんて頷いてしまったのだけど、何もなくてそんなことが開かれるわけもない。 「…え?チャイコフスキー?」 合わせたのは協奏曲1番。うわ聴きたいっ。でもどうしてそれを?と思ったら、再来月公演があるのだと教えてくれる。 うそ。知らなかった。 「ディの公演があるのっ?」 「"急きょね。決まったんだ"」 ディの出演をもぎとるなんて、何てすごいんだ。オレ、それを決めた関係者の方々の方向を向いて拝みたい。 聞けば演奏会が開かれるのは隣町にある大きなコンサートホールだった。あそこって何人ぐらい入ったかなあ。使われるのは大ホールだろうけど、オレは半べそだった。急に知っていきなり取る、なんて生やさしい競争率じゃないのだ、ディの演奏会は。 「オレ、がんばってチケットとるね…」 「"レン。こういう時は融通してね? って言わなくちゃ。友だちなんだからね。で、何枚ほしい?"」 「えっ、ええっ?」 ディ。ノリが良いというか、ツッコミ不要っていうか。 オレ、ぽやっとしているかな。だから話しについて行けないのかな。 チケットを融通してってオレ言うの?言っていいんだろうか、そんなこと。いやいや、いいわけないし。あ、でも、ディから今っ、友だちって言ってくれたような。すごいっ。でも、ええと、なんだったっけ?…オレ、ちょっと混乱。 「"あ、もしかして気を遣って言ってくれただけかな?レン、1度も来てくれないから、送りつけるのもどうかなと思って、ずっと保留にしていたんだけれど"」 「そんなっ。オレすごく聴きに行きたいよっ。いつも自力でとろうと頑張ったんだけど、売り切ればっかりで。一緒に行こうって誘われたこともあるけど、…オレ、自分でとりたくて…」 ああいうのって安い席から売れちゃうんだよな。だからオレはいつもとれなくて。 クラシックコンサートで数分で完売とか有り得ない感じだけど、ディの人気はほんとすごくて、とてもじゃないけど良い席なんてとれないから、オレはいつも涙をのんでテレビ放送とかCD化を待っていたのだ。 ディの演奏を聴きに行きたくないなんて誤解をされては嫌だから、そこのところは精一杯力説した。ディは相槌を打ちながら少し嬉しそうに、そうだったんだね、と頷いてくれた。良かった。オレはファンのひとりとして幾らでもディのヴァイオリンの素晴らしさを語れると思う。 「"チケットは必ずゲスト用に何枚か確保されているから、安心して。10枚ぐらいでいいかな?"」 誤解回避に安心してたら、またまたとんでもない展開にっ。 オレは半ばパニックを起こして、ほしいんだかほしくないんだか、いや、喉から手が出るほどほしいけど、10枚って。オレ、ディのファンの人たちに紐もって追いかけられるよ。もちろんこれはリアルにつるし上げ用の紐だ。 「いいい1枚で! 1枚お願いいたしますっ」 「1枚でいいの? 遠慮しなくていいんだよ」 「いえっ。1枚がいいですっ」 それ以上なんて畏れ多くて言えないってば。というかむしろ0枚でって叫びたい。オレひとりがディのコンサートに行くなんて身に余る光栄すぎて、その。 少々強気で言い切ると、遠慮しなくていいのに…みたいな感じでディがしぶしぶ頷いてくれた。 「"分かった。レン、学校は何時ぐらいに終わるの?"」 「えと、18時ぐらいかな」 部活をしていても、それぐらいに帰りましょうって規則だから、たぶん。 「"そう、じゃあその前に持っていくね。今からだと1時間後ぐらいになるけど、良いかな?"」 「うん、1時間後ね」 ふんふんと頷いて電話を切ったオレは、どうかしていたと思う。 ディと話せたぞ。と喜んでいた気分は、我に返った瞬間奈落に落ちた。1時間後って。 …今から1時間後だよな? まじで!? オレは通話の途絶えた電話を握りしめたまま、動揺のあまりほっぺたをぎゅっと両手で潰す。たとえていうならムンクのポーズ。 「どうしたの。蓮くん。お顔がフグみたいにかわいくなって」 「た、た、たいへんだ、カオ兄っ。ディが、来る…って」 こっそり書きかけの五線譜は持ってきてるけどっ。 でもあれじゃぜんぜん足りないし、出来ていないし、いや、でも、実際ディと会ったら全く違う方向に向かいそうな気もするから、この際、完成未完成は関係ないかもだけど。 でも、なんという行動力。 世界を股にかけるヴァイオリニスト兼社長は思い立ったら吉日なのか。 「どうしよう、カオ兄。ディが、ディが」 「落ち着いてね、蓮くん。心拍数をあんまりあげないでね」 カオ兄はさらりと無理難題。 心拍数制御ってどうやればいいのだろう。 でも確かに落ち着かなくちゃ。 カオ兄はオレの動揺のあまり支離滅裂な話を丁寧に聞き取り、事態を理解してくれたらしかった。 「なるほどね。そういうことならまず守衛室に連絡して、彼のゲスト登録をしておかないといけないな。征一郎、来賓入口の解錠と周囲の人払い。頼める?」 「構わないが、誰が?」 「フェルディナン・ド・ルクシオーラ」 「へえ、ずいぶんと大物だな。分かった」 たまたま通りかかって、軽く足を止めただけだったのに遠見さんはいきなりの話にも動じたふうもなく、あっさり頷いてどこかへ行ってしまった。 その足で柚木さんと一ノ瀬さんにも話を通しておいてくれたらしい。すぐに2人がやってきて、必要な支度について打ち合わせをはじめた。カオ兄たちの手際が良すぎて、オレは少し呆気にとられてしまう。 「な、なんかおおごと…?」 オレにとってはもちろんおおごとなんだけど、学生会の仕事を途中で止めてまで、みんなが奔走してくれるのを見ると、混乱から覚めた顔からじわじわ血の気が失せていく。 お手伝い初日にして、オレ、すごい迷惑をかけている…。ようじゃなくって、現在進行形で確実にかけまくりだった。 どうしよう。補佐なのに、きちんと補佐する前に仕事を増やしている。 音浜って、遊びに行きます、はいどうぞ、で済ませられるほど、簡単に部外者が立ち入れる学校じゃないし、音楽家としてかなり顔を知られているディが突如現れれば、学内にいる生徒は浮き足立ってしまうことぐらい、すぐに気づくべきだった。 「…オレ、外で会うって……今からでも…」 「ん? ああ、大丈夫だよ、蓮くん。これぐらいのこと、みんな慣れているからね。そのうち蓮くんも楽々采配がとれるようになるよ」 楽々かあ。そうなると嬉しいなあ。でもしょんぼりしてしまう。今のオレ、戦力外通告受け取ったとみて間違いない。 学生会の業務について片足踏み出したぐらいのオレでは何の力にもなれないのは確かだった。でもここでしょんぼりしていたって仕方ないし、つまらない。 オレは少し考えてから、キッチンにこもることにした。何をするにもまず腹ごしらえ。1時間後ならみんなの小腹も空いてくるだろうし、幸いにも冷蔵庫には幾つかの食材がつまっていた。 |